第21話『鉄壁の護衛と息苦しい日常』
県警本部での襲撃事件から、数日が経過した。
俺の日常は、あの日を境に一変していた。
「おはようございます、佐藤さん。本日の警護を開始します」
朝、俺が自室のドアを開けると、そこには既に寸分の隙もないスーツ姿の橘さんが直立不動で立っていた。
いつからそこにいたのか、全く分からない。
「お、おはようございます…」
そう。
あの日、俺を《Second Beat》に送り届けた後、彼女は一度本部に戻った。
そして、翌日の朝には専属護衛官として、再びこの場所に戻ってきたのだ。
玲子さんが「身内が襲われたんだ!あんたが一番信用できる!」と上層部に掛け合ったのと、橘さん自身が「最も事情に詳しい人間が護衛すべき」と志願した結果らしい。
かくして、俺の24時間体制の息が詰まるような新生活が始まった。
「まず、店の出入り口の鍵、窓の施錠状況、すべて確認済みです。異常ありません」
橘さんは、プロの目で店のセキュリティを厳重にチェックしていた。
俺の行動範囲は当面の間、この《Second Beat》の店内のみに限定された。
それはいい。
もとより外に出るつもりはなかった。
問題はその警護の徹底っぷりだ。
「あの、橘さん。トイレの中までは、さすがに…」
「ドアの外で待機します。ただし、施錠は許可できません」
「鍵もダメなのかよ!」
俺が風呂に入る時も、もちろん彼女は脱衣所で待機している。
年頃の男として、こんなに落ち着かない風呂がかつてあっただろうか。
玲子さんが、からかうように「覗かれないだけマシだと思いな」と言っていたが、そういう問題ではない。
俺は、プライバシーと引き換えに安全を手に入れたのだった。
そして、この状況が面白くないのは俺だけではなかった。
「はい、ユーマ。朝ごはんできたよ」
カウンター席に座る俺の前に、玲子さんが朝食のトーストを置こうとする。
その瞬間、俺の隣に座っていた橘さんが、スッと二人の間に割り込んだ。
「神崎さん。対象者から1メートル以内に、不要な接近は控えてください」
「あんたねえ!あたしはこいつの保護者みたいなもんなんだよ!?」
「だからこそ、公私混同は避けるべきです。朝食は、私が預かります」
玲子さんの手から皿を受け取った橘さんは、無言でトーストの匂いを嗅ぎ、裏返しフォークで軽く突き刺した。
毒見こそしていないが、それに近いチェックだ。
玲子さんのこめかみに青筋が浮かんでいる。
「…美咲」
玲子さんがそう呼ぶと、美咲さんがいつものように無言で俺の後ろに回り込み、コーヒーカップを渡そうとした。
しかし、そのカップが俺の手に触れる直前、橘さんの手が美咲さんの手首を掴んで制止した。
その動きは、あまりにも速く無駄がなかった。
関節技を極める寸前の、完璧な形。
「美咲さん。対象者に何か渡す場合は、必ず私を介してください」
「………」
「………」
美咲さんは、無表情で橘さんの手を振り払いコーヒーカップを彼女に手渡した。
二人の間に目に見えない火花が散っている。
俺は、その中心で胃を痛めながら差し出されたコーヒーを飲むしかなかった。
味が全くしない。
◇
息苦しい朝食の後、俺とサヤは次の配信に向けたネタ合わせを始めた。
部屋の隅では橘さんが腕を組み、鋭い視線でこちらを「監視」している。
正直、やりづらくて仕方がない。
「(やりづれえ…!世界一ウケない客が、目の前にいる!)」
俺が、プロの芸人とは思えないほど緊張でガチガチになっている一方、サヤは全く動じていなかった。
「橘さん、見ててね!あたしたちの新ネタ、すっごい面白いんだから!」
彼女は、SPみたいでカッコいいね!と、この状況を無邪気に楽しんでいる。
その大物っぷりに俺はさらに落ち込んだ。
「よし、いくぞサヤ!」
俺は気合を入れ直し例のリズムネタの練習を始めた。
サヤが電子ドラムパッドでビートを刻む。
「お寿司もいいけど、焼肉もいいけど」
「でもやっぱり、ポテトがナンバーワン!」
俺が、練習通りにツッコミを入れる。
「だから、なんでだよ!」
その瞬間だった。
部屋の隅で、真顔で監視していた橘さんの様子がおかしくなった。
口元がひくひくと痙攣している。
必死に何かをこらえている顔だ。
俺が、さらにツッコミを重ねる。
「第一、ポテトは主食になれないだろ!」
ビートが変わり、サヤが歌う。
「ポテトが主食に、なれないなんて」
「誰が決めたの、ワンパターン!」
「俺だよ!世間の常識だよ!」
俺たちの掛け合いがテンポアップするにつれ、橘さんの肩が、小刻みにぷるぷると震え始めた。
彼女は、必死に咳払いでごまかそうとする。
「…っ、ゴホン!」
「あ、橘さん笑ってる!」
サヤが、無邪気に彼女を指差した。
「笑っていません!」
橘さんは、慌てて後ろを向き壁に向かってしまった。
「…続けてください。業務の、記録中です」
その声は、明らかに震えていた。
その背中は、どう見ても必死に笑いを堪えている人のものだった。
俺は、そんな彼女の姿を見てようやく肩の力が抜けた。
どうやら、この鉄壁の護衛官にも弱点はあったらしい。
◇
笑いをこらえる橘さんという、奇妙なプレッシャーの中なんとかネタ合わせが終わった直後だった。
橘さんの携帯端末が、硬質な着信音を鳴らした。
彼女は一つ大きな咳払いをして、完璧な無表情に戻ると通話に出た。
その顔はもう先ほどの面影すらない、法の執行人の顔だ。
「はい、橘です」
「…はい。承知いたしました」
「はい。予定通り、明後日ですね。…はい、失礼します」
短い通話を終えた橘さんは、まっすぐに俺に向き直った。
その目に笑いの色はもうない。
「佐藤悠真さん。日程が決まりました」
「え…?」
「神木レイジ本人、および彼の所属事務所の弁護団との、公式な事実確認聴取会です」
俺は、息を呑んだ。
「それは、俺も…?」
「当然です。被害者であるあなたと、加害者である神木レイジ。双方が揃わなければ、聴取は始まりません」
橘さんは、決定事項を告げるように、静かに言った。
「日時は、明後日の午後2時。県警本部にて」
異世界漫才師 しゃけびーむ @aya0622
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