第14話『宣戦布告のあとで』

男性保護課のオフィスは、静まり返っていた。

その中で、橘梓の冷たく、そして硬質な声だけが響き渡る。


「…以上です。神木レイジ氏の扇動行為は、男性保護法第7条に抵触する可能性があります。直ちに当該動画の削除と、被害者であるサヤさんへの公式な謝罪を要求します」


彼女が電話で話している相手は、神木レイジが所属する大手芸能事務所の責任者だった。

しかし、電話の向こうから返ってきた声は、およそ反省している人間のそれとは程遠いものだった。


『あらあら、大袈裟ですわね。少しファンとじゃれ合っただけですのに』

「じゃれ合った、ですって?」

『ええ。それに、神木レイジは特別な存在ですのよ。少々のことで、目くじらを立てないでいただけますこと?』


橘の眉が、ぴくりと動く。

法を、あまりにも軽んじた物言い。


「特別かどうかを決めるのは、我々ではありません。法です」

『まあ、怖い。では、失礼いたしますわね』


一方的に、通話は切られた。

橘は、無言でスマホをデスクに置く。

その瞳の奥で、静かな怒りの炎が、めらめらと燃え上がっていた。



一方、その頃、《Second Beat》では。

ステージの上で、俺とサヤが次の配信に向けた新しいネタ作りに没頭していた。

初配信の時のような、和やかな雰囲気はどこにもない。

あるのは、ピリピリとした緊張感だけだ。


「違う、サヤ」


俺の声は、自分でも驚くほど冷徹に響いた。


「今の『間』は、0.5秒早い。お客さんが、今のボケを頭の中で理解して、笑う準備をする前にツッコんだら、笑いは半分になっちまうんだ」

「ご、ごめん…!」

「謝らなくていい。もう一回だ」


俺はプロの芸人として、一切の妥協を許さなかった。

次の相手は、ネットの世界の王様だ。

生半可なネタでは、勝てない。

完璧な、最高のネタを作り上げる必要があった。


サヤも、そのことは分かっているのだろう。

俺の厳しい指導に、文句一つ言わず、必死に食らいついてくる。

彼女の瞳から、以前のような「楽しそう」という感情は消えていた。

そこにあるのは、真剣な、アスリートのような光。

彼女の胸には、俺が昨日言った「俺が、あんたを守るから」という言葉が、強く刻まれているに違いなかった。

今度は自分がユーマの力になりたい。

彼の隣に、対等な相方として立ちたい。

その強い意志が、彼女の動きを、声を変えていた。


しかし、そんな二人の熱意とは裏腹に、ネタ作りは難航していた。

ある一つのフレーズ。

このネタの肝となるはずの、決め台詞。

それが、どうしてもうまくハマらない。


「くそ…なんか違うんだよな…」


俺は頭をガシガシと掻きながら、ステージの上で唸った。

休憩を挟んでも、良いアイデアは浮かんでこない。

サヤは、気分転換にと、愛用のドラムスティックを取り出し、テーブルを相手に軽い練習を始めた。


タタタン、タタ、タン、と。

小気味よいリズムが、静かなフロアに響く。

彼女は、そのリズムに合わせて、例の決め台詞を、色々なパターンで口ずさんでいた。


「『やっぱりポテトが、ナンバーワン!』っと…」

「『やっぱりポテトが、ナンバー、ワン!』…うん、違うな」

「『やっぱりー、ポテトがー、なんばーわーん!』…んん?」


その時だった。

ある特定の、少し跳ねたようなビートに乗せて彼女が言った決め台詞が、俺の耳に、奇妙なほど面白く響いたのだ。


「…サヤ、それだ!」

「え?」

「今の、もう一回やってくれ!」


言われるがままに、サヤは同じリズムで、もう一度セリフを言う。

間違いない。

面白い。

普通の漫才の喋り方じゃない。

音楽的なリズムに乗せることで、ただの決め台詞が、耳に残るキャッチーな「リズムネタ」に変化している。


「サヤ…お前、すげえな…」


俺は、心の底から感嘆の声を漏らした。

彼女のミュージシャンとしての才能は、漫才の邪魔になるどころか、俺一人では絶対に思いつかない、新しい武器になる。

俺の頭の中に、新しいネタの構成が、次々と閃いていく。


「よし…!」


俺たちが、確かな手応えを感じ始めた、その時だった。

玲子さんが、険しい顔でステージにやってきた。

その手には、通話状態のスマホが握られている。


「ユーマ、サヤ。橘さんからだ」


玲子さんは、スピーカーモードにして、スマホをテーブルに置いた。

電話の向こうから、橘さんの冷静な声が聞こえてくる。


『…先ほど、神木レイジの所属事務所に、正式に警告を行いました』

「それで、どうでしたか?」

『…残念ながら、完全に無視されました。彼らは、法に従うつもりはないようです』


フロアに、重い沈黙が落ちる。

やはり、一筋縄ではいかない相手だ。

だが、俺の表情は変わらなかった。

むしろ、その報告を聞いて、腹が据わった。


「そうですか」


俺は、静かに言った。


「…玲子さん、俺たちの次の配信、今週の土曜日の夜9時でお願いします」

「…いいのかい?」

「はい」


驚く玲子さんに、俺は続ける。


「それと、橘さんには、こう伝えてください」

「配信日までに、やれるだけの法的措置を、遠慮なく進めてほしい、と」


俺は、電話の向こうの橘さんにも聞こえるように、はっきりと言った。


「俺たちは、逃げも隠れもしませんから」


その冷静で、しかし力強い宣言に、玲子さんは不敵な笑みを浮かべて、頷いた。

法と、笑い。

二つの戦線での俺たちの反撃が、静かに始まった。

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