第14話『宣戦布告のあとで』
男性保護課のオフィスは、静まり返っていた。
その中で、橘梓の冷たく、そして硬質な声だけが響き渡る。
「…以上です。神木レイジ氏の扇動行為は、男性保護法第7条に抵触する可能性があります。直ちに当該動画の削除と、被害者であるサヤさんへの公式な謝罪を要求します」
彼女が電話で話している相手は、神木レイジが所属する大手芸能事務所の責任者だった。
しかし、電話の向こうから返ってきた声は、およそ反省している人間のそれとは程遠いものだった。
『あらあら、大袈裟ですわね。少しファンとじゃれ合っただけですのに』
「じゃれ合った、ですって?」
『ええ。それに、神木レイジは特別な存在ですのよ。少々のことで、目くじらを立てないでいただけますこと?』
橘の眉が、ぴくりと動く。
法を、あまりにも軽んじた物言い。
「特別かどうかを決めるのは、我々ではありません。法です」
『まあ、怖い。では、失礼いたしますわね』
一方的に、通話は切られた。
橘は、無言でスマホをデスクに置く。
その瞳の奥で、静かな怒りの炎が、めらめらと燃え上がっていた。
◇
一方、その頃、《Second Beat》では。
ステージの上で、俺とサヤが次の配信に向けた新しいネタ作りに没頭していた。
初配信の時のような、和やかな雰囲気はどこにもない。
あるのは、ピリピリとした緊張感だけだ。
「違う、サヤ」
俺の声は、自分でも驚くほど冷徹に響いた。
「今の『間』は、0.5秒早い。お客さんが、今のボケを頭の中で理解して、笑う準備をする前にツッコんだら、笑いは半分になっちまうんだ」
「ご、ごめん…!」
「謝らなくていい。もう一回だ」
俺はプロの芸人として、一切の妥協を許さなかった。
次の相手は、ネットの世界の王様だ。
生半可なネタでは、勝てない。
完璧な、最高のネタを作り上げる必要があった。
サヤも、そのことは分かっているのだろう。
俺の厳しい指導に、文句一つ言わず、必死に食らいついてくる。
彼女の瞳から、以前のような「楽しそう」という感情は消えていた。
そこにあるのは、真剣な、アスリートのような光。
彼女の胸には、俺が昨日言った「俺が、あんたを守るから」という言葉が、強く刻まれているに違いなかった。
今度は自分がユーマの力になりたい。
彼の隣に、対等な相方として立ちたい。
その強い意志が、彼女の動きを、声を変えていた。
しかし、そんな二人の熱意とは裏腹に、ネタ作りは難航していた。
ある一つのフレーズ。
このネタの肝となるはずの、決め台詞。
それが、どうしてもうまくハマらない。
「くそ…なんか違うんだよな…」
俺は頭をガシガシと掻きながら、ステージの上で唸った。
休憩を挟んでも、良いアイデアは浮かんでこない。
サヤは、気分転換にと、愛用のドラムスティックを取り出し、テーブルを相手に軽い練習を始めた。
タタタン、タタ、タン、と。
小気味よいリズムが、静かなフロアに響く。
彼女は、そのリズムに合わせて、例の決め台詞を、色々なパターンで口ずさんでいた。
「『やっぱりポテトが、ナンバーワン!』っと…」
「『やっぱりポテトが、ナンバー、ワン!』…うん、違うな」
「『やっぱりー、ポテトがー、なんばーわーん!』…んん?」
その時だった。
ある特定の、少し跳ねたようなビートに乗せて彼女が言った決め台詞が、俺の耳に、奇妙なほど面白く響いたのだ。
「…サヤ、それだ!」
「え?」
「今の、もう一回やってくれ!」
言われるがままに、サヤは同じリズムで、もう一度セリフを言う。
間違いない。
面白い。
普通の漫才の喋り方じゃない。
音楽的なリズムに乗せることで、ただの決め台詞が、耳に残るキャッチーな「リズムネタ」に変化している。
「サヤ…お前、すげえな…」
俺は、心の底から感嘆の声を漏らした。
彼女のミュージシャンとしての才能は、漫才の邪魔になるどころか、俺一人では絶対に思いつかない、新しい武器になる。
俺の頭の中に、新しいネタの構成が、次々と閃いていく。
「よし…!」
俺たちが、確かな手応えを感じ始めた、その時だった。
玲子さんが、険しい顔でステージにやってきた。
その手には、通話状態のスマホが握られている。
「ユーマ、サヤ。橘さんからだ」
玲子さんは、スピーカーモードにして、スマホをテーブルに置いた。
電話の向こうから、橘さんの冷静な声が聞こえてくる。
『…先ほど、神木レイジの所属事務所に、正式に警告を行いました』
「それで、どうでしたか?」
『…残念ながら、完全に無視されました。彼らは、法に従うつもりはないようです』
フロアに、重い沈黙が落ちる。
やはり、一筋縄ではいかない相手だ。
だが、俺の表情は変わらなかった。
むしろ、その報告を聞いて、腹が据わった。
「そうですか」
俺は、静かに言った。
「…玲子さん、俺たちの次の配信、今週の土曜日の夜9時でお願いします」
「…いいのかい?」
「はい」
驚く玲子さんに、俺は続ける。
「それと、橘さんには、こう伝えてください」
「配信日までに、やれるだけの法的措置を、遠慮なく進めてほしい、と」
俺は、電話の向こうの橘さんにも聞こえるように、はっきりと言った。
「俺たちは、逃げも隠れもしませんから」
その冷静で、しかし力強い宣言に、玲子さんは不敵な笑みを浮かべて、頷いた。
法と、笑い。
二つの戦線での俺たちの反撃が、静かに始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます