第9話『開演5分前と、招かれざる客』
『配信開始まで、あと5分です』
ステージ袖に置かれたノートパソコンから、玲子さんの声が響く。
楽屋として使っている倉庫部屋の壁は薄く、フロアの様子が手に取るように分かった。
俺は、ごくりと喉を鳴らす。
心臓が、腹の底から飛び出してきそうなほど、激しく脈打っていた。
「ユーマ、ガチガチじゃん!」
隣で屈伸運動をしていたサヤが、楽しそうに笑いながら俺の背中を叩く。
「文化祭の前みたいで、あたしはすっごいワクワクしてきた!」
「こ、これは武者震いだよ…」
「そっかー!あたしも武者震いしてきたー!」
そう言って、彼女はぶんぶんと腕を回し始めた。
この天真爛漫さが、正直うらやましい。
俺は、これが初舞台ではない。
それなのに、いや、だからこそ、怖いのだ。
滑った時の、あの冷たい空気。
無関心な視線。
それらが、トラウマのように蘇ってくる。
ガチャリ、と楽屋のドアが開いた。
顔を出したのは、玲子さんと、その後ろに隠れるようにしている美咲さんだった。
「ユーマ、サヤ、そろそろ時間だぞ。準備はいいかい?」
「はい!バッチリです!」
サヤが、ドラムスティックを掲げて元気よく答える。
俺は、こくこくと頷くのが精一杯だった。
そんな俺を見て、玲子さんはニヤリと笑う。
「まあ、気楽にいけや。客は、カメラの向こうにしかいないんだからさ」
「…はい」
美咲さんが、そっと俺たちに水の入ったペットボトルを差し出してくれる。
その無言の激励が、少しだけ俺の心を落ち着かせた。
よし、大丈夫だ。
隣には、最高の相方がいる。
俺たちの後ろには、最高の仲間がいる。
「さあ、行くか!」
俺が気合を入れ直し、ステージへと向かおうとした、その瞬間だった。
バン!
楽屋の扉が、信じられないような勢いで、叩き開けられた。
そこに立っていたのは、鬼のような形相の橘梓さんと、その背後に控える警察官だった。
「た、橘さん!?」
俺の驚きの声に、彼女は一切構うことなく、冷たい視線で俺を射抜く。
「配信は中止しなさい、佐藤悠真さん」
「え…?」
「あなたのSNS投稿が、現在ネット上でどれほどの騒ぎになっているか、理解していますか?」
橘さんは、手に持っていた端末の画面を、俺の目の前に突きつけた。
そこには、俺たちの写真を使ったネットニュースの記事が、ずらりと並んでいた。
「あなたの身の安全を確保するため、これ以上の活動は許可できません。男性保護法に基づき、この配信の中止を命じます」
冷たく、有無を言わせぬ口調。
それは、俺の心をへし折るには、十分すぎるほどの威力を持っていた。
ああ、やっぱり、ダメなのか。
この世界では、俺は、芸人をやることさえ許されないのか。
膝から、力が抜けていく。
「…待ちなよ」
俺の前に、玲子さんが立ちはだかった。
「あんたの言うことも分かる。でも、こいつの配信は、あんたに止めさせるわけにはいかない」
「神崎さん。これは職務です。彼の安全に関わる…」
「分かってるよ!だから、あたしが全責任を持って、こいつの安全は守るって言ってるんだ!」
玲子さんは、一歩も引かずに橘さんを睨みつける。
その背中が、今はひどく大きく見えた。
そうだ。
何を、諦めかけているんだ、俺は。
やっと見つけたんだぞ。
もう一度、芸人として立てる場所を。
笑ってくれる観客を。
隣で、一緒に戦ってくれる相方を。
それを、こんな形で、諦めてたまるか。
俺は、崩れかけた膝に、ぐっと力を込めて立ち上がった。
そして、玲子さんの隣に並び、橘さんの目を、真っ直ぐに見つめた。
「中止は、できません」
「……何ですって?」
「これは、俺がやりたいことなんです。俺は、芸人なんです。人前で、笑わせて、それで生きていきたいんです」
「隠れて、保護されて、ただ生きるだけなんて、俺はもうごめんだ!」
俺の魂からの叫びだった。
隣で、サヤも「あたしも、ユーマとこれやるの、すっごい楽しみなの!」と叫んでいる。
俺たちの覚悟を前に、橘さんは、ぐっと唇を噛みしめた。
しばらく、重い沈黙が流れる。
やがて、彼女は深いため息をついて、こう言った。
「…分かりました。あなたの意志は、理解しました」
「ただし、私もここで見届けさせていただきます。何か問題が起きるようなことがあれば、その時は、即刻中止です」
「…ありがとうございます」
開演まで、あと1分。
緊張感が、再び楽屋を支配する。
だが、それはもう、先ほどまでの恐怖とは違う、心地よい緊張感だった。
俺は、闘志に燃えながら、腕を組んで成り行きを見守っていた橘さんの方を、ふと振り返った。
そして、自信満々の笑みを浮かべ、ビシッと彼女に指をさして、言い放った。
「いいでしょう。橘さん、あなたに……」
一呼吸、溜めて。
「本当のお笑いというものを見せてあげますよ」
シーン……。
時が、止まった。
俺の渾身の決め台詞は、静まり返った楽屋に、虚しく響き渡った。
橘さんは、眉一つ動かさず、無表情で俺を見ている。
「…?はあ。ご随意に」
「……え?」
そして、隣にいたサヤが、不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
「ユーマ、どうしたの?急にカッコつけて」
「……」
玲子さんと美咲さんも、ぽかんとした顔で俺を見ていた。
ああ、そうか。
そうだよな。
この世界に、美味し〇ぼなんて、あるわけないもんな。
顔から、ぶわっと火が出るのが分かった。
恥ずかしい。
死ぬほど、恥ずかしい。
「い、いや、なんでもないです!さあ、行こうサヤ!」
俺は、その羞恥心をごまかすように、サヤの手をぐいと引いて、ステージへと走り出した。
『さあ、お待たせいたしました!間も無く、配信スタートです!』
玲子さんのアナウンスと、軽快なオープニングBGMが、高らかに鳴り響いていた。
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