第4話『保護対象と身分証明』
倉庫を改装したという簡素な部屋で、俺は目を覚ました。
差し込む光はなく、部屋の中はまだ薄暗い。
身体を起こすと、ギシリとベッドのスプリングが軋む音がした。
(…夢じゃ、なかったんだな)
昨夜の出来事が、洪水のように頭の中になだれ込んでくる。
異様に女性ばかりの街。
「芸人」という言葉が通じない世界。
そして、たった5人だけの観客がくれた、温かい笑い声と拍手。
(俺、ウケたんだ…)
その事実が、ずっしりとした重みを持って、俺の心にすとんと落ちてきた。
オーディションで滑り続けた日々が、遠い昔のことのように思える。
これからどうなるのか、全く分からない。
それでも、胸の中には確かな希望が灯っていた。
俺はベッドから出ると、店のメインフロアへと続くドアを開けた。
バーカウンターの中では、玲子さんがノートパソコンを広げて何か作業をしており、その隣で美咲さんが静かにグラスを磨いていた。
昨夜の片付けの残りだろうか。
カウンターには、二人分のコーヒーカップが湯気を立てている。
ライブハウスの静かな朝。
その穏やかな光景に、ユーマは少しだけ安堵する。
「お、起きたかい、ユーマ」
「おはようございます…」
「よく眠れたかい?」
「はい、おかげさまで…」
俺が頭を下げると、玲子さんは「そりゃよかった」と笑い、新しいコーヒーカップに湯を注いでくれた。
その時だった。
カラン、と。
店の入り口にあるドアベルが、乾いた音を立てた。
「ん?こんな朝早くに誰だい」
玲子さんが訝しげに呟く。
ドアを開けて入ってきたのは、二人の女性だった。
一人は、警察官の制服を着ている。
そして、もう一人は、黒いスーツを隙なく着こなした、怜悧な雰囲気の女性だった。
俺の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
警察?なんで?
スーツの女性は、店内をすっと見渡すと、俺の姿を認めてまっすぐにこちらへ歩いてきた。
その鋭い視線に、俺は身を固くする。
「あなたが、昨日こちらで保護されたという男性ですね?」
俺がこくりと頷くと、彼女は手帳を取り出した。
「わたくし、県警本部・男性保護課の橘梓と申します。昨夜、こちらの神崎玲子さんからの通報を受け、正式な手続きに参りました」
男性保護課。
また聞き慣れない単語が出てきた。
「保護」という言葉の意味も、俺にはよく分からない。
ただ、警察官が一緒にいるという事実が、俺の不安を極限まで煽っていた。
(俺、何かやらかしたのか!?不法侵入とか!?)
俺が顔面蒼白になっていると、橘さんと名乗った女性は、冷静な口調で続けた。
「驚かなくて結構ですよ。これは、身元不明の男性が発見された際に、必ず行うことになっている正式な手続きです。あなたの身元を確認し、保護台帳に登録する必要があります」
「だ、台帳…」
「はい。ご協力、お願いします」
有無を言わせぬ口調だった。
俺は観念して、こくこくと頷く。
「では、いくつか質問します。まず、お名前から聞かせいただけますか?」
「さ、佐藤悠真です」
「サトウ…ユウマさん、ですね」
橘さんは手元の端末に俺の名前を打ち込みながら、続けた。
「生年月日は?」
「平成15年の…」
「平成…15年。なるほど。では、何か身分を証明できるものはお持ちですか?」
「あ、はい。免許証なら…」
これさえ見せれば、すぐに終わるはずだ。
俺はそう思い、自信満々に財布から運転免許証を取り出し、橘さんに手渡した。
しかし、それを受け取った橘さんの表情が、すっと固まった。
彼女は、免許証の表面と裏面を、何度も食い入るように見比べている。
隣の警察官も、それを覗き込んで眉をひそめた。
「…何です、この様式は?」
「え?」
「発行元の公安委員会の名称も、元号表記も、現行のものとは全く違います。ですが…」
橘さんは、指で免許証の表面をなぞる。
「偽造にしては、あまりに精巧すぎる…。というか、偽造する意味が分からないほど、細部が違いすぎる…」
彼女の言葉に、俺は「え、そんなはずは…」と声を漏らす。
俺が数年前に更新した、正真正銘、本物の免許証だ。
「佐藤悠真さん。データベースで照会をかけますが、よろしいですね?」
「は、はい、どうぞ…」
橘さんは、俺の免許証に書かれた情報を元に、端末を操作し始めた。
静寂が、店の中を支配する。
俺は、緊張で喉がカラカラに乾いていた。
やがて、ピ、と電子音が鳴り、橘さんが顔を上げた。
その表情は、深い困惑に彩られていた。
「…該当者、なし。ですね」
「……え?」
「この国に、あなたの言う生年月日、本籍地を持つ『佐藤悠真』という人間は、一人も登録されていません」
「そ、そんなはずありません!もう一度、調べてください!」
「何度もやりました。戸籍情報、犯罪歴、一切の記録が存在しません。あなたは…」
橘さんの視線が、鋭くなる。
だが、それは単なる不審なものを見る目ではなかった。
前例のない、理解不能な事態に直面した、専門家の戸惑いの色だった。
「あなたは、一体、誰なんですか?」
自分が、存在しない?
この国に、俺という人間が、最初からいないことになっている?
その事実に、俺の頭は真っ白になった。
足元から、世界が崩れていくような感覚。
「…連れて行きます。本部で、詳しくお話を伺う必要があります」
橘さんが、警察官に目配せした、その時だった。
「待ちなよ」
玲子さんが、俺と橘さんの間に割って入った。
「この子は記憶がないだけだよ。悪い奴じゃないさ」
「しかし、神崎さん。彼の身元が不明である以上、我々には…」
「それに」
玲子さんは、橘さんの言葉を遮って、続けた。
「こいつの身元なら、あたしが保証する。なにせ、このビルのオーナーは、あたしだからね。住む場所も仕事も、あたしが面倒見てやる」
その言葉に、俺だけでなく、橘さんたちも目を見開いた。
この店の、いや、このビル全体のオーナー?玲子さんが?
「有力な身元引受人がいる、ということですか…」
橘さんは、しばらく腕を組んで考えていた。
やがて、彼女はため息を一つついて、こう言った。
「…分かりました。今回は、神崎さんの監督下にある『保護観察』という扱いにしましょう。ただし、何かあればすぐに通報すること。いいですね?」
「ああ、分かってるよ」
橘さんたちは、いくつか書類にサインをさせると、嵐のように去っていった。
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす俺と、いつもと変わらない玲子さん、そして美咲さんだった。
「…あの」
「ん?」
「助けてくれて、ありがとうございます…」
俺がそう言って頭を下げると、玲子さんは、悪戯っぽく笑って俺の頭をわしわしと撫でた。
「…そういうわけだ。まあ、ごちゃごちゃ考えるのは後だよ」
「……」
「あんたは今、ここにいる。それだけで十分だろ?ゆっくり思い出せばいいさ」
「……はい」
「…それまで、ウチにいなよ」
その言葉が、俺の心の深い場所に、じんわりと染み渡っていく。
自分が何者でなくても。
帰る場所がなくても。
ここにいていい。
そう言われた気がした。
俺は、もう一度、深く、深く頭を下げた。
こうして、俺の新しい日常が、本当に始まったのだった。
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