第2話『マイクと歓声と違和感』

重い鉄の扉を開けた先は、俺が想像していた熱気とは程遠い、静かな空間だった。

フロアに客の姿はない。

ステージの上では、三人の女の子が楽器を手に、音合わせのようなことをしているだけだった。

ドラムの子が軽くビートを刻み、ベースの子が指を慣らすように弦を弾く。

ギターの子はアンプのつまみをいじっている。

客のいないライブハウス。

それは、売れない芸人だった俺にとって、見慣れた光景のはずなのに、今はひどく心細さを煽る。


俺は所在なく、バーカウンターの方へと歩を進めた。

カウンターの内側には、二人の女性がいた。

一人は、腕を組んでステージを眺めている。

肩まで伸びた黒髪を無造雑に束ねた、気の強そうな顔立ちの女性だ。

もう一人は、グラスを黙々と磨いている。

切りそろえられたボブカットで、どこか影のある、感情が読みにくい雰囲気をしていた。


俺の足音に気づいたのか、気の強そうな女性の方が、ゆっくりとこちらを振り向いた。

そして、俺の姿を認めるなり、その大きな目をさらに丸くする。


「……男?」


驚きと、それ以上に強い好奇心が混じった声だった。

まるで、喋る犬でも見たかのような反応だ。


「こんな場所に何の用だい?あんた」


彼女はカウンターから身を乗り出し、俺を値踏みするように見つめてくる。

その時、もう一人のボブカットの女性が、すっとカウンターから出てきた。

そして、何の言葉も発さずに、俺の後ろに回り込む。

俺は思わず「え?」と声を漏らした。

彼女は俺の背中に鼻を近づけ、くんくんと、まるで犬のように匂いを嗅ぎ始めた。


「ちょ、ちょっと何してるんですか!」


俺が慌てて飛びのくと、彼女はまたすっと元の位置に戻り、グラス磨きを再開した。

何事もなかったかのように。

気の強そうな女性は、その様子を面白そうに眺めている。


「ははっ、驚いたかい。こいつは美咲。見ての通り、ちょっと変わってるんだ」

「は、はあ…」

「あたしは神崎玲子。ここの店長だ。で、あんたは?」


玲子と名乗った店長は、顎で俺をしゃくって問いかける。

この状況、どう説明すればいいんだ。

道に迷って、気づいたら女性しかいない街にいました、なんて言っても信じてもらえるわけがない。


「俺は佐藤悠真って言います。その…ちょっと道に迷ってしまって」

「へえ、道に迷ってわざわざ地下に?物好きな奴だね、あんた」

「それが、自分でもよく分からなくて…」


俺はしどろもどろになりながら、自分が芸人であることを付け加えた。

少しでも、素性を明かした方が安心してもらえるかもしれない。

そう思ったからだ。

だが、その言葉は、予想外の反応を生んだ。


「げーにん?」


玲子は、首をこてんと傾げた。

その隣で、美咲もグラスを磨く手を止め、不思議そうに俺を見ている。


「芸人? なんだいそれは?新しい楽器の名前かい?」

「え…楽器?」


通じていない。

「芸人」という単語そのものが、彼女たちには未知の言葉らしい。

まさか。

そんな馬鹿なことがあるか。

この街の連中は、「お笑い」という文化そのものを知らないというのか。


俺が絶句していると、玲子はニヤリと口の端を吊り上げた。

その目は、面白いオモチャを見つけた子供のようだった。


「芸人とやらが何だか知らないが…あんた、何か面白いこと、できるんだろ?」


そう言って、彼女はステージを親指で指し示した。

ステージの上では、練習を終えたバンドメンバーたちが、不思議そうにこちらを見ている。


「ほら、ちょうどステージも空いてる。あいつらを客にして、何かやってみなよ」

「ええっ!?」

「あたしたちを楽しませてくれたら、あんたの質問にも答えてやる。どうだい?」


完全に、面白がられている。

だが、俺に断る選択肢はなかった。

この訳の分からない状況で、情報を得るためには、彼女の無茶ぶりに乗るしかない。


「…分かりました。やりますよ」


俺はヤケクソ気味にそう答えると、ステージへと向かった。


観客は、たったの5人。

バーカウンターから見下ろす玲子と美咲。

そして、ステージの目の前に座り込んだ、バンドメンバーの女の子たち。

クールそうなベースの子。元気そうなドラムの子。落ち着いた雰囲気のギターの子。

全員が、好奇心に満ちた目で俺を見つめている。

完全に、アウェイだ。


俺はステージの中央に置かれたマイクスタンドの前に立った。

冷たいマイクを、そっと両手で握りしめる。


その瞬間、すぅっと頭が急速に冷えていくのを感じた。

さっきまでの混乱と不安が嘘のように消え、目の前の光景が鮮明な「ネタ」へと変わっていく。

恐怖は、心地よい緊張感へ。

焦りは、観客を観察する冷静さへ。

身体の芯に、いつもの熱が静かに灯る。

ああ、ここが俺のいるべき場所だ。


「──どうもー!ご紹介にあずかりました、佐藤悠真ですー!」


俺は、満員の客席に向けるのと同じ声量で、高らかに叫んだ。

5人の観客は、俺のいきなりの大声に、びくっと体を震わせる。


「えー、お客さん5人!しかも全員女性!ありがとうございます!」

「僕が昔やってたコンビのファン感謝デーより人が少ないですけども!盛り上がっていきましょう!」


玲子たちは、俺が何を言っているのか分からず、ポカンとしている。

いいぞ、この空気。

滑り慣れてる俺にとっては、むしろ最高の舞台だ。


「いやー、しかし本当に女性しかいないんですね、この街は」

「さっきカウンターにいたお姉さんなんて、僕の後ろから匂い嗅いできましたからね」

「犬じゃないんですから!一応、芸人なんですけども!」


俺がそう言って美咲の方を見ると、彼女は顔色一つ変えずに、じっと俺を見つめている。

その隣で、玲子が「こいつ…!」とでも言いたげな顔で俺を睨んでいた。


「あ、でも分かりますよ。男が珍しいんでしょ?たぶん」

「僕も逆の経験ありますからね。男子校だったんで」

「入学して3年間、マジで母親とコンビニの店員さんとしか喋らなかったですから!」

「文化祭に来た女子の匂いだけで、ご飯3杯いけましたからね!…っていう、僕の悲しい話は置いときまして!」


軽快なテンポで、自虐を交えた漫談を続ける。

すると、それまでポカンとしていた観客の一角が、動いた。

バンドのドラムを担当していた、元気そうな女の子だった。


「ぶふっ…!」


彼女が、たまらず吹き出したのだ。

その一吹きが、固まっていた空気を揺さぶる。

隣にいたベースの子も、つられて「ふふっ」と笑い声を漏らす。


一つの笑いは、伝染する。


「え、なに?今の面白かった?」

「ていうか、男の人の声って、あんなに低くて響くんだ…」


一度火がつけば、あとはもうこっちのものだ。

俺は自分の置かれた異常な状況、男女比の違和感、玲子と美咲の反応、その全てをネタに変えて、喋り続けた。

それは、俺の魂の叫びだった。


やがて、5人の観客は、全員が腹を抱えて笑っていた。

玲子も、美咲でさえも、その口元には確かな笑みが浮かんでいる。


「──というわけで、そろそろお時間です!お相手は、佐藤悠真でした!」


ネタを締めくくると、5人だけの、しかし心の底からの温かい拍手が、静かなライブハウスに響き渡った。

俺は、その音を全身で浴びながら、歓喜に打ち震えていた。


(通じた…!)


芸人という職業がなくても。

俺が誰なのか分からなくても。

純粋な「笑い」は、ちゃんと届いた。


俺は、このワケの分からない街でも、芸人でいられるのかもしれない。

いや、ここから、始めるんだ。


鳴りやまない拍手の中、俺は確かな希望の光を見ていた。

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