中編

白い天井は相変わらず色褪せて見えた。見慣れた部屋の家具も、どことなく使い古されたような、他人の持ち物のような気がする。僕はベッドに横たわったまま、何も感じない自分の空虚さに、慣れ始めていた。


 ふと手に取ったスマートフォンには、知らない番号からの着信履歴がいくつも残っていた。その下に、見慣れないアイコンのSNSが並ぶ。開いてみると、僕のアカウントらしきものが表示された。そこには、数週間前の日付で、こんな投稿がされていた。


「もう限界。全部終わらせたい。俺なんか、いなくなればいい」


 その内容に、不思議と共感めいたものは感じなかった。むしろ、他人事のように冷静に「誰かが辛い思いをしてるんだな」と思っただけだ。それが自分自身のものであるなど、想像することすらできない。


 ある日、郵便受けに分厚い封筒が届いた。僕が拾い上げると、ずっしりとした重みがある。中には数枚の薄い紙と、茶封筒に入った現金が包まれていた。手紙に目をやると、達筆な文字でこう書かれている。


『拝啓 平素は格別のご高配…』


 読み進めていくうちに、僕の眉間にしわが寄った。差出人は僕の弁護士、宛名は「由乃様ご遺族各位」。由乃?その下の本文には、僕からの謝罪と見舞いの意が丁寧に記されている。しかし、その手紙の一番下には、赤いペンで大きく殴り書きされていた。


『厚かましい!今さら何のつもりだ!』


 手紙の間に挟まっていた茶封筒は、開封すらされず、元のまま封がされていた。


 遺族?誰の?その言葉の意味が分からず、僕は首を傾げた。そして弁護士に電話をかけようとした、その時──。


「お前がやったんだろう!」


 玄関のドアが開いた途端、父の怒鳴り声が響いた。僕は立ち尽くす。父の手には、先ほどの封筒が握られていた。母と千紗は、台所の陰から怯えたように父と僕を見ていた。


「どうして、どうしてそんな事になるまで気づかなかったんだ!お前が、お前が由乃を……!」


 由乃。またその名前だ。俊樹が叫んでいたのもこの名前だった。誰なんだ、由乃って?僕が、何を、した?


 父は怒り狂い、僕に向かって手を振り上げた。しかし、その手は途中で止まる。悲しみに満ちた瞳で僕を見つめ、そのまま壁に手をついて崩れ落ちた。


 僕は動けない。心の中で何かが壊れた音はしなかった。ただ、脳裏に一瞬、白い服の女性が、僕に背を向けて立ち尽くす姿が浮かんだ。しかし、それはすぐに消え失せた。


 食卓には、いつも通り、僕の分だけぽつんと離れた場所に置かれた箸とコップ。家族はもう、僕に語りかけようとはしなかった。彼らの表情は、僕の存在そのものを否定しているかのようだった。


 次の日、目を覚ますと、右腕に包帯が巻かれていた。昨日、父が激昂した後のことだ。何かの拍子にテーブルの端にぶつかったのか、それとも、夜中に自分自身をどう扱ったのか……。記憶は曖搏として、包帯の下から伝わる鈍い痛みだけが、生々しい現実を訴えかけていた。


 僕は学校に行くのをやめた。行く意味が見つからなかった。家で過ごす日々は、まるで時間が止まったかのようだった。家族とは最低限の会話すらなく、僕の存在は透明になったようだった。


 ある夜、僕は自分の部屋の前に、小さな、濡れた紙切れが落ちているのを見つけた。拾い上げると、そこには震えるような字で、ただ一文字「許」と書かれている。その文字が誰のものなのか、何を意味するのか、僕には全く分からなかった。ただ、その文字の裏側に、うっすらと赤い染みがあることだけが、なぜか胸にひっかかった。


 僕は立ち尽くした。


 僕の世界は、あいかわらず灰色だ。何もかもがぼやけていて、焦点が合わない。記憶の欠片が、感情の断片が、どこにも見当たらない。


 僕は、灰色の器。中身のないまま、ただそこに存在するだけ。誰かの痛みも、誰かの悲しみも、僕の器を満たすことはない。ただ、手のひらの赤黒い染みだけが、僕が確かに何かを「した」ことの証のように、そこにあった。


 この染みは、いつか僕の器を満たすのだろうか。 それとも、このまま空っぽのまま、僕は壊れていくのだろうか。


 誰もいない部屋で、僕はただ、息をしている。

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