第3話 三人目の到達者

 孤児院での一件が……まあ、とりあえず終わり後日。

 俺はティムから呼び出しを受けていた。ちなみに今日から俺が来ているのは軍服だ。今日から正式配置だからな。

 支部の三階。中級貴族であるティムのここでの立場は重役だ。そのため、彼……いや、彼女は個人の事務室が用意されている。

 そんなティムの部屋に俺とダウト、それからサシャとティムの四人が集まっていた。


「まずは謝罪させて欲しい。すまなかった」


 一人だけ立ち上がり、深々と頭を下げるティム。

 ……えーと、何に対しての謝罪だ?

 よくわかんないけど、とりあえず受け入れとくか。


「ほい、許した」

「か、軽いね」


 顔を上げて呆れた表情を浮かべているティム。そんな彼女に、俺は座るよう促した。


「俺の方こそ悪かったな、お前の事を女癖の悪いど畜生だと思ってたんだ」

「ど畜生……はぁー、なるほど。それで僕がサシャ君に迫っていると思ったんだね」

「そういう事。西方地区には私利私欲のために権力を振り翳すゴミ屑がいたからな。お前も同類だと思ったんだ」


 ティムが女の子だと知っていればサシャに迫ってるクソ男だなんて、そんな勘違いをする事もなかった。

 なんでティムは男装なんてしてるんだ?


「なあ、どうしてティムは男装してるんだ? 女子ならスカートを履けなんて言うつもりはないけど、そのコーディネートは明らかに男物だよな?」

「うん、そうだよ。だけどこの格好は僕の意思ではなくてね。赤井家の伝統、つまり家庭の事情という事だ」

「家庭の事情ねえ。まあ……色々あるよな」


 俺が目立ちたくないのも、家庭の事情といえばそうだからな。


「あーあ、もっと早く気が付ければ良かったな。言われてみればティムって中性的な顔付きだし、イケメンじゃなくて美少女だったって事か」

「……」「……」「……」

「それならサシャに何を迫ってたんだ? 試すととかなんとか言ってただろ?」

「……えーと、その……それは……」


 赤面して視線を逸らすサシャ。

 ……ん? なんか、もしかして……勘違いじゃなかった?


「トロ君。確かに僕は女だよ。だけど、僕は心からサシャを愛している」


 あ、はい。つまりそういう事っすね。

 百合の花が咲き誇るー。

 ……まあ、確かにそれは試してみなきゃわからないよな。もしかするとそれで目覚めるかもしれないし……いや、けど、どうなんだろう。


「ティム? お前の気持ちはわかったけど、無理に迫るなよ」

「無理強いなどしていない! 僕はずっとサシャの気持ちを尊重している!」

「本当か? 俺には迫ってるように見えたが?」


 そう言いながらも、これ以上ティムに聞いても無駄だよな。

 もしかすると心に傷を与えてしまうかもしれないが、サシャに聞くしかないな。そう思い彼女に視線を向けると、サシャは頬を赤くしながら頷いた。


「本当ですよ。ティムさんに何かを無理強いされた事はありません」


 今日のサシャは昨日と違い、軍の制服を着ていた。

 軍服姿なのはティムも同じだけど、男装している彼女と違ってサシャが履いているのはミニスカートだ。

 そういえば西方支部ではよく見かけたけど、ここじゃ女性軍服は初だな。

 そんな彼女の言葉にティムが「言った通りだろう?」と言わんばかりのドヤ顔をしてるけど、彼女は困った顔をして「ですが」と続けた。


「最近は随分と距離が近いと言いますか……その、ですね」


 照れながら話すサシャに、ティムは顔を青くすると立ち上がった。


「す、すまない! 最近支部における君の話が増えていてね。誰かに取られてしまうのではないかと焦っていたんだ……」

「私の話が、ですか?」

「そうだよ。名家出身でもないのに多くの戦歴を残し、貴族となった若き天才。その美しい容姿と舞いのような剣術に見惚れる者は多いんだ!」

「……そう、ですか」


 興奮しながら絶賛するティムだけど、サシャの反応はあまり良くないな。どうも複雑そうな顔をしていた。


「サシャ君、僕は過去に言ったよね。軍における君の立場は複雑だ。歴史ある組織は継承を重要視している。それ故に変化を含む君の戦い方は、周囲の理解を得る事は難しいだろうと」

「……ええ、そうですね。ですが」


 サシャとティム。二人の視線が俺へと注がれた。


「ん?」


 何々? なんで見られてんの?


「トロ君。君が望むならば僕はダウト君について誰にも明かさないと約束しよう」

「そりゃ助かる。で? その代わりになんかあるのか?」


 貴族ってのは交換条件が好きだからな。

 そう思って聞くと、ティムは微笑んだ。


「いいや、そんなものはないさ」

「……へ?」


 条件がない? そんな事ってあるのか?


「ははっ、貴族にこんな事を言われるのは不安かな? ならばあえてこう言おうかな」


 楽しそうに笑った後、ティムは俺へと手を差し出した。


「僕と君の間に勘違いはもう存在しない。僕は君が思ったような男ではないし、君もまた僕の思ったような男ではない。これからは仲良く出来ると思わないかい?」


 仲良く……ねえ。

 まあ確かに、俺がティムに抱いていた不信感は偏見がたっぷりだったからな。ティムが女の子だってわかった以上、そういう奴じゃないってのは確定だ。……いや、確定か? 無理強いとかはしてないみたいだけど、結果迫ってるわけだし……うーん。

 だけど……まあ、いっか。


「ああ、よろしくな」


 ティムの手を握り返すと、彼女はそっと俺に耳打ちした。


「でもサシャ君は渡さないよ」


 そう言ってから満面の笑みを浮かべるティム。

 今まではムカつくイケメンスマイルにしか見えなかったけど……実は女の子だって知った今だとその……可愛いな。

 ぐぐぐ、己の単純さに自己嫌悪。


「まっ、これからは同じ北方支部の仲間として、よろしくな」


 話は終わったし、今日の仕事に向かうとしよう。


「行くぞダウト」

「御意ですわ」


 俺とダウトは立ち上がり、個人事務室から出ようした時に再び声を掛けられた。


「最後に一つ提案があるんだけど良いかい?」

「……提案?」


 ティムの言葉に振り返ると、彼女はサシャへと視線を向けた。


「サシャ君。彼ならば信頼出来ると思わないかい?」

「え? どういう事ですか?」


 ティムの言葉にキョトンとするサシャ。


「君たちには共通点が多い。この機会に組んでみたらどうだい?」

「組む? 私とトロさんが、ですか?」


 目をパチクリとさせながらこっちを向くサシャ。驚いてるのは俺も同じだ。


「おいティム。なんだよそれ」

「そのままの意味だよ。確かに君たちは強い。だが、トロ君たちも二人では限界があるはずだ。サシャ君もずっと二人で活動していてね。似た戦い方をする君たちならきっと上手く行くと思うんだけど、どうかな?」


 似ている……ねえ。まあ、確かにそうと言われればそうか。

 サシャも相棒と二人で波花甲殻ソルガザミと戦っているらしい。本来なら軍が推奨しているのは四人一組だ。だから人数的にも丁度良い。


「……私は良いですよ。トロさんなら問題ありません」

「それは良かった。トロ君はどうだい?」


 サシャと組む、か。……どうしよう。


「主人様。わたくしは受けるべきだと思いますわよ」

「……わかった。ダウトがそう言うならそうするか」


 困った時にはダウトにお任せ、それが俺たちの基本だ。

 なんせ女の勘ってやつなのかわからないけど、こういう場面ではダウトの直感に任せた方が結果的に良い方向に向かう事が多いからな。


「それじゃあサシャ。改めてこれからよろしくな」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」


 深々と頭を下げるサシャ。いやはや、本当に真面目だなー。


「これから任務に行ってくるけどサシャはどうする? ちなみに内容は上層囲い域での討伐任務なんだけど」


 俺たち軍人の仕事は基本的に上官から振り分けられる任務だ。

 一般軍人なら事務作業や警備、その他にも様々な仕事を担当する事になるけど、俺みたいなアルケミスト軍人が担当するのはほぼ戦闘だ。

 上層北側は波花甲殻ソルガザミと戦うためのエリア、通称戦闘域だ。その中に複数設置されているのが囲い域。わかりやすく言えば波花甲殻ソルガザミを閉じ込めるためのエリアだ。

 波花甲殻ソルガザミを倒せるまともな戦力が少ないため、闇雲に戦闘域の全体で戦うのは不可能なんだ。

 一般軍人たちの戦闘域における役割は監視と誘導。

 監視による発見と誘導によって囲い域に閉じ込めた波花甲殻ソルガザミを俺みたいなアルケミストが狩りに行くってのが、ここでのやり方らしい。

 襲来する波花甲殻ソルガザミの数が多いからこその対策だな。乱戦より断然戦い易いし、安全性も抜群に上昇する。


「勿論同行します」

「おっけー。それじゃあ一時間後に上層ホールで集合な」

「了解です」


 サシャに手を振った別れた後、俺たちはティムの個人事務室を出た。

 退室のタイミングをズラした理由? 一応の配慮だ。勘違いされると今後面倒だし、想像力が豊かな上司を刺激するのは避けたいからな。


「さてと、まずは昼飯だな」

「先程食堂がありましたわね」

「おっ、それならそこ行くか」


 俺が言い出した事だけど待ち合わせまで一時間しかないからな。中層街で飯屋を探す余裕はないか。

 食堂に到着したけどさて、味の方はどうだろうな。過酷な環境だし、こういう癒しには期待したいところだけど……まあ、ハードルは下げておこう。

 支部内食堂は西方支部と同じでよくあるセルフサービス方式だ。カウンターで注文し、受け取り、空いている席に自分で運ぶ。

 今は昼時だし食堂内は結構混んでるな。ふむ、ここまで人がいるとなると味にも期待出来るかもしれない。

 メニューを確認したところ、やっぱりというべきか色々なメニューがあるみたいだ。

 和食に洋食、それからイタリアンと豊富だ。ちなみに今の言葉の由来は知らないけど、料理の種類を大まかに分ける意味があるらしい。由来を知らずにただの知識として単語を口にする。もしかすると伝わり続けた何処かでその意味が変化している可能性もあるけれど、まあよくある事だな。

 豊富なメニューの中から俺が注文したのは天ぷらセットがついてるざる蕎麦、いわゆる天ざるだな。そしてダウトが頼んだのはチーズがたっぷりとかかったミートソーススパゲッティだ。


「ダウトって好きだよな、スパ」


 特に食べたいものが思い付かない時には、よくダウトに店を選ばせるんだけど、大抵選ばれるのはイタリアンだ。

 俺はピザを食べる事もあるけど、ダウトはいつもスパゲッティだな。


「そうですわね。見た目が綺麗という事もあるけれど、個性が豊富なのが一番ですわ」


 そう言って微笑んだダウトはクルクルとフォークを回して一口。


「うふふっ、当たりですわ」


 手を頬に当て、うっとりとした表情を浮かべていた。


「おっ、それは期待大だな。んじゃ、俺もいただきます」


 ダウトは結構味にうるさい。あの顔からして本当に美味しいんだろうな。

 まずは蕎麦をズルズルと啜った。

 ……なるほど、こりゃ美味い。

 次は一緒に頼んだ天ぷらを食べよう。

 セット内容は大海老が二本に、烏賊、南瓜、蓮根、茄子が一つずつだ。

 まずは二本あるし大海老だな。

 黄金の衣を纏った大海老の先端をつけ汁に軽くつけ、頬張る。

 サクッと揚がった表面と、プリプリとした海老の身。

 ——やっぱり揚げ物なんだよなー。

 天ぷらそのものが美味しいのは当然として、衣の油がつけ汁に混ざる事でメインである蕎麦の味わいにも深みが出て更に美味し。

 揚げ玉蕎麦もそうだけど、この組み合わせって最高だよな。


「くすっ、随分と美味しそうに食べるんですね」


 聞き覚えのある声に顔を向けると、そこにはトレイを持ったサシャの姿があった。


「さっきぶりだな」

「そうですね。相席して良いですか?」

「どぞー」

「隣、失礼しますねダウトさん」


 一言かけてからダウトの隣に座るサシャ。

 彼女の選んだ料理はハンバーグだった。ドミグラスソースではなく、大根おろしと大葉を乗せたさっぱりタイプ。和風ハンバーグって呼ばれるやつだな。

 見事にチョイスがバラけたな。でもサシャのは和風ハンバーグだし、和食? いや、ハンバーグは洋食だから違うのか? ……まあ、なんでもいっか。


「……その、変な事を聞いても良いですか?」


 迷った様子のサシャ。何やら周囲を気にしているようにも見える。チラチラと隣に目をやってるし……あー、多分そういう事だろうな。

 俺が気が付いたって事は、ダウトも気が付いているだろうな。


「うふふっ、いいわよ。ちなみに答えはイエスよ」

「えっ? あっ、その……すみません」


 キョトンとした後、落ち込んだように謝っていた。


「うふふっ、不思議に思うのも当然だわ。わたくしは普通ではないのだから」


 サシャの疑問は十中八九、ダウトが当然のように食事をしているからだろう。

 ダウトの正体は話したけど、こいつは普通の人間ではなく人の姿をしたクルスだ。

 到達者が錬成するクルスは本来なら一時的な存在だ。戦闘を代表例に、その力が必要な時に呼び出され、終われば還す。それが基本だ。

 だけど、ダウトは違う。

 人型のクルスはアルケミストが渇望するクルスの終点。俺もアルケミストだからな。どれだけダウトの存在がとんでもないのか理解してる。

 ……だけど、こんな言い方はしたくないけど、ダウトはクルスとしては未完成なんだ。

 ダウトの錬成は解除する事が出来ない。常に存在し続け、常に力を消費し続ける。

 クルスはアルケミスト戦術の奥義。消費する力は膨大だ。本来ならクルスの維持可能時間は最大で一時間前後。それ以上は錬成者の力を喰らい尽くしてしまい、互いに動く事すらままならなくなる。

 つまりだ。ダウトは常に俺の力を大量に消費し続けている。……本来ならな。

 確かにダウトはクルスとしては主人の力を膨大に消費し続ける大喰らいだ。だけどダウトは人型であり、クルスとして明確な意思がある。

 その肉体構造はほぼ人間と同じらしく、食事をする事も出来れば、消化する事だって出来るんだ。それ故にダウトはクルスでありながら自ら力の生成を可能としている。

 解除出来ないという、本来なら俺の力を根刮ぎ消費し続けるはずの不完全なクルス。だけど、ダウトは食事によって自らクルスとしての力を生成する事によって、普段は俺の力を全くと言って良いほどに使ってないんだ。


「……ここ、座っても良い?」


 ダウトの事を考えていたら、突然隣から声を掛けられた。

 知らない女の子の声。目を向ければそこには随分と小さい少女がいた。


「……ダメ?」

「いや、別にいいぞ」

「……ん、ありがと」


 短く礼を言った少女はトレイをテーブルに置くと、俺の隣に座った。

 周囲に意識を向ければいつの間にか満席に近い状態だった。四人が座れる席を三人で使っていて、一席空いていたからか。

 俺の隣に座りたかったとか、そういう話では一切ないな。その証拠に少女はこちらには興味無さそうに淡々と食事をしていた。

 随分と小柄な女の子。ダウトやサシャと違い、女性的な凹凸はまったくと言って良いほどにない。けど、若そうだし年相応って感じだな。

 生後一歳であるダウトは……まあ、クルスだし例外か。

 小柄で細く髪型はここじゃ一般的な黒い髪を伸ばし、後頭部で一つにまとめていた。所謂ポニーテールってやつだな。それから最大の特徴というか、つい視線が向かうのは目だな。正確には片目を覆い隠している眼帯だ。

 ちなみにそんな彼女が食べているのは、ハンバーガーだった。


「……あむ」


 小柄な体格に見合う小さな顔。サイズに比例して小さな口を一生懸命に開いて、大きなハンバーガーを頬張っていた。

 ……なんか小動物みたいで可愛いな。


「……何?」

「いや、なんでもない。悪い」

「……そう」


 俺の視線が気になったのか、少女はピタリと止まると視線だけを俺に寄越した。

 謝って視線を正面に戻すと、何やら言いたそうな顔をしているダウトと、何やらソワソワと落ち着かない様子のサシャが映った。

 ダウトの言いたい事はなんとなくわかるけど、サシャはどうしたんだ?


「えーと、その……お久しぶりですね、ココアさん」


 躊躇いながら少女へと声を掛けるサシャ。顔見知りなのか。それにどうやら少女の名前はココアっていうらしい。


「……」

「えーと、その……」


 俺に聞こえてるって事は距離的にというか、常識的にというか、ココアちゃんにも聞こえているだろうけど反応しない。

 ……えっ、無視って事? それとも食事中に喋るのは厳禁って考え方なのか?


「なあ、ココアっていうのか?」

「……ん、そう」

「……」


 若干返事まで間があるけど……普通に喋ったな。

 サシャに目を向ければ苦笑を返された。

 こうなる事がわかっていたように見えるし、もしやココアちゃんってサシャの事が嫌いだったりするのか?


「えーと、俺はトロ。こいつは相棒のダウト。昨日西方支部から移動して来たんだ。よろしくな」

「……ん、あたしは黄昏たそがれココア。アルケミスト」


 ココアちゃんが着ているのは軍の制服だ。だから一応挨拶しようと思ったんだけど、まさかアルケミストとは驚いた。

 帯刀してないから妙だとは思ったけど、アルケミストなら剣は使わないからな。

 そんな事を考えていると、何やら俺の事をジッと見つめるココアちゃん。


「……どうしたんだ?」

「……ん」


 彼女は小さく返事をすると、パクパクとハンバーガーを食べ進め、飲み込んだ。


「……ご馳走様」


 手を合わせて小さくお辞儀をするココアちゃん。行儀は良いのに、サシャは無視。……一体何をしたんだ?

 そんな意味を込めて視線を送ると、サシャは困ったように苦笑を続けていた。

 ……なーんか、二人の間にはあるみたいだな。


「……あんた、西方地区から来たって言った?」

「ああ、そうだぞ」

「……そう。ならオートマタと戦った事、ある?」


 オートマタという言葉にピクリと反応するサシャ。

 彼女が住んでいる北側下層の孤児院では、オートマタは騎士様と呼ばれて英雄視されてるからな。

 サシャ自身はオートマタの危険性を理解しているみたいだけど、あの時の少女、ライトは強い憧れを抱いてるようだった。

 チラリと視線をサシャに向ければ、彼女は安心させるかのように微笑んだ。

 それなら言っても問題ないな。


「ああ、あるぞ」

「……やっぱり」

「やっぱり?」


 思わず復唱すると、ココアちゃんは小さく頷いた。


「……あたしはある人から依頼を受けて色々と調べてる。オートマタはその一つ」

「ある人?」

「……それは言えない」


 まあ、そうだろうな。別に誰かなんて興味ないし、聞き出すつもりなんてないけど、オートマタについて調べてるってのは気になるな。

 何より、西方地区に反応した事がな。


「……オートマタは積極的に波花甲殻ソルガザミを襲い、コアを回収する。その障害となるならば人にも剣を振るう。人間でも、波花甲殻ソルガザミでもない、第三の勢力。それがオートマタ」


 ここまでココアちゃんの話す内容は、軍人なら誰でも知っている周知の情報だ。

 重要なのは次、だろうな。


「……オートマタの目撃情報が一番多いの、何処だと思う?」

「そりゃここじゃないのか?」


 最も波花甲殻ソルガザミが多く出現する北方地区。オートマタのターゲットは波花甲殻ソルガザミだし、なら自然と一番オートマタが現れるのはここになるはずだ。

 だけど、ココアちゃんは首を横に振った。


「……違う。一番は西方地区」

「西方地区? ……なんでだ?」

「……まだ不明」


 オートマタが一番出現する地区は西方?

 西方地区で波花甲殻ソルガザミが出現するのは稀だ。中層に落ちて来たら大騒ぎになるというか、そもそも上層に出現しただけでも騒ぎになるほどだ。

 オートマタにとって西方地区はターゲットの少ない地域って事になる。にも拘らず、オートマタが多いのは西方? そんなのおかしいだろ。

 ……西方地区には何かがあるって事なのか?

 もしそうだとすれば、一体何が……。


「……オートマタは近年活動が活発化してる。でも、元々オートマタの目撃例はあった。どうして近年になって活発化したのか、何かあるのか、そうだとすれば答えは西方地区にあると、そうあたしは考える。でも情報が足りない。現地でしか知り得ない何か、西方地区にいたなら何か心当たりない?」


 西方地区に何かがある。ココアちゃんの疑問を聞いて僅かに、そう、本当に僅かにだけど……心の奥が騒ついた。


「……例えばそう、軍とは別の集団とか」


 その言葉が決定打となった。

 俺には心当たりがあった。西方地区に拠点を置きながら、軍に所属しない組織。

 一年前。西方地区に逃げ込んだ後、路頭に迷っていた俺たちを保護し、力すら与えてくれた恩人たち。

 女性だけで構成され、戦闘時には赤のショートパンツに白の軽衣を纏い、刀を手にする武装組織。

 組織の名前は、隠里林いんりりん


「……そう。わかった」

「——っ!」


 ココアちゃんの言葉に俺の全てが震えた。

 考えが顔に出てたのか? 今の声、明らかに……バレてる。

 でも違うんだ!

 確かに隠里林いんりりんは軍に所属しない独自の武装組織だ。ココアちゃんが怪しく思うのもおかしくないと思う。だけど違う、あの人たちは善人なんだ。

 隠里林いんりりんの皆は俺たちを救ってくれたんだ。悪人だとしたら、そんな事をするわけない!


「……安心して、聞き出すつもりはない」

「えっ?」


 心当たりがある事は確実にバレてるはずだ。なのに、聞き出そうとしないのか?


「……人の言葉は信用出来ない。あたしが信じるのはこの目で見たモノだけ」


 ココアちゃんはそう言い残すと立ち上がり、去って行った。


「トロさん。大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ?」

「えっ?」

「それから安心して下さい。私は疑ったりしていませんよ」


 そう言って優しく微笑むサシャ。

 ココアちゃんとのやり取りはサシャも聞いていたはずだ。俺の後ろめたさもわかってるはずだ。それでもそう言ってくれるなんて……ありがとう。


「ところでサシャさん。貴方と彼女はどんな関係なのかしら?」

「えーと、そうですね……なんと言えば良いのでしょうか」


 ダウトの質問に、困った顔をして頬を指先で掻くサシャ。


「ダウト。聞き出すのはやめとけ」


 きっとダウトは俺のために話題を変えようとしてくれたんだろうけど、サシャは追及しようとしなかったからな。


「あっ、別に大丈夫ですよ? ただ、少し恥ずかしいというか……その」


 恥ずかしい? それなら尚更聞き出しちゃダメなのでは? サシャが良いって言うならそれでも良いけど。

 サシャは軽く赤面しながら息を吐くと、躊躇いがちに話し出した。


「簡単に言うと恋敵……ですね」

「えっ、マジ?」


 それってつまり、サシャには好きな人がいるって事だよな? ……ほーん。

 ……なんだろう、ちょっと不思議な気分だ。


「あっ、勘違いしないで下さいねっ! 私には好きな人なんて居ません!」


 慌てながらそう言うサシャ。なんかそんな風に言われると逆に……ねえ?


「本当ですからねっ!」

「まあ、そういう事で」

「……それ、絶対に信じてないじゃないですか……」


 俺の事をジト目で睨み付けた後、サシャはため息をついて続きを話し出した。


「自分で言うと変な気分になりますが、ティムさんは……その、私に好意があるじゃないですか。それでその……」

「なるほど、理解しましたわ。つまりココアさんはティムさんの事が」

「そういう事です」

「それは……また複雑ですわね」

「あはは……」


 苦笑いを浮かべるサシャ。

 これはなんという、中々に複雑だな。サシャの事が好きなティムは男装女子で、ココアちゃんは女の子だ。

 彼女は知ってるのか? ティムが女の子だって事を。


「ちなみにですが、ココアさんはティムの事情を知らないです」

「……うわー、あいつ、罪作りじゃん」


 ティムの似合ってる男装のせいで一人の女の子が犠牲に……。

 いや、待てよ? ココアちゃんが百合の花を咲かせれば解決するのでは? ……いや、これ以上はやめておこう。全てはココアちゃんの選択次第だな。


「ティムさんの事は周知の事実なんですけど、ココアさんはあまり北方地区に留まる事がないので知らないみたいなんです」

「なるほどなー」


 恋心って大変だよな。一度そうなったら中々……。

 ココアちゃんが事実を知った時、トラウマにならないと良いけど。


「なあ、ココアちゃんにティムの事を教えたらまずいと思うか?」

わたくしは賛成ですわ。いずれ知る事になるならば、早い方が傷は小さいですもの」

「そう、ですね。私も賛成です。ですがその、私からは言えませんからね?」

「それはそう」


 あなたが好きになったティムは男装女子で、私の事が好きな百合の人なんですよ。これは流石に酷過ぎるだろ。……どっちにせよ百合の事はバレるけど。


「ですが、さっきの感じだとトロさんも難しいですよね」

「あー、確かに。……あれ? そもそも言葉じゃ信じないんじゃないか?」


 ココアちゃん自信がそんな事を言ってたからな。

 口で説明しても意味ないとなると……風呂か? ティムの生まれた時の姿を見れば解決なんじゃないか? それなら目で見た真実って事になるはずだ。


「よし、今日の仕事が終わったらティムに言ってみるか。後輩誘って風呂に行けって」

「主人様? それ、本気で言ってます?」

「……勿論冗談だぞ?」


 ないな。うん。ないな。

 二人の視線が突き刺さった。


   ☆ ★


「それじゃあサシャ。また後でな」

「はい、また後で」


 昼食を終え、再びサシャとは別行動だ。

 集合時間まで後二十分くらいしかないけど、サシャは一度自室に戻るだろうからな。

 軍服姿のサシャだけど、その腰には本来あるべきの剣がなかった。

 支給される軍刀ではなく水色で半透明の諸刃造り。俺の[影刃]でも斬れなかったし、普通の剣じゃないのは明らかだ。

 十中八九、東方地区で流通が拡大している魔剣の類いだろうな。

 東方地区といえば、あの娘の実家があるのも東方地区だ。どんな場所で育ったのか、一度くらい見に行きたいけど……何故か拒否られるんだよな。


「なあダウト。長に恩返しが出来たらさ、東方地区に行かないか?」

「絶対に嫌ですわ」


 ほら。


「そんな事言わずにさー。サシャが使ってたのって魔剣だろ? 俺も欲しいなって」

「魔剣についてはあまり知りませんけど、東方地区に行くのは反対ですわ」

「それまたどうして?」

「……あまり大きな声では言えませんわ」


 大きな声では言えない何かが理由って事か。

 ……ふむ、なんだろうな。そういうのって大抵は権力者関連だよな。だけど、ダウトって西方地区で中級貴族とやり合った時、全然怯んでなかったんだよな。

 ……となると、上級貴族? いや、もしかするともっと上。六家しかいない最上級貴族か?


「そんじゃ任務の時な」

「サシャさんがいますよ」

「あいつなら平気だろ」


 冗談混じりにそう言うダウトに即答すると、ダウトは拗ねたように口を尖らせた。


「随分と信用しているんですね」

「それなりにな」


 俺がもう一度即答すると、普段のダウトならありえないくらい子供っぽく、頬をプクーと膨らませていた。

 ……何それ、可愛いじゃんか。

 でも、やっぱりダウトはいつもみたいに笑っていて欲しいな。


「ダウトのおかげだよ」

「えっ?」

「一年前の俺は家族に裏切られて、大切な人を失って、絶望してたからな。ダウトが居てくれたから俺はまともに戻れた。だから人を信じる気にもなったんだよ」

「主人様……」


 もしもダウトがいなくて、一人ぼっちだったなら、俺はきっと……こうして生きていないだろう。

 何もかもが嫌になって、多分、あの人たちの手を取ろうともしなかったと思う。

 ダウトが一緒に居てくれたから。だから俺は生きようと思えた。

 ダウトは俺のクルス。俺が死ねば、ダウトも死ぬ。……それは嫌だったんだ。


「お前が俺一番の相棒だ。これからもよろしくな」

「主人様……うふふっ、御意ですわ」


 いつもの調子を取り戻したみたいだな。よしよし、ダウトはそうじゃないとな。


   ☆ ★


 北方支部三階・上層二階玄関ホール。


「さてと、それじゃあ行くか」

「はい!」


 時間通りに集合した俺たち。

 ……だけど。


「その前にサシャ?」

「どうかしましたか?」


 キョトンとした顔で首を傾げる彼女だけど、不思議なのはこっちだ。


「剣はどうしたんだ?」


 サシャの腰にはあの水色の剣がなかった。勿論背中に背負っているわけでもない。

 俺の言葉にハッとするサシャ。


「そういえば言っていませんでしたね。大丈夫ですよ忘れてませんから」

「……まあ、サシャがそう言うなら」


 俺は魔剣に詳しいわけじゃない。ただ、東方地区には魔剣と呼ばれる特殊な剣があるって聞いた事があるくらいだ。

 ……あれ? そういえば初めてサシャと会った時に、気が付けばあの剣を持っていなかったような気がするぞ?

 もしかすると魔剣ってのは到達者がクルスを錬成するように、何処からか呼び出す事が出来るのか?

 腰に差した愛刀には色々と思い入れがあるけど……いいな、それ。


「んじゃ、今度こそ行くぞ」

「はい!」


 と、元気よく返事をするサシャ。……うん、サシャ一人なんだよなー。


「サシャ?」

「えっ、またですか?」

「いや、もう一人は?」


 サシャもまた俺と同じように相棒がいるって話だったはずだ。

 ……何処にも居ないですけど?


「えーと、それはその……」

「主人様、何やら事情があるようですわ。元々は二人でやるつもりだったのですし、三人でも良いと思いますわ」

「まあ、それもそうだな」


 幼い頃から一緒の親友だとしても、喧嘩する事くらいあるだろう。

 いや、むしろ原因は俺たちだったりするんじゃないか?

 ずっと二人で活動してたなら、よそ者って偏見があるかもしれないし。

 まっ、追及はしない方向で。


「それじゃあ三度目の正直ってやつだ。行くぞ!」

「はい!」


 今いるのは地上の二階部分だ。理由はシンプルに囲い域の壁上から出入りするからだ。

 壁に囲まれた複数の囲い域。今回担当するのは北方支部から三番目に位置するポイントだ。そこに向かうまではこのまま壁上を進む事になる。


「三番域まで稼働してるなんて、本当にここは波花甲殻ソルガザミが多いんだな」

「そうですね。ですが、最奥の十番域はまさに地獄のような光景ですよ」

「そんなにか?」

「ええ、七賢者と呼ばれる英雄七名によって前線が維持されていますが、出現する波花甲殻ソルガザミの数が異常です。それに、上位個体も当然のようにいますから」

「……まじかよ」


 波花甲殻ソルガザミには様々な種類がいるけど、その中にはマンザミやドソザミよりも遥かに強い個体がいる。そいつらはまとめて上位個体って呼ばれてるけど、俺はまだ遭遇した事がないんだよな。


「サシャは上位個体と戦った事あるのか?」

「いえ、私が担当するのは最奥でも五番でしたし、上位個体は七賢者たちの優先討伐対象ですから、七番以降に出現する事はありませんよ」


 何も捕まっていない一番壁上から一度降り、ここからは一旦地上を進む事になる。

 二番域の壁上へは登らないでスルーし、そのまま奥へと向かった。

 一番域は正に最終防衛ラインだ。中でいくつかのブロックにわかれてるけど、大きな一つの囲い域って数え方だ。

 そこからは奥につれて扇状に広がっていき、同じ番号の囲い域も増えていく。

 最奥、十番域は七つあるって話だ。七賢者の人数と一致してるし、一人ずつ担当してるって事なのか? となると上位個体が優先討伐対象らしいし、その隙をついて抜けた波花甲殻ソルガザミの相手をするのが俺たちの役目って事だな。

 北側の七ルートからやってくる波花甲殻ソルガザミ。三番域まで使われてる現状からして、十番域は本当にやばそうだな。


「よし、着いたな」


 今回担当するのは三つある三番域の左側だ。

 最も波花甲殻ソルガザミが捕まる頻度が低く、放置され気味だったらしいけど、今回捕まっているのが判明したため新人に後始末を任せたって事だな。

 南側から壁上に登ると、中へと視線を下ろした。


「おー、報告通りだな。……いや、新人に任せる個体じゃないだろ」


 壁上から見下ろしたところ、地上で大人しくしていたのは両腕が槌でも剣でもない、鋏状になっている波花甲殻ソルガザミだった。

 蟹としてはあるべき腕の姿なんだけど……違うんだよなー。

 こいつはポピュラーな三種の中で、一番厄介な種類なんだ。


「どうする? やっぱり俺が風を纏って突っ込むのがベストか?」

「いえ、トロさんとダウトさんはここで待機していて下さい」

「え?」


 自信に満ちた声でそう言うサシャ。

 サシャの実力は高い。だけど、剣で戦うんだ。

 巨体な波花甲殻ソルガザミが相手じゃ、間合いの差がどうしてもある。

 それだけじゃない、今回は相手が悪い。

 ダウトが鎖で拘束しても意味がない。なんせこの個体ミサザミは遠距離型なんだ。


「大丈夫ですよ。心配しないで下さい。たち《・・》に任せて下さい」


 そう言って微笑むサシャ。


「行きます!」


 覇気の込められた声と共にサシャは突然、服の上部を開いた。


「なっ!」


 普段はちゃんと軍服を着てるのに、突然胸元を露出させたサシャ。そんな痴女行動に普段から鍛えられている反射神経で目を逸らしたけど、気のせいか?

 今、光ってなかったか?

 そんな疑問に答えを得る暇もなく、サシャはそんな奇行の直後に走り出した。

 そして、数メートルはある壁の上から、飛び降りた。


「サシャっ!?」


 思わず叫ぶと、サシャの声が聞こえた。


「行こう、タティ!」


 疑問符を浮かべるまでもない。その答えはすぐにわかった。

 サシャの胸元から溢れた光。そして彼女の足元に展開される拡大紋章。

 それを見て、俺はティムの言葉を思い出した。


『君たちには共通点が多い。この機会に組んでみたらどうだい?』


 共通点。それは共に剣を武器にしている事だって、そう思っていたんだ。

 ……だってそうだろ?

 普通は思わないんだ。


「【クルスゲイト・——】」


 サシャもまた、到達者だったなんてさ。

 彼女の年齢を考えればありえない事に、サシャの動きを追従するように移動する拡大紋章。

 それは眩い光を放ち、そして、幻上の生物を錬成した。


「【——タティ】!」


 光の中から現れたのは虎に似た水色の模様をしたクルス。その背中には大小二本の剣が背負われていた。

 空中でクルスの背中に乗った状態になるサシャ。

 あれだけの大声を上げたため、当然存在はミサザミに気付かれてる。ミサザミの視線がサシャたちに向かうのと同時に、彼女たちは着地した。

 その瞬間、両腕の鋏をサシャたちに向けて開くミサザミ。

 鋏ってのは本来、挟む力によって切る道具だ。

 だけど、どうやら俺たち人間と波花甲殻ソルガザミたちの価値観が違うらしい。

 俺たちの価値観で例えるなら、ミサザミのそれは大砲だ。


「サシャ!」


 着地した彼女たちに向かって放たれるのは、容易に人を殺す二つの砲撃。着弾による衝撃で土煙が舞い上がり、サシャたちの姿を覆い隠していた。


「大丈夫です!」


 土煙が揺らぎ、中から現れる無傷のサシャとタティ。そんな二人に向かってミサザミは照準を合わせ直すと、更に実体のない砲弾を放った。


「タティ!」


 連続して放たれる砲撃を跳ぶようにして避け続けるサシャたちは、大きく飛び跳ねるとミサザミの頭上を飛び越していた。

 そして敵が振り返ろうとしてる中、着地と同時に方向転換をし、サシャはタティの背負った剣を抜刀した。

 それは、あの水色の剣だった。


「タティ、やるよ!」

「がおっ!」


 サシャの言葉に応えて吠えるタティ。

 一直線に駆けるタティに乗るサシャは、タティの背から抜いた剣の切先を背後へと向けると錬術を発動していた。

 切先から溢れる水流。その勢いによって加速した二人はその身にも螺旋の水流を纏うとミサザミに向かって疾走した。


「【タティ・一衣帯水いちいたいすい】!」


 激しい水流となった二人が敵を呑み込み通り過ぎると、ミサザミの肉体は真っ二つになっていた。


「凄まじい一撃ですわね」

「ああ、俺たちの[閃影交差せんえいこうさ]以上じゃないか?」


 ダウトの鎖を使って俺を振るい、超速の一閃を放つ技。

 サシャたちの合わせ技と同じ様に一撃で波花甲殻ソルガザミを倒せるけど、規模が違うな。

 それにしても本当に俺たちは似てるみたいだな。クルスと力を合わせて剣を振るう。ティムの言う通りだ。


「お疲れ」


 タティに乗って壁上に戻って来たサシャ。

 馬じゃなくて虎だけど、その姿は正に騎士って感じだな。


「ありがとう、タティ」


 タティの背負う鞘に剣を戻してから降りたサシャは、タティの頭を優しく撫でると錬成を解除していた。

 光が舞う中、彼女は笑みを向けた。


「驚いてくれましたか?」

「ああ、めっちゃ驚いた。サシャも到達者だったんだな」

「くすっ、そうですよ」

「親友ってさっきのクルス、タティの事だったんだな」

「ええ、ずっと私を支えてくれた大切な親友です」


 そう言って慈愛に満ちた笑みを見せるサシャ。

 幼い頃からの親友って言ってたな。つまり……天才か。


「主人様。今なら他に人もいないですし、あの話が出来ますわよ?」

「あの話? ……ああ、東方地区の件か?」

「東方地区がどうかしたんですか?」


 藪から棒に話し出したダウトに、首を傾げるサシャ。


「東方地区に行きたいって言ったらダウトが拒否するんだよ。理由を聞くと人前じゃ言えないって言うしさ。今なら丁度良いかなって」

「そうなんですか? なんというか、ダウトさんにしては珍しいですね」


 確かにそうだよな。ダウトって頻繁に揶揄ってはくるけど、基本的には忠実だからな。


「その、個人的な話になるんですけど、東方地区といえば最大規模の孤児院があるって聞きました。だからいずれは子供たちと共に行こうと思っているんですけど、えーと、やめた方が良いって事ですか?」

「ええ、そうですわね。主人様はなんとなく察しているとは思うけれど、東方地区を管理している最上級貴族が問題ですわ」

「……やっぱりそっか」

「最上級貴族様ですか? 確か建国に深く関わった六人の一族ですよね?」

「そうですわ。東方地区に巣食う一族の名は[林音りんね]。事実上の奴隷制度を運用する人間の屑たちですわ」


 強い怒気と嫌悪を込めてそう話すダウト。

 なんだよ事実上の奴隷制度って。それにどうしてクルスであるお前が俺も知らない、そんな事を知ってるんだ?

 ずっと思ってたけど、ダウトって色々と謎が多い。


「林音家が事実上の奴隷制度を運用ですか? ……あっ、確か孤児院の管理は……」


 ハッとしたように言葉を濁すサシャ。


「そう、林音家ですわ」

「それって……まさか!」

「そういう事ですわ」


 表向きは孤児院。だけど裏では奴隷として利用してるって事だ。


「果てには顧客の気に入った子供の親を暗殺し、孤児にするなどと、その手は真っ赤に染まっていますわ」

「……最悪だな」


 親を殺しておきながらまるで救いの手のように手を差し出し、そして顧客の元に送るって事だよな。

 林音家。そんな極悪人の一族がこの国の成り立ちに関わってるって思うと、国民としては複雑な気分だ。


「……ダウトさん、ありがとうございます。もしも教えてもらえなかったら私は……」

「サシャさん、そんな顔をしないでほしいですわ」


 小さく震えるサシャの肩にそっと手を置くダウト。

 もしもナイトメアールの皆を連れて東方地区に行ってたらって思うと、怖いよな。元気に走り回っていたあの子たちが奴隷に、考えたくもない未来だ。


「……少しだけ、私の昔話をしても良いですか?」


 サシャはか弱い声でそう言うと、その場に座って小さくなった。そんな彼女に俺とダウトは顔を見合わせると、同じ様に座った。


「私はここで、北方地区で産まれました。ですが、両親共に酷い人たちでした」


 両親の事を思い出しているのかその声は僅かに震えていて怖がっているようにしか見えなかった。

 これからの話は多分、悲しい話だ。


「実の娘だというのに異性として見てくる父親。私のせいで愛されなくなったのだと暴力を振るう母親。当時の私はまだまだ子供でしたし、父親は家にいないのがほとんどでしたので何かをされたわけではありませんが、母親からは日常的に暴力を振るわれました」


 普段は家にいない父親。日常的に暴力を振るう母親。……酷いな。

 本来なら父親からは安心を。母親からは安らぎを得られないといけないというのに。


「毎日毎日、あざだらけになって、罵声を浴びせられ続け、食事だってまともに貰えませんでした。当時は本当に毎日死にたいと、死んで楽になりたいって考えてました。そしてある日、私は一人の女性と出会ったんです」


 話しながらいつの間にか俯いていたサシャは、ゆっくりと顔を上げた。

 その顔から感じ取れる感情は歓喜と……絶望?


「出会い方はとても良いとは言えません。私が一人で留守番をしている時にやって来た侵入者でした」


 侵入者ってお前……言葉は不穏だけど、サシャはおかしそうにクスリと笑っていた。


「不思議な人でした。歳上でしたけど、それでもまだまだ幼くて、お姉さんって感じの人でした。その人、なんて言ったと思いますか?」


 当時の事を思い出しているのか、サシャは柔らかく微笑んでいた。


『……お姉ちゃん、誰?』

『やべ、留守じゃなかったのか。……って、あれ? なんか傷だらけ?』

『……あの、その……』

『あっ、えーとアレだ。ボクは通りすがりの女泥棒だぜ』

『泥棒ですか? ……残念ですがここには何もありませんよ』

『いいや、ボクにはそう見えないな』

『嘘じゃありません。ここには食べ物なんてありませんし、交換出来るようなものもありませんから』

『でもキミという原石がいるぜ?』


 女泥棒はそう言うと虚ろな表情を浮かべる少女へと近付き、頬に手を添えた。


『ほら、こんなにも可愛い未来の宝石だ』

『あの……その……』


 笑みを浮かべてそんな事を言った女泥棒は、何度か少女の頬を優しく撫でた。


『まずは傷の治療って言いたいところだが、状況的に考えて虐待だろうな。となると、あからさまにやると不味いか。まっ、それなら内側からやれば良いだけだぜ』


 女泥棒はそうブツブツと言うと、首を傾げながら少女へと視線を向けた。


『最後に飯を食べたのはいつだ?』

『……えっ、その……二日前だったと思います』


 不用心に返事する少女の言葉に女泥棒は目を細めると、優しい笑みを浮かべて鞄から何かを取り出した。


『それならこれを食べな』


 それは綺麗な赤色をした果実だった。


『えっ、でも』

『いいから食べな。それとも食べられるか心配か? それならほら』


 女泥棒は見せ付けるように果実を一口齧ると、ごくりと目の前で飲み込んでから再び少女へと差し出した。


『ほら、食べな。それとも無理矢理口に突っ込んでやろうか?』


 脅すような言葉とは裏腹に、楽しそうに笑いながら、女泥棒はそう言った。


「泥棒に来たと言っているのに私に食べ物を与えて、薬まで飲ませてもらいました。奪うはずなのに与えてばかりなんですよ? 本当に変な人でした」


 その人が本当に良い人だったのか、それともそれほどまでに当時のサシャは悲惨な状態だったのか。それはわからない。

 確かなのはサシャにとってその人が恩人だって事だ。


「お姉ちゃんはそれから私が一人で留守番をしていると、頻繁にやってくるようになりました。そして毎回毎回食べ物を、おにぎりだったり、サンドイッチだったり、果物だったり、色々とくれたんです」

「優しい人だったんだな」

「……そうですね。ですが本人は泥棒だと自称していましたし、だんだんと食べさせてもらいながらも本当に食べて良いのが、これは何処かからか盗んだものではないかと、罪悪感もありました。酷い話ですよね」


 そう言って自嘲の笑みを浮かべるサシャ。


「そう思いながらも私は甘えてしまいました。ですが、そんな生活は数ヶ月で唐突に終わりを迎えたんです」


『なんだお前は?』


 女泥棒と少女。二人しかいないはずの部屋に響き渡る男の声。

 冷や汗を流しながら女泥棒が振り返ると、そこには男が、少女の父親が立っていた。


『へえ、随分と良い女だな。……だが、妙だ』


 振り返った女泥棒を見た途端、目を見開いてニヤリと笑みを浮かべた男は、すぐに真剣な表情になると怪訝そうに目を細めた。


「ある日、帰って来た父親と遭遇してしまったんです」


 父親はほとんど家にいないって言ってたからな。ある日突然って事か。


「私は怯えていて、二人が何を話していたのかはわかりませんでしたが、突然、本当に突然でした」


 ここまで話したサシャは強く自身の身体を抱き締めると、強く震え始めていた。


「突然、お姉ちゃんの腕が落ちたんです」

「……えっ?」


 腕が落ちた? 突然? それって、どういう事だ?

 何かしらの方法によって、切り落とされたって事なのか?


『ちっ、いきなりやってくれるじゃんか』


 片腕を切断され血を滴らせながらも、女泥棒は怯む事なく男を睨み付けていた。


『さーてとこの状況。どうするかねー』

『俺様に乗り換える気になったか?』

『おいおい、隻腕にしておいて言うセリフか?』

『女に腕なんか不要だろ? 重要なのは上下後ろの具合だ』

『うわ、過去一のゴミ男じゃねえか。死んでもお断りだぜ』

『なら死ね』


 次の瞬間、女泥棒の胸を鋭い何かが串刺にするのだった。


「意味がわかりませんでした。突然お姉ちゃんの背中に棘が生えて、激しい血飛沫が私に降り注ぎました。その光景を見た瞬間、身体が熱くなって、気が付けばタティがいたんです」


 それってつまり、その瞬間に到達したって事なのか?

 でも、そんな事ありえるのか? 当時のサシャはただの少女でしかなかったはずだ。


「トロさんの疑問は当然です。当時の私はアルケミストではありませんでした。ですが、お姉ちゃんから女の子なんだからお洒落もしなさいって貰ったペンダントが青褪めた石で出来ていたみたいなんです」


 青褪めた石はアルケミーを発動する上で必須となる媒体だ。それがなければアルケミーの奥義であるクルスを呼び出すなんて出来るわけない。そう思ったけど、身に付けていたペンダントが青褪めた石だったのか。それならありえる、のか?

 いやいや、そんなの本当にありえるのか?

 アルケミストとしての訓練をする事なく、いきなりクルスゲイトを発動させるなんて、そんなの……信じられない。信じられないけど……信じるしかない。


「私は咄嗟にタティと契約し、お姉ちゃんを連れて逃げ出しました。それからはお姉ちゃんの言葉に従って、廃墟に隠れました」


『お姉ちゃん! お姉ちゃん! お願いです! お願いですから死なないで下さい!』


 女泥棒の誘導によってやって来た廃屋。壊れ掛けのベッドで横になる彼女の手を握り締めながら、少女は大粒の涙をいくつも流していた。

 女泥棒が受けた傷は深く、到底止血が出来るレベルではなかった。

 片腕を失い、胸部には風穴。その身から夥しい量の血を流しながらも、彼女は意識を保ち続けていた。


『泣くな泣くな、せっかくの美少女が台無しだぜ? それに安心しな、ボクは絶対に死なないからな』

『ぐすん、本当ですか? 本当に死にませんか?』

『当たり前だろ? ボクを殺せる奴なんてこの世には存在しないんだぜ?』

『でも、止まらないです。血が、止まりません』

『まあ……この肉体はダメだろうな』

『……え?』


 女泥棒の言葉にまるで時間が止まったかのように硬直した少女は、やがて動き出すと大声を上げながら首を激しく横に振った。


『嫌です嫌です嫌です! お願いです、死なないで下さい! いなくならないで下さい! 私を……私を一人にしないで下さい』

『んー、やっぱりボクはまだまだ口下手だぜ。最後だし言いたい事があったんだけどな』

『最後だなんて……言わないで下さい』

『……ごめんごめん。でも、一生会えなくなるわけじゃないぜ?』

『え?』


 キョトンとした表情を浮かべる少女の頭に手を伸ばす女泥棒。


『キミがボクの事を忘れない限り、ボクはキミの中に存在し続ける。そしていつか、向こうの世界で再会する時を待ってるぜ』


 柔らかい笑みを浮かべ、少女の頭を優しく撫でる女泥棒。


『奥の部屋に食べ物がある、暫くはここで暮らしな。近い内にボクの妹みたいな奴が来るはずだ。キミと同い年だが、人生経験はボク並みだぜ。存分に頼ってくれ』

『お姉ちゃんの妹、ですか?』

『ああ、正確には違うけど、そう思ってくれて良いぜ。これからのプランも練ってるし、何も心配する事はない』

『ぐすん、お姉ちゃん……嫌だよ。一人にしないでよ』


 女泥棒の声は少しずつ弱々しくなっていた。

 大粒の涙を流しながら、少女は懸命に彼女の言葉を、一つ残らず聞き逃さないように聞いていた。

 少女は子供ながらも理解してしまったのだ。もう、この人が助かる道はないのだと。


『一人は辛いよな。わかるぜ』


 女泥棒は少女の首に腕を回すと、彼女を優しく抱き締めた。


『人間は一人じゃ生きられない。ただ延命する事は出来ても、無意に存在するだけじゃ死んでるのと同じだ。キミはそんな歩く屍になっちゃいけない。だから必ず、探すんだ』

『探す? 何をですか?』

『大勢じゃなくても良い。たった一人でも良い。心から信頼出来る仲間を探すんだ』

『仲間……ですか?』

『そう、仲間だ。心を通わせる事の出来る仲間。いつになるかは知らないけど、いつの日かきっと、いや、必ず出会えるぜ。このボクが保証してやる』

『お姉ちゃん……』

『……じゃあ、ボクは先に行くぜ。キミは暫く来るなよ。一人で生きるな。必ず、誰かと共に生きるんだぜ』


「それがお姉ちゃんの最後の言葉でした」

「……サシャ」

「サシャさん……」


 サシャの話を聞いてダウトは一度立ち上がると、サシャの隣へと移動して優しく肩を抱き寄せた。


「ダウトさん……ありがとうございます」

「恩人の死。いつの世も辛い事ですわね」


 恩人の死、大切な人の死。どうして俺たちの覚醒はこう一歩遅いんだろうな。

 俺がダウトを初めて錬成した時も、サシャがタティを錬成した時も、どちらも既にどうしようもない時だった。

 あの時、もしももっと早く到達する事が出来ていれば、もしかすれば違う未来があったのかもしれない。

 だけど、そんなもしもはないんだ。俺たちの未来はこの現在の先にしかないんだから。


「私は息を引き取ったお姉ちゃんを土葬した後、言われた通り暫くそこで暮らしました。数日後、お姉ちゃんが言った通り、妹さんが現れました」


 ダウトに身を預けながら、サシャは続けた。


『お姉ちゃん……ありがとうございました。私、頑張ってみます』

『貴様、そこで何をしている』

『ご、ごめんなさい! 私はその……』


 突然現れた銀髪の少女。

 反射的に謝りながらも、女泥棒と同じ髪色をした彼女を目にした瞬間、少女は悟った。この銀髪の少女こそ、女泥棒の言っていた妹のような人物なのだろうと。


『……その姿、なるほど貴様がそうか。話は聞いている。……それは墓か?』

『あの、その……ごめんなさい!』

『謝る必要はない。私とアレは姉妹のような存在というだけで、本物ではない。それに、アレが言っていただろう? アレはまだ死んではいない。貴様が忘れない限り、永劫に消える事はない』


 銀髪の少女はそう言うとゆっくりと歩き出し、少女の作った拙い墓の前にしゃがんだ。


『こいつは最後になんと言っていた?』

『一人で生きるな。必ず誰かと共に生きろと、そう言っていました』

『そうか。共依存者らしい言葉だな』


 墓に手を置き、表面をゆっくりとなぞる銀髪の少女。


『ならば私が共に生きよう。同い年なのだ、手を取り合おうではないか』

『……はい、よろしくお願いします』


 立ち上がり、手を差し出した彼女の手を、少女は両手で握り締めるのだった。


「お姉ちゃんが言っていた通り彼女は沢山の事を知っていて、色々と教わりました。剣については実戦によるスパルタ教育でしたが」


 そう言って苦笑いを浮かべるサシャ。

 サシャの剣は明らかに我流だった。自分で磨いた形だと思ってけど、ある意味強制的に磨かれたものだったみたいだな。師匠が俺にしたのと同じか。


「彼女をリーダーにして、私たちは身寄りのない子供たちを集めました。資金などは彼女に頼ってばかりで、それが申し訳なくて私も戦うようになったんです。ここは下層でも波花甲殻ソルガザミが頻繁に落ちて来たので、戦う力さえあればお金を得る事が出来ましたから」

「当時のサシャって何歳だったんだ?」

「あはは……十歳です」


 十歳で選んだ道が戦いで生計を立てる事か。中々やばい事をしてる自覚があるんだろうな。俺に聞かれて気まずそうに笑っていた。


「でも私にはそれしかありませんでした。頼れる人は他にいませんでしたし、リーダーの強さを見習う事しかわからなかったので」


 子供だったからこそ選択肢が義妹の真似しかなかったのか。……あれ、同い年って言ってなかったか? 十歳で波花甲殻ソルガザミ相手に戦うなんて、とんでもないな。


「言葉使いは厳しくて、結構キツイ性格をしていましたけど、とても頼りになる人だったんです。本当に同い年とは思えませんでしたね。それでも私は彼女こそがお姉ちゃんの言う信頼出来る仲間なんだと思うようになりました。ですが……」


 あれ、雲行き怪しくないか?


「リーダーはある日突然……帰って来なくなりました」


 そう言って俯くサシャ。

 えーと、突然暗い話になったぞ?

 前を向いて希望に満ちた明るい話だと思ったのに……。


「二人で作ったナイトメアール。悪夢をやり直す希望の家。ですが私たちは捨てられました。だから怖いんです。誰かに心を許せばまた失ってしまうのではないかと」


 失った過去があるから怖いか。

 どうしてサシャが助けを求めないのかわからなかったけど、やっぱりトラウマがあったんだな。


「いつか戻って来てくれる、そう思う事もありましたが、もう三年です。流石に諦めました」


 そう言って悲しそうに笑うサシャ。


「サシャさん、一つ良いかしら?」

「はい、なんですか?」


 ダウトはサシャの肩を優しく抱き寄せながら、ゆっくりと問う。


「怒らないで欲しいのだけど、もしかすると彼女は、貴方にもっと色んな人と関わって欲しいと思ったのではないかしら?」

「……どういう事ですか?」

「共にいる事だけが正しさではありませんわ。当時の貴方はまだ子供も子供、辛い事が多く、傷付いていた。だからこそ彼女に依存してしまったのではないかしら?」

「依存……ですか?」

「そうですわ。その兆候に気が付いたからこそ、彼女は貴方の未来を閉ざさないために一度離れた。そう考えられないかしら? それとも、本当に彼女は理由もなく裏切るような最低のゴミ屑だったのかしら?」

「ち、違います! 彼女は! 彼女は……」

「ごめんなさいね。でも、それが貴方の本心ですわ」


 ダウトは優しく微笑むと、サシャの意識に浸透させるかのように優しく語る。


「信じるも信じないも個人の自由ですわ。でも、可能な限り幸せな夢を信じる。その方が心はずっと楽になりますわよ」

「ダウトさん……」

「うふふ、クルスが何を言っているんだと、そう思うかしら?」

「お、思いませんよ! ダウトさんはダウトさんです!」

「うふふ、ありがとう」


 まるで仲の良い姉妹のように寄り添い合う二人。

 ダウトのそれは甘い誘惑だ。サシャの心を楽にするための優しい誘惑。

 どうして彼女がサシャの元を去ったのか、その理由なんて俺たちにわかるはずがない。ダウトの話にはもしもという、そう思いたいという願望が詰まっていたからな。言い方は悪くなるけど、騙したようなもんだ。

 でも、それでも、サシャにとっては救いになったんだろうか。嘘でも、偽物でも、救いにはなるんだ。


「すみません、少しと言いながら長々と話してしまいましたね」

「別にいいさ。けど、なんで話してくれたんだ? その、結構辛かっただろ?」

「……どうしてでしょうね。なんとなくですが、トロさんたちになら話しても良いって思ったんです」


 そう言って頬を赤らめるサシャ。

 ……なんだよその表情。なんか変な気分になるじゃんか。


「あっ、安心して下さいね。依存はしませんよ。私はもう、そんな子供ではないので、依存せずに、ただこれからも仲良くして下さいね」


 そう言って満面の笑みを浮かべるサシャ。

 虐待され、救われ、でも恩人を殺されて、頼れる仲間には捨てられた。サシャは今までそう思って生きて来たんだ。

 笑っているサシャを見るとなんだか嬉しかった。

 まるで自分の事のように、嬉しかったんだ。


「なあサシャ。俺たちってここに人探し目的で来てるんだ。困ってた時に助けてくれた恩人たちの長に礼が言いたくてさ」

「そうだったんですか?」

「近い内に探偵とか情報屋とか、そういうのを雇うつもりなんだけど、良かったそいつの名前を教えてくれないか? もしかして見つかるかもしれないし、会うかどうかは任せるけどさ。どうだ? サシャはもう一度会いたいって思うか?」

「主人様……」


 少しだけ責めるように俺を呼ぶダウト。

 まあ、その気持ちはわかる。再び会う事になれば真実が明らかになっちゃうからな。

 ダウトのもしもは絶対にありえないってわけじゃないけど、高確率で嘘になる。せっかくダウトが優しい嘘で包んだのに、その幻が消えちゃうかもしれないんだ。


「私は……」

「存分に悩め、けど先に名前だけでも教えてくれるか?」

「わかりました、彼女の名前は——」

「主人様っ!」


 突然大声を上げるダウト。

 そんなにもサシャに選択肢を与えるのが嫌なのかって一瞬だけそう思ったけど違う、そうじゃない。今の声は明らかに緊急時の叫びだ。

 サシャから離れ、立ち上がるダウト。その視線の先に見えるのは、信煙弾による狼煙。


「黒狼煙!?」


 焦燥に満ちた声を出しながら、慌てて立ち上がるサシャ。

 離れた場所に合図を送るために使われる信煙弾。煙の色で意味が変わるけど、北方地区における黒色の意味は、緊急事態。

 無数の波花甲殻ソルガザミが最前線を突破した事を意味する狼煙だ。

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