クルスゲイト
狐隠リオ
プロローグ
アルケミスト。
軍事王国という王家と軍部が強い権力を有する国、アカムプリスが誇る特殊戦力だ。
錬術、アルケミーと呼ばれる力を有し、それによって俺たち人間の敵を滅する。
第三勢力がその規模を拡大している現在、アルケミストたちに求められる戦力は今までの比じゃない。そのため、アルケミストを輩出し続ける一族には強い負担が掛かっていた。
……特に、一族の中で出来損ないとされている奴はな。
「はぁー、今日も無理か……」
自宅の訓練部屋にて俺は一人アルケミーの訓練をしていた。
通常の錬術、レサアルケミーは使える。けど、それじゃあ一人前と扱われる事はない。少なくとも、この家じゃ出来損ない扱いされる。
一人前として認められるのに必要なのは、アルケミストの奥義[クルスゲイト]だ。
「トロ、今日も力は目覚めなかったのか」
「——っ!?」
背後から声が聞こえ慌てて振り返ると、そこにはいつの間にか実の兄、ツナの姿があった。
いつの間にか開いていた入り口に背中を付け、腕を組み冷たい眼差しを送るツナ。
「やれやれ、同じ血を継承する兄として恥ずかしく思うぞ」
首を横に振り、息を吐くツナ。
実の兄であるツナは一つ歳上だ。そんなツナが初めて[クルスゲイト]を発動させたのは、今からもう三年も前の話だ。
そう。つまりツナは今の俺よりも二歳下の時にその力を開花させたんだ。
奥義まで到達するアルケミストは決して多くない。それでもこの家じゃ出来て当然とされているんだ。
父親の力を引き継いだ本物と偽物。完成品と出来損ない。
……本当に思うよ。狂った家だって。
「しかし喜べトロ。貴様のような無能にも、この私と祖を同じとした血が流れているのは確実なのだ、ならば必ず目覚める力は秘められている。誇ると良い」
喜ぶ? 誇る? そんなの無理に決まってる。
確かに才能の秘められた血なのかもしれない。だけど、力に呑まれたかどうかは知らないけど、性格がクソ野郎な兄と同じ血なんて、嫌悪以外の何物でもないっての。
「喜べトロ。無能だからこそ貴様には進むべき道がある。果ての見えない努力という茨道を進む権利をその手にしている。所詮それが凡人の足掻きだとしても、私は憐れな貴様の兄として、その道に施しを与えよう」
兄として施し? ふざけるな。お前のそれは施しなんかじゃない。ただの虐待なんだよ。
「喜べトロ。兄は貴様のような恥ずべき凡人に期待しているのだ。いずれ貴様の力がこの私へと至るその時を、そう夢見ているのだ」
期待? 夢? そんなの自己完結してろよ。お前の都合で俺を勝手に巻き込むな。
「喜べトロ。今一度、貴様の身に才ある者の力を刻もう」
そう言って人間の屑は己の意志を行動に移した。
一度もこいつを兄だと認めた事はない。だけど、血の繋がりだけで言えば実の兄であるクソ野郎は、手の甲に刻まれた紋章[アルケミサイン]を輝かせながら、その腕を俺へと翳した。
「【クルスゲイト】来れ、我が矛よ」
翳した先に紋章を更に複雑化させた魔法陣が現れると、眩い光を放った。
光と共に魔法陣から溢れ出した粒子が集まり、ヤツが創造し、契約を交わした幻上の獣が姿を現した。
「示せ、ベロス」
四足歩行の野獣、ベロス。
ヤツが自身の錬成した幻上生物[クルス]の名を呼ぶと、ベロスは己の創造主たるヤツの意に添い、その腕を振り上げた。
ペットとして育てられる機会が多く、人気もある犬に近い姿をしたクルス、ベロス。
だけど、ペットは飼い主に似るとはよく言ったものだ。ベロスには可愛さの欠片もない、むしろ狂気的で威圧的で攻撃的な外見をしている。
そして何より、体高二メートル近いその大きさが厄介だ。
その体高に見合って太い腕。それを振り上げているベロス。体重が乗った一撃はそれだけでも重いというのに、ベロスは元となった犬と同じように、いや大抵の生物ならばあるように、鋭い爪を有している。
ベロスのパンチはもはや打撃ではなく斬撃だ。
打撃でも重傷になりうるというのに、斬撃は更に脅威だ。とはいえ、この流れは今回が初めてってわけじゃない。
俺の身体には、既に無数の傷跡が残っているからな。
「——ぐっ」
ベロスの爪によって皮膚が、肉が切り裂かれ、真紅の飛沫が床を濡らした。
お仕置きとか、教育とか、そんなレベルじゃない。これが肉親にする事なのか?
いくら慣れているとは言っても斬られれば痛いし、つい声が漏れる事もある。それが気に入らないのか、クソ野郎は眉間に皺を寄せた。
「……なるほど、所詮は無能か。躱す事が出来ぬのは当然としても、その程度の傷に声を発するとは、情けない。兄は情けなく思うぞ。私がどれほど加減をしていると思っているのだ?」
傷を押さえる俺に向かって、嫌悪に満ちた眼差しを落としていた。
そこは流石の兄弟って事か? 意見が合うじゃんかよ。
俺もお前の事なんて大っ嫌いだ。
「哀れな弟よ。いずれは私の足元に追い付く事を淡くも期待している」
錬成維持を止め、ベロスを粒子に還したヤツは、そう言い残して立ち去った。
「……クソが」
俺とツナは一歳しか変わらない。だってのに間にある差はあまりにも大きい。それは俺自身わかってるし、認めてる。
……だけど、それでもこんなのはやり過ぎだ。
アルケミストの奥義たる[クルスゲイト]が使えない。それだけでこの扱いだ。毎日のように行われる施しときう名の虐待。それを知りながらも何も言わない親。
「……痛っ」
痛みには悲しい事に慣れた。でも、傷口の治療をしている時にはつい声が漏れた。
救急箱を取り出し、慣れた手付きで処置を進める。けど、今回斬られたのは利き腕である右腕だ。左腕じゃどうもやり辛い。
「トロ様っ!?」
聞き馴染んだ声に振り返ると、そこにはウェーブのかかった長い黒髪をツーサイドアップという、側頭部の髪の一部を結び、ストレートとツインテールを合わせたような髪型の少女、
「大丈夫ですかトロ様! その傷、またツナ様が……」
「あー、まあ大丈夫。知ってるだろ? いつもの事だって」
「それはわかっていますが……うぅ、私に任せて下さい!」
「……うん、頼んだ」
今にも泣き出しそうな顔で懇願するように言う鈴音。可愛い女の子にそんな顔をされたら断れないな。
仙石鈴音は家同士の約束によって関わるようになった二つ歳下の女の子で、今は十二歳だったはずだ。
真剣な顔をして小さな腕を動かし、傷の治療をしてくれる鈴音。彼女自身は家同士の約束とは直接的な関係はない。当事者は鈴音ではなく、三つ上の姉だ。
姉の名前は知らない。予め知る必要はないって言われ、教えられなかったからな。会った事すらないんだ。俺も当事者なんだけど、正直興味がない。
「トロ様……その、難しい立場だとは思いますけど、どうか無理はしないで下さいね?」
「ああ、そうだな。俺もそうしたいよ。けど、やるしかないんだ。今を変えるには、力が必要だからな」
「……トロ様。何かあれば私になんでも言って下さいね。私に出来る事ならなんでもしますから」
「ありがとな、鈴音」
心配そうに瞳を揺らしている鈴音を安心させるため、俺は彼女の頭を優しく撫でた。
俺の手が触れた瞬間は身体をビクッと震わせたけど、すぐに鈴音は目を閉じて気持ち良さそうにしていた。
「……あっトロ様! 怪我した手じゃないですか! ダメですよ!」
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと鈴音が治療してくれたからな」
「で、でもっ!」
撫でてるのが右手だと気が付いて慌てる鈴音だけど、暴れたら俺の手を痛めると思って我慢しているようだった。
「さーてと、もう一頑張りするか」
「えっ、だめですよ! 怪我してるんですよ!?」
「大丈夫だって、それに錬術は身体を酷使しないからな。問題無しだよ」
「トロ様……」
「鈴音、ありなとな」
「あっ、トロ様……」
治療をしてくれた鈴音に礼を言い、訓練部屋に戻ろうとした時だった。
身体の前で両手をギュッとさせた鈴音は、決意を固めた顔をして口を開いた。
「トロ様はどうしてそんなにも頑張れるんですか!」
意志の籠った力強さを感じるのと同時に、どこか不安げで、今にも砕けてしまいそうな弱さを、そう、悲しみすらも感じる声だった。
込められた感情に驚き振り返ると、鈴音は今にも泣き出しそうな顔をして口を開いた。
「私はトロ様みたいに頑張れません。どれだけ頑張っても全然結果なんて出なくて、レサアルケミーすらまともに使えなくて、でもお姉様は凄くて……みんなは歳の差だって、そう慰めてくれます。でも、私は思うんです。才能は生まれた時に決まってるって、努力なんて……意味ないんです。どうしてですか? トロ様だって本当はわかっているはずですよね? どうしてそれでも頑張れるんですか?」
焦燥と絶望に満ちた顔をしている鈴音。
結構失礼な事も言ってるけど、それだけ心に余裕がないって事だ。交流はまだ長いってわけじゃないけど、それでもわかる。鈴音は本来そんな事を言うような娘じゃないからな。
才能は生まれた時に決まるか。確かに、それはそうなのかもしれない。生まれた時に決まる資質。そういうのは確かにあるのかもしれない。
けど、そんな理由じゃ止まれないんだ。
「確かに才能とか資質はあるかもしれない。もしそうなら俺もお前も、そういうのが低く生まれたんだろうな。だけど、それはあくまでも低いってだけでゼロじゃない。歩幅は鈴音の姉や俺の兄とかと比べると小さいかもしれない。けど、何事も急げば良いってわけじゃない。足りないとわかっているなら別の要素で補えば良い。何も道は一つじゃない。王道がダメながら邪道でも何でも良い。俺はそう思ってるぞ」
「……王道がダメなら邪道……そんなの、良いんですか?」
「知らん」
「へ?」
バッサリと正面から斬った俺に、目を丸くする鈴音。
「正しいとか正しくないとか、わからんし正直言ってどうでも良い」
「ど、どうでも良いですか!?」
「ああ、少なくとも俺にとってはどうでも良い事だな。伝統? 継承? 才能? 下らない下らない。俺は俺だ。家に縛られるつもりはない。俺は俺の手で俺を完成させるだけだ」
アルケミストの一族だからアルケミストになる。環境を考えればそれが一番自然な事だろうな。だけど、俺にはきっとアルケミストとしての資質が足りない。それならアルケミストになったとしても出来る事はたかが知れてる。だけど、それはあくまでアルケミストになるならの話なんだ。
「才能は生まれな時に決まる。けど、何の才能もない奴なんていない。一つの力がダメなら他の力も、才能もプラスする。それならきっと対等に、いや、それ以上になるって俺は信じてるんだ」
俺の言葉に鈴音は視線を落とし、俺の腰へと向けた。
「……それがトロ様の答えなんですね」
「ああ、そういう事。ただ継承するだけじゃ進化はない。変化がないとな、それがきっと将来的には家のためにもなるだろ、多分」
「た、多分ですか……」
「ははっ」
呆れているようにも見える鈴音に思わず笑うと、つられるように彼女も笑っていた。
「えへへ、そうですね。ずっと同じじゃただの真似っ子ですよね。ありがとうございますトロ様っ! 私、考えてみます! 他に出来る事を、トロ様のようにただ頑張るんじゃなくて、工夫します!」
「どうせ万人に対する正解なんて世の中にはないんだ。自身の正解は自分で探せってな」
「はいっ!」
どこか影のあった表情から、晴れ晴れとスッキリした満面の笑みを浮かべる鈴音。
まだ十二歳の子供相手にこんな感情を抱くのは……まあ、世間的には駄目なんだろうけど、心の中でそっと思うだけなら良いよな。
——もしも鈴音が相手なら、幸せだったろうな。
鈴音に見送られ、俺は再び訓練部屋へと向かった。
「さてと、強がりも事実にしちゃえば問題ないよな」
確かに俺はアルケミストとして極める事を諦めて、別の力を求めた。
継承だけじゃ進化はない。それは確かにそう思っている。それは嘘じゃない。だけど、最初にあった気持ちは親、伝統に対する反抗だ。
俺がアルケミストとしての道だけじゃなく、他の技術に手を伸ばした本来の理由はちんけな自尊心、それから反抗心なんだろうな。
兄と比べられ、虐げられ、歪んだ。
鈴音も親から出来損ないと言われている。そんな彼女が俺の強がりを真に受けて、進もうとしているんだ。
嘘から出た真。偽りも本物に変えてしまえば許されるよな? 鈴音に嫌われたくないし、こんなのやるしかないよな。
アルケミストとしての俺は多分、もう限界だ。
ここから先は別の道。
下がった俺の視線の先にあるのはある時、鈴音も見ていた腰にあるもの。
普通とは違う厚造りの直刀「忍刀・暗月]だ。
刀術と錬術。二つの技術の融合。それこそ俺が進むべき道だ。
そう決意して一月もしない内に、それは起きた。……起きてしまった。俺の運命を決定的に変える大きな、大きな事件が。
深夜にふと目が覚めた。
喉が渇いたため水を飲もうと、テーブルに置かれたピッチャーから水をコップへと注ごうと思ったのだけど、どうやら空みたいだ。
時間は深夜だ。仕方がない、少し遠いけどキッチンまで汲みに行くか。
キッチンでピッチャーに水を入れ自室へと向かう途中、廊下を歩いていてふと視線を窓へと向けた時だった。
この時間なら普段は灯りが消えているはずの部屋から光が溢れていた。
あそこは……訓練部屋か? ……もしかして、鈴音か?
鈴音は三日後まで泊まっていく予定だったはずだ。こんな時間に訓練部屋を使うなんて、ツナはまずそんな事しないだろうし、となるとやる気になっている鈴音の可能性が高いか。
……少し見に行くか。
訓練部屋の部屋を開け、中の様子を見た瞬間、俺は持っていたピッチャーを落とした。キッチンで汲んだばかりの水が床を跳ね、ズボンの裾口が冷たく濡らしていた。
その事に気がつく事なく、俺は部屋の中へと走った。
灯りの付いた部屋の中心、そこには思っていた通り鈴音の姿があった。
しかし、彼女は両の足で立つ事なく……その場に倒れていた。
「鈴音っ!」
慌てて駆け寄り鈴音の身体を抱き起こすが、彼女の目は閉じていて返事は何もなかった。
訓練のし過ぎで倒れたのか? やる気になったのは良いけど、やり過ぎだろ。そういう素直で頑張り屋さんなところは良い所だと思うけど、次からは俺も一緒にいた方が良いかもな。
そんな事を考えていると、ふと、手に妙な感触があった。
——なんだ? 濡れてるのか?
そういえばさっきピッチャーを落としたな。水が手に掛かってたのか。濡れた手で触るなんて鈴音には悪い事をしたな。
……だけど、変じゃないか? どうしてこの液体は、温かいんだ?
不審に思い自身の手に視線を向けると……一瞬のうちに全身から血の気が引いた。
「……なん、で……」
俺の手を濡らしていたのは、血だった。
これは一体誰の血だ? 俺の血? 違う、鈴音の治療のおかけで血はもう止まっている。それなら、この血は……鈴音の……?
俺の意識は鈴音ばかりに向いていて、周囲の事が全く意識の中になかった。
動揺して視野が広がった時、それに気が付いた。鈴音が倒れていた場所には夥しい量の血液が水溜りを作っていたんだ。
「だ、誰かっ! 誰かいないか!」
血は温かい。出血してからまだそんなに時間が経っていないって事だ。どうしてこうなったのかはわからないけど、すぐに治療をすれば助かるはずだ。
俺の声に反応する者はいない。このままここに居ても何も好転する事はない。動かないとだめだ。そう思い、ぐったりとしている鈴音の身体を抱き抱えた時、背後から声が聞こえた。
「そこで何をしている愚弟」
ハッとして振り返ると、そこにはツナの姿があった。
冷たい表情をしているツナは、俺の腕の中を見ると驚いたかのように少し目を開いていた。
「ほう、貴様はそれを気に入っていると思っていたのだがな。あるいは手に入らぬのならば己の手で、クックックッ、歪んだ愛というものか」
こいつは一体何を言っているんだ? それじゃあまるで、俺が鈴音を……。
「違う! 俺じゃない!」
「見苦しいぞ愚弟。一見でわかる。その傷は他者によって与えられたものだ。この家にそれを害そうとする者はいない。あるならばそれは狂気を孕んだエゴ以外の何ものでもないだろう。しかし、驚いたぞ。まさか貴様がそれほどまでに大胆な行動を起こすとは。だがその行いは決して許される事ではない。仕方がない。私の力によって貴様に終焉を与えよう」
そう言って手の甲に刻まれた紋章を地に写すツナ。
ふざけるな。ツナの言い分はつまり、俺が鈴音を傷付けたって、そう言ってるんだ。
第三者によって与えられた傷。……それは、俺も同感だ。
最初は訓練の失敗による事故、そう思っていたけど、ツナに言われて俺もわかった。鈴音は誰かの手によって、そう、背後から刺されてこうなったんだ。
「【クルスゲイト】」
ツナのクルス、ベロスが拡大刻印から現れ、遠吠えをこの空間に満たした。
「我が矛よ。愚弟の憐れな道に終止符を与えよ」
ツナの命令に対して、再度遠吠えにやって答えたベロスは、創造主より与えられた命令を実行するべく俺に向かって来た。
「ちっ!」
俺は抱えた鈴音を慌てて下ろすと、ベロスの巨大な爪の一撃を咄嗟に抜いた忍刀で防いだ。
ここじゃまずい! 少しでも鈴音から離れないとっ。
いつものような単撃ではなく、連撃のせいで反撃する隙がなく、防御で精一杯だ。
——これがクルスの強さかっ!
アルケミストの奥義。その力たるクルスという存在。
今までだって何度もベロスに攻撃されて来たけど、今回のは明らかにレベルが違う!
躾や罰ではなく、何千に殺すつもりの攻撃だ。左右の爪による連撃をどうにか捌き続けてるけど、全ての威力を逸らす事は出来ていない。
少しずつ、いや、それ以上に早く蓄積する腕の痛み。このままじゃまずいっ!
「どうした愚弟よ。アルケミストの端くれだというのに何故アルケミーを使わない」
「くそっ」
ツナの表情には出ていないけど、その発言は嫌味だ。
一般的なアルケミストが使用するアルケミー、つまり、通常錬術であるレサアルケミーはその名の通り、劣るアルケミーなんだ。
一般的なアルケミストはこのレサアルケミーで戦うけど、奥義たるクルスと比べればそのレベルはあまりにも低い。
クルス相手にはまず通用しないんだ。それだけ、クルスは強い。
「勝ち目がない事は理解しているのだろう? アルケミストとして私の足元にも及ばない故に現実から逃避し、そんな棒遊びに熱中する愚弟よ。終わると良い、ベロス」
ツナの命令によって爪による猛攻をやめ、ベロスは四脚を地に付けるとその口を開いた。
——牙か? 違う、これは!
人の身では使えない本当のアルケミー。
クルスを介して放たれる真のアルケミストの力だ!
「さらばだ。愚弟」
開かれたベロスの口から放たれたのは、炎や水、雷などの力ではなく、硬く重い土の塊だった。
爪や牙による斬撃ではなく、口から放たれた土石塊による打撃は、忍刀による防御なんて軽々と突破し、俺の腹部に深々と突き刺さった。
衝撃によって身体が吹き飛び、ゴロゴロと床を転がった。
あまりの痛みに身体が動かない。唯一動くのは痛みによっていつの間にか閉じていた瞼だけだった。
目を開き、視界に移るのは倒れた鈴音。どうやら鈴音を下ろした場所まで吹き飛ばされたらしい。
「……鈴、音……」
動く事なく、目を閉じたままの鈴音。
……本当は気が付いていた。鈴音はもう、死んでしまったんだって。だけどそんな事認められなくて、生きているんだって、そう必死に思い込もうとしていたんだ。
このままじゃ、俺も死ぬ。口から溢れる赤色の命。さっきの一撃で幾つかの内臓が潰れたんだ。このまま何も出来ずに死ぬのか。……けど、それで良いのかもしれないな。
鈴音が死んだ。……俺も一緒に逝こう。
最後の力を振り絞って、俺は腕を鈴音へと伸ばした。
彼女の頬に触れる。白くて綺麗な肌をしているのに、俺なんかの血で汚れちゃったな。
「……愚弟よ。それほどまでにそれを気にしていたのか。……憐れな小娘だ。元より何も持たずに生まれ、ありとあらゆる面で実姉の劣化品。ならばいずれはせめて、私の子を宿す苗床程度にはなってもらうつもりだったが、骸となった今それも不可能。一切の幸福を得る事のない悲惨な人生だ」
ツナの声が聞こえる。
鈴音が憐れだと? 悲惨な人生だと? ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!
それにこいつはなんて言いやがった! 鈴音の事をまるで物のように言いやがって!
最後に一撃入れてやる。そう心は燃え上がるけれど……動かない。
——くそっ……ごめんな、鈴音。
最後にせめて、お前を侮辱したクソ男に一撃くれてやりたかった。
「せめての情けだ。死ぬまでの間、そうしていると良い」
ツナはそう言い残し、立ち去った。
「……鈴音……」
なあ鈴音。お前の身に一体何が起きたんだ? ……一体誰がお前を刺したんだ?
「……ごめん、ごめんな鈴音……」
外部から痕跡も残さずに賊が侵入するなんて事はありえない。
この家の人間が鈴音を害する事はありえない。
だけど、ただ一人だけ。それをやり得る奴がいる。タイミング良く現れた男。
「守れなくて……ごめん……」
鈴音。お前を刺したのはきっと……ツナなんだろ?
どんな理由があるのか、それはわからない。けど、こんなのってないじゃんか。鈴音はようやく歩き始めたんだ。自分の道を……それなのに、ツナによって奪われた。
暴言で尊厳を、力によって命を、あいつは奪っていったんだ。
目から涙が溢れ、視界が歪む。同時に、黒色に染まっていった。
全てが黒に染まる瞬間、俺は確かに聞いたんだ。
「……生きてください、トロ様」
そう泣きながら願う、鈴音の声を。
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