第5話-8


「……このような騒ぎにして、大変申し訳ございません」


 水族館の騒ぎが収束した後に、集まったスタッフの方々に向かって、深く頭を下げる。


「いや、あんたは悪くないよ!」

「酷い目に遭ったな」

「元気出してくださいね」

「彼女さん、お大事に!」


 スタッフの方々は、嫌な顔一つせず、むしろ気遣ってくれた。

 それでも、床に散乱した商品を拾い集め、倒れた棚を黙々と組み立て直す姿に、申し訳なさで胸が痛んだ。

 俺たちのせいで、こんなことになってしまった。


 そこに、館長らしき初老の男性が現れた。

 大きなジンベエザメのぬいぐるみを、俺に差し出した。


「よければ、また、ゆっくりいらしてください。彼女さんと、二人で」


 その言葉に、少しだけ救われた気がした。

 受け取りながら頭を下げた。


「……ありがとう、ございます……っ」





 今日のバイトは、店長に事情を連絡して休ませてもらった。

 陽菜は病院からそのまま帰宅したらしい。メッセージで送られていた。

 俺も付き添うと返信したが、連絡はなかった。


 冷え切った自室に帰り着いたのは、もう夜だった。

 ジンベエザメのぬいぐるみをベッドに置き、スマホを握り締める。

 意を決して、発信ボタンを押す。

 ――コール音が、無機質に響き続ける。

 出ない。 そして、留守番電話サービスに接続するアナウンス。

 すぐにチャットを送った。


『今日は本当にごめん。大丈夫か? 顔、痛むだろ』


 送信。……既読がつかない。


『ゆっくり休んで。明日、渡したいものがある』


 シャワーを浴びてから、再び送信した。やはり、既読がつかなかった。

 それは朝、目覚めても。





 陽菜は早番のはずだ。

 すれ違いざまに、一目だけでも顔を見て謝りたかった。

 だが、バックヤードに入っても、彼女の姿はどこにもなかった。


「……店長。幸村さんは?」

「ああ、諸橋くん。……それが、幸村さん、今朝電話があって」

「電話、ですか?」

「『一身上の都合で、しばらく休みたい』って……」


 血の気が引いた。

 あんなに仕事熱心だった陽菜が? ありえない。

 慌ててスマホを取り出し、電話をかける。


 ――プッ、プッ、プッ。


「……っ」


 通話中。

 いや、違う。これは、着信拒否だ。

 嘘だろ。陽菜。何で。もう一度、諦めきれずに発信する。プッ、プッ、プッ。無慈悲な音。

 全身から急速に熱が奪われていく。




 バイトが終わっても、家に帰らず、駅前のベンチに腰掛けて、ただひたすらに電話を待った。『駅前で待ってる』。そうメッセージを送って。

 夜が更け、日付が変わった。ダメか。

 帰る前に、最後にもう一度だけ電話をかけた、その時。


 ――プルルルル。

 コール音が、鳴った。  拒否が、解除されている……!

 心臓が跳ね上がる。3コール目。プツリ、と音がして、繋がった。


「陽菜ッ!!」


 遠くで「まもなく二番線に~」というアナウンスが聞こえた。


『……湊くん』


 掠れた、か細い声。

 生きていた。よかった。安堵と、何度も催促した罪悪感で、声が震える。


「陽菜! よかった……! 殴られたところ、大丈夫か!? 本当に、ごめん。俺が、俺が弱かったせいで……。守れなくて、本当に、ごめん……っ」

『……わたしこそ、ごめんね』


 電話の向こうの陽菜は、呆然としているようだった。

 声にいつもの光がない。まるで、魂が抜け落ちたみたいに。


『……余計なこと、したから。湊くんに、また、嫌な思いさせちゃった』 

「余計なこと、なんて、そんなこと……」

『ううん』


 陽菜は、それきり黙ってしまった。

 彼女が息を詰めているのがわかる。ただ、じっと待った。彼女自身の言葉を。

 そして、絞り出すような、絶望に満ちた声が聞こえた。


『……わたしね。あの時、殴られて、嬉しかったんだ』

「――え?」

『ああ、これで、わたしも湊くんと同じになれた。……これでやっと、湊くんの痛みの側に立てるって。同じになれたって。、って、思ったの』


 違う。陽菜、きみは、何を言ってるんだ。


『でもね、違った。……わたしは、最初から、バカで、最低なの』

「そんなことは……!」

『湊くんは、わたしみたいに汚れた、最低な女じゃなくて……』

「やめろ!!」


 そんなことない。

 結衣に、直哉に、教授に、存在価値を否定され、生きる意味すら見失っていた、俺。

 陽菜が、今、あの時の俺と、同じ声をしている。


『……もっと綺麗で、ちゃんとした人と、幸せになって』

「俺が幸せになれる人はっ! 幸せにしたい人は、陽菜だけだ!! 今すぐそこに行く! どこにいるんだ!」

『さよなら、湊くん』

「陽菜!!!」


 プツッ。

 切れた。虚しい音が、鼓膜に突き刺さる。もう一度かける。プッ、プッ、プッ。再び、着信拒否。


 ――陽菜。


 きみが俺を、絶望から救い出してくれた。

 今度は、俺が救う番だ。

 俺にくれた光をきみに返す。


 必ず、見つけ出す。この世界の、どこにいても。


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