第4話-5


 嵐のようなピークタイムが過ぎ去ったのは夕方だった。

 オープン初日をなめていた。正真正銘、ずっと客足が途切れなかった。

 こんなにも顧客から……いや、お客様から「ありがとう」が途切れない日になるなんて、な。


 今は、普段ポヤポヤしていると思っていた店長が、黙々とレジを代わってくれている。「君たち二人がいなければ、店は初日で潰れていたよ」と、心底感謝までしてくれた。

 他のスタッフは皆バックヤードにいる。パイプ椅子にふんぞり返ったり、裏返したケースに突っ伏したり、壁に寄りかかったりして、抜け殻のようになっている。

 生田は、いつの間にか姿を消していた。

 俺もようやく休憩に入った。「残業はちゃんとつけるから、今は休憩してきな」と、店長が言ってくれた。


 事前に買っていたペットボトルのお茶を二本、ロッカーから取り出す。

 バックヤードの隅で、床にへたり込んでいる陽菜を見つけた。

 商品棚で隠された死角だ。俺に気づいていない。さすがの彼女も、疲労の色は隠せないらしい。

 一本のペットボトルを、彼女の頬にそっと当てた。


「ひゃっ」

「お疲れ。ぬるくてすまん」

「……お疲れ様。み、……諸橋くん」


 陽菜はそれを受け取ると、嬉しそうに微笑んでくれた。

 隣にどさりと腰を下ろし、壁に背中を預ける。


「……ぷはっ」


 火照った体に、ぬるいお茶が染み渡った。

 言葉はない。互いの存在を感じながら、戦い抜いた後の心地よい疲労感に身を任せた。


「やったな」


 そんな言葉が漏れた。


「うん、やったね」


 陽菜が、こくりと頷く気配が伝わる。

 たったそれだけの会話に、今日一日の全てが詰まっている気がした。

 隣には、最高の相棒がいる。


「今日の混乱、やっぱり生田さんが原因だよ。特売品の在庫をわざと隠すなんて、嫌がらせのレベルを超えている。営業妨害だよ」


 そんな気はしていた。

 俺が補充に来たとき、一ケースだけ取りやすい場所に置いてあったのは、きっと陽菜が見つけて、そこに出しておいてくれたからだ。


「ああ。俺に責任を押し付けるつもりだったんだろうな」

「……許せない」


 陽菜の小さな拳が、見ていて痛いほど強く握られていた。

 俺のことなのに、自分のこと以上に怒ってくれる。その姿に、逆に胸を締め付けられる。


「俺は、いいと思ってるよ」


 だから、血の気の引いた拳を、上からそっと包んだ。


「――っ」


 息を呑んで、驚いたように目を見開く陽菜。

 その白い頬が、バックヤードの無機質な蛍光灯の下で、ほんのりと朱に染まった。

 ごめん。でも、あまりに無防備で。


「……ねえ、どうして?」

「壁が高いほど、跳べるだろ」


 俺の言葉に、一瞬きょとんとした。

 やがてふっと表情を緩めた。

 握った手の中の拳が解かれる。俺の指の隙間に、指を絡ませてきた。


「うん」


 滑らかな感触と、そばで響く呼吸音が、最高の報酬だ。


「陽菜」

「諸橋くん」


 顔を見合わせる。

 彼女の瞳の奥に宿る、あまりに深い感情に、圧倒されることしかできなかった。

 引力に、抗えない。


「俺のこと、名前で呼んでくれよ。さっきみたいに」


 本音を口にしてしまう。


「……うん。湊くん」


 しばらく黙って見つめ合う。

 もっと陽菜を知りたい。

 もっと、ちゃんと話がしたい。

 誰にも邪魔されない場所で。

 繋いだままの手に、そっと力を込めた。


「なあ、陽菜」


 二人きりになりたい、と言いかけたとき。

 陽菜は、もう片方の手の人差し指を、そっと俺の唇に当てた。

 そして、吐息がかかるほど、耳元に顔を寄せた。


「まだ、我慢」


 甘く掠れたウィスパーボイスが、耳の中を熱く湿らせる。

 ヨーグルトの匂いが、ふわり。

 ゆっくりと顔を離した陽菜は、慈しむような、それでいて熱を帯びた瞳で、俺を見つめた。


「どうして」


 俺が問いかけると、陽菜は目を伏せた。

 繋いだままの指先に、ぎゅっと力がこもる。


「……わたしも、がまん、してるから……っっ」


 絞り出すような、か細い声。


 ――今すぐ二人きりになりたい。


 震えた声が、陽菜も同じ気持ちであることを。

 そして、それを必死に理性で押さえつけていることを、伝えてくる。

 そして。


「先に、やることがある。でしょ?」


 再び顔を上げた彼女は、もう戸惑っていなかった。

 まるで勝利を確信しているような笑顔で、おもむろにスマホを取り出した。


「朝の不自然な指示、念のためスマホでも録音しておいたんだ」


 陽菜がスマホを持ち出して、再生する。


『お前は今日一日、品出しに専念しろ。お前だけでやれ。お客様の前に立つな。幸村ちゃんに近づくな。黙々と作業だけしてろ。分かったか、産業廃棄物』


 スピーカーから響いたのは、紛れもなく、朝のレジ前での生田の声だ。


「それにね」


 陽菜が、制服のポケットに差していたボールペンを取り出す。

 ノックをカチリと押すと、ざらつきの混じった音声が再生された。


『なんだ? 文句あんのか? バイトの分際でなあ!! 上司の指揮命令に従えないならクビだ!!!』


 三日前の会話だ。――このペン、ボイスレコーダーか!


「これって、立派な証拠になるんじゃないかな」


 スマホの録音、ペン型ボイスレコーダー。一体いつの間に……。

 陽菜を見た。

 天使の顔で、しかしその瞳は、確かな闘志を燃やしていた。


「ああ、陽菜。……やろう。本社に上げるぞ」


 陽菜は満足そうに、そして力強く頷いた。


「反撃開始だよ、湊くん」


 絡めた指が、合図みたいにきゅっと締まって、熱を帯びた。

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