第4話-5
◆
嵐のようなピークタイムが過ぎ去ったのは夕方だった。
オープン初日をなめていた。正真正銘、ずっと客足が途切れなかった。
こんなにも顧客から……いや、お客様から「ありがとう」が途切れない日になるなんて、な。
今は、普段ポヤポヤしていると思っていた店長が、黙々とレジを代わってくれている。「君たち二人がいなければ、店は初日で潰れていたよ」と、心底感謝までしてくれた。
他のスタッフは皆バックヤードにいる。パイプ椅子にふんぞり返ったり、裏返したケースに突っ伏したり、壁に寄りかかったりして、抜け殻のようになっている。
生田は、いつの間にか姿を消していた。
俺もようやく休憩に入った。「残業はちゃんとつけるから、今は休憩してきな」と、店長が言ってくれた。
事前に買っていたペットボトルのお茶を二本、ロッカーから取り出す。
バックヤードの隅で、床にへたり込んでいる陽菜を見つけた。
商品棚で隠された死角だ。俺に気づいていない。さすがの彼女も、疲労の色は隠せないらしい。
一本のペットボトルを、彼女の頬にそっと当てた。
「ひゃっ」
「お疲れ。ぬるくてすまん」
「……お疲れ様。み、……諸橋くん」
陽菜はそれを受け取ると、嬉しそうに微笑んでくれた。
隣にどさりと腰を下ろし、壁に背中を預ける。
「……ぷはっ」
火照った体に、ぬるいお茶が染み渡った。
言葉はない。互いの存在を感じながら、戦い抜いた後の心地よい疲労感に身を任せた。
「やったな」
そんな言葉が漏れた。
「うん、やったね」
陽菜が、こくりと頷く気配が伝わる。
たったそれだけの会話に、今日一日の全てが詰まっている気がした。
隣には、最高の相棒がいる。
「今日の混乱、やっぱり生田さんが原因だよ。特売品の在庫をわざと隠すなんて、嫌がらせのレベルを超えている。営業妨害だよ」
そんな気はしていた。
俺が補充に来たとき、一ケースだけ取りやすい場所に置いてあったのは、きっと陽菜が見つけて、そこに出しておいてくれたからだ。
「ああ。俺に責任を押し付けるつもりだったんだろうな」
「……許せない」
陽菜の小さな拳が、見ていて痛いほど強く握られていた。
俺のことなのに、自分のこと以上に怒ってくれる。その姿に、逆に胸を締め付けられる。
「俺は、いいと思ってるよ」
だから、血の気の引いた拳を、上からそっと包んだ。
「――っ」
息を呑んで、驚いたように目を見開く陽菜。
その白い頬が、バックヤードの無機質な蛍光灯の下で、ほんのりと朱に染まった。
ごめん。でも、あまりに無防備で。
「……ねえ、どうして?」
「壁が高いほど、跳べるだろ」
俺の言葉に、一瞬きょとんとした。
やがてふっと表情を緩めた。
握った手の中の拳が解かれる。俺の指の隙間に、指を絡ませてきた。
「うん」
滑らかな感触と、そばで響く呼吸音が、最高の報酬だ。
「陽菜」
「諸橋くん」
顔を見合わせる。
彼女の瞳の奥に宿る、あまりに深い感情に、圧倒されることしかできなかった。
引力に、抗えない。
「俺のこと、名前で呼んでくれよ。さっきみたいに」
本音を口にしてしまう。
「……うん。湊くん」
しばらく黙って見つめ合う。
もっと陽菜を知りたい。
もっと、ちゃんと話がしたい。
誰にも邪魔されない場所で。
繋いだままの手に、そっと力を込めた。
「なあ、陽菜」
二人きりになりたい、と言いかけたとき。
陽菜は、もう片方の手の人差し指を、そっと俺の唇に当てた。
そして、吐息がかかるほど、耳元に顔を寄せた。
「まだ、我慢」
甘く掠れたウィスパーボイスが、耳の中を熱く湿らせる。
ヨーグルトの匂いが、ふわり。
ゆっくりと顔を離した陽菜は、慈しむような、それでいて熱を帯びた瞳で、俺を見つめた。
「どうして」
俺が問いかけると、陽菜は目を伏せた。
繋いだままの指先に、ぎゅっと力がこもる。
「……わたしも、がまん、してるから……っっ」
絞り出すような、か細い声。
――今すぐ二人きりになりたい。
震えた声が、陽菜も同じ気持ちであることを。
そして、それを必死に理性で押さえつけていることを、伝えてくる。
そして。
「先に、やることがある。でしょ?」
再び顔を上げた彼女は、もう戸惑っていなかった。
まるで勝利を確信しているような笑顔で、おもむろにスマホを取り出した。
「朝の不自然な指示、念のためスマホでも録音しておいたんだ」
陽菜がスマホを持ち出して、再生する。
『お前は今日一日、品出しに専念しろ。お前だけでやれ。お客様の前に立つな。幸村ちゃんに近づくな。黙々と作業だけしてろ。分かったか、産業廃棄物』
スピーカーから響いたのは、紛れもなく、朝のレジ前での生田の声だ。
「それにね」
陽菜が、制服のポケットに差していたボールペンを取り出す。
ノックをカチリと押すと、ざらつきの混じった音声が再生された。
『なんだ? 文句あんのか? バイトの分際でなあ!! 上司の指揮命令に従えないならクビだ!!!』
三日前の会話だ。――このペン、ボイスレコーダーか!
「これって、立派な証拠になるんじゃないかな」
スマホの録音、ペン型ボイスレコーダー。一体いつの間に……。
陽菜を見た。
天使の顔で、しかしその瞳は、確かな闘志を燃やしていた。
「ああ、陽菜。……やろう。本社に上げるぞ」
陽菜は満足そうに、そして力強く頷いた。
「反撃開始だよ、湊くん」
絡めた指が、合図みたいにきゅっと締まって、熱を帯びた。
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