第1話-3


 休憩が明け、店長が咳払いをする。


「えー、皆さん、午後もよろしくお願いします。えっと、少しペアを変更します。諸橋さん、幸村さんと組んでくれるかな?」

「はあ!? なんでだよ!!」


 すかさず不満の声を上げたのは、さっき恥をかかされたばかりのエリアマネージャーだ。


「お前何言ってんのか、わかってんの!?」

「いえ! 生田マネージャー、これは業務上の判断でして」

「はあ!? バカか!! 上司はオレだろ! 何勝手なことすんだよ!!」

「生田マネージャー、ここは何とか~……」


 一方が怒鳴りつけるばかりの、二人の争いの傍らで。


「……帰るわ。死ね」


 捨て台詞を吐いた金田は、着ていた制服を脱ぎ捨てて店を出て行った。

 ……いやいや。えぇ?

 何が起きたのか理解できないまま、集合場所のレジ前で立ち尽くす。

 残されたスタッフたちの視線が、好奇と困惑の色を浮かべて俺に突き刺さる。え、そこ俺? 俺のせいなのか?

 すると幸村さんが、そっと隣に来た。

 彼女は少し気まずそうに微笑むと、小さな声で囁いた。


「ごめんね、諸橋くん」

「え……?」

「わたしが、あなたと一緒になりたいって、わがまま言ったから……」


 そう言って、彼女は少し頬を赤らめた。

 心臓が、大きく跳ねた。午前中の、鉛のように重かった不穏な鼓動とは違う。温かくて、少しだけ苦しい。

 何で? どうして俺なんかと? 疑問が渦巻くが、言葉にならない。


「えー、では研修を開始してください~……」


 ざわついた店内は、店長の間延びした号令で、再び二人一組に散り散りになった。





 午後の研修は、天国と地獄ほども違った。

 バックヤードで商品の場所を確認する作業。午前中も同じことをやった。なのに彼女がいるだけで全く苦じゃなかった。


「要冷蔵食品は、このウォークイン冷蔵庫。ケースのまま保管されてるから、ここから台車で運んで……そうそう!」


 俺が不器用に配達ケースを持ち上げると、幸村さんはまるで自分のことのように、嬉しそうに笑った。

 辛抱強く俺のペースに合わせて研修を進めてくれた。午前中の緊張とストレスで、ガチガチだった体が、彼女の優しい声に解きほぐされていくようだった。


「……これで、品出し確認は終わり!」


 ぱん、と軽く手を叩いて、幸村さんは満足そうに頷いた。その一つ一つの仕草が、どうしようもなく可愛い。


「……本当にありがとう、幸村さん」

「ううんっ、とんでもない! やっぱり頼れる男手があると、こっちこそすごく助かるよ」


 頼れる、男手。

 そんな風に思われたのはいつぶりだろうか。それも、こんなに綺麗な女の子に。


「……ていうかさ!」


 彼女は少し頬を膨らませると、拗ねたような上目遣いで俺を見つめた。


「『さん』、つけなくていいよ。幸村とか、……陽菜って呼んでよ。気軽に!」

「いや、それは悪いし。なら、幸村って呼ばせてもらうよ」

「んもぅ~。じゃあ、わたしは諸橋くんじゃなくて……」


 何かを言いかけて、「あっ」と呟いた。

 ……まさか、名前で呼ぼうと?

 聞けないまま、ぷいっとそっぽを向いてしまう。


「……何でもないっ。次は、タバコだね。えっと、一番がエコー、二番がわかば……」


 幸村はすごいな、と心底思う。

 午前中、自分でマニュアルを見ただけのはずなのに、もうほとんどの業務を把握しているみたいだ。

 てきぱきと、それでいて楽しそうに、彼女は研修を進めていく。まあ、今は俺から顔を背けて、耳を真っ赤にしているけれど。


「次、七番が……えっと、なんだっけ?」


 振り向いた彼女が、わざとらしく首を傾げる。試されているのか。


「……セブンスター」

「正解! すごいじゃん、諸橋くん!」


 いぇい、と彼女が無防備にハイタッチの構えを見せる。

 いいのだろうか。誰からも嫌われたこの手で、女性に、触れるなんて。

 ん? と幸村が首を傾げた。形のいい笑顔を保ったままだ。

 彼女が差し出した小さな手のひらに、恐る恐る、自分の手を合わせた。

 ふに、と皮膚同士が重なり合う。温かくて、柔らかい。

 向こうから、きゅっ、と握られた。

 細いのに――力強い。

 全身が痺れるような感覚に陥った。


「あふぁっ」


 変な声が出た。


「あっ、ご、ごめんね!?」

「俺こそ、ごめんっ」


 慌てて手を離すと、そこだけがひどく冷えた気がした。

 気まずい沈黙が流れる。お互いに、目を合わせることができない。


「……あの人、酷いことしてたでしょ。諸橋くんに」


 沈黙を破ったのは、幸村だった。


「……俺が、とろくさいのが原因だろ。皆しっかり働きに来ているのに、俺だけ生半可だから。言われるのは理由がある」

「そんなことないよ! それに、それならわたしも、邪な気持ちで応募したようなものだもん」

「邪って?」

「……ひみつ」


 彼女はそう言うと、人差し指をそっと自分の唇に当てて、悪戯っぽく笑った。

 ――初日だよなぁ、今日?

 こんなもん、もう、恋に落ちちゃうだろ!! いいのか!?


「……ありがとう、幸村さん」

「あ~っ。さん~? あれ~?」


 彼女が、楽しそうに俺の顔を覗き込む。


「……幸村」

「ふふ。よし!」




 その後も研修が続いた。

 俺がレジでミスをすれば「大丈夫、誰でもやるよ」と笑ってくれた。

 商品の場所がわからなければ、まるで俺の心を見透かしたように「こっちだよ」と優しく袖を引いてくれた。

 時折、彼女の指先が俺の手に触れるだけで、全身の血液が沸騰するような喜びを感じた。

 彼女と一緒に仕事を進めていると、さっきまでの頭痛が、嘘のように消えていた。





 あっという間に初日の業務が終わり、俺たちは店の前で別れた。


「また明日ね、諸橋くん!」


 小さく手を振って、去っていく彼女の後ろ姿を、いつまでも見つめた。

 心が温かい。こんな感覚は、いつぶりだろうか。


 信じていたものに裏切られた。

 築き上げてきた大学生活の日常は、たった一人の悪意によって、粉々に砕け散った。

 その果てに応募したバイトも、全員が善人ではない。

 それでも、この場所で、幸村と出会えたのなら。

 それだけで、もう少しだけ、生きていけるかもしれない。


 夜道を歩きながら、アパートへの道を辿った。鍵を開け、しんと静まり返った冷たい部屋に一人。

 その瞬間、胸にあったはずの温かな気持ちは急速に色を失った。


 耳の奥で、甲高い笑い声が反響する。

 俺を裏切り、笑いものにし、ありもしない罪を着せて追放した元カノ――。

 あいつの歪んだ欲望のせいで、未来は叩き壊された。

 今頃、俺から奪った全てを享受して笑っているんだろう。


 幸村がくれた束の間の希望は、悪夢のような記憶によって、いとも容易く踏み潰される。


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