第1話-3
◆
休憩が明け、店長が咳払いをする。
「えー、皆さん、午後もよろしくお願いします。えっと、少しペアを変更します。諸橋さん、幸村さんと組んでくれるかな?」
「はあ!? なんでだよ!!」
すかさず不満の声を上げたのは、さっき恥をかかされたばかりのエリアマネージャーだ。
「お前何言ってんのか、わかってんの!?」
「いえ! 生田マネージャー、これは業務上の判断でして」
「はあ!? バカか!! 上司はオレだろ! 何勝手なことすんだよ!!」
「生田マネージャー、ここは何とか~……」
一方が怒鳴りつけるばかりの、二人の争いの傍らで。
「……帰るわ。死ね」
捨て台詞を吐いた金田は、着ていた制服を脱ぎ捨てて店を出て行った。
……いやいや。えぇ?
何が起きたのか理解できないまま、集合場所のレジ前で立ち尽くす。
残されたスタッフたちの視線が、好奇と困惑の色を浮かべて俺に突き刺さる。え、そこ俺? 俺のせいなのか?
すると幸村さんが、そっと隣に来た。
彼女は少し気まずそうに微笑むと、小さな声で囁いた。
「ごめんね、諸橋くん」
「え……?」
「わたしが、あなたと一緒になりたいって、わがまま言ったから……」
そう言って、彼女は少し頬を赤らめた。
心臓が、大きく跳ねた。午前中の、鉛のように重かった不穏な鼓動とは違う。温かくて、少しだけ苦しい。
何で? どうして俺なんかと? 疑問が渦巻くが、言葉にならない。
「えー、では研修を開始してください~……」
ざわついた店内は、店長の間延びした号令で、再び二人一組に散り散りになった。
◆
午後の研修は、天国と地獄ほども違った。
バックヤードで商品の場所を確認する作業。午前中も同じことをやった。なのに彼女がいるだけで全く苦じゃなかった。
「要冷蔵食品は、このウォークイン冷蔵庫。ケースのまま保管されてるから、ここから台車で運んで……そうそう!」
俺が不器用に配達ケースを持ち上げると、幸村さんはまるで自分のことのように、嬉しそうに笑った。
辛抱強く俺のペースに合わせて研修を進めてくれた。午前中の緊張とストレスで、ガチガチだった体が、彼女の優しい声に解きほぐされていくようだった。
「……これで、品出し確認は終わり!」
ぱん、と軽く手を叩いて、幸村さんは満足そうに頷いた。その一つ一つの仕草が、どうしようもなく可愛い。
「……本当にありがとう、幸村さん」
「ううんっ、とんでもない! やっぱり頼れる男手があると、こっちこそすごく助かるよ」
頼れる、男手。
そんな風に思われたのはいつぶりだろうか。それも、こんなに綺麗な女の子に。
「……ていうかさ!」
彼女は少し頬を膨らませると、拗ねたような上目遣いで俺を見つめた。
「『さん』、つけなくていいよ。幸村とか、……陽菜って呼んでよ。気軽に!」
「いや、それは悪いし。なら、幸村って呼ばせてもらうよ」
「んもぅ~。じゃあ、わたしは諸橋くんじゃなくて……」
何かを言いかけて、「あっ」と呟いた。
……まさか、名前で呼ぼうと?
聞けないまま、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
「……何でもないっ。次は、タバコだね。えっと、一番がエコー、二番がわかば……」
幸村はすごいな、と心底思う。
午前中、自分でマニュアルを見ただけのはずなのに、もうほとんどの業務を把握しているみたいだ。
てきぱきと、それでいて楽しそうに、彼女は研修を進めていく。まあ、今は俺から顔を背けて、耳を真っ赤にしているけれど。
「次、七番が……えっと、なんだっけ?」
振り向いた彼女が、わざとらしく首を傾げる。試されているのか。
「……セブンスター」
「正解! すごいじゃん、諸橋くん!」
いぇい、と彼女が無防備にハイタッチの構えを見せる。
いいのだろうか。誰からも嫌われたこの手で、女性に、触れるなんて。
ん? と幸村が首を傾げた。形のいい笑顔を保ったままだ。
彼女が差し出した小さな手のひらに、恐る恐る、自分の手を合わせた。
ふに、と皮膚同士が重なり合う。温かくて、柔らかい。
向こうから、きゅっ、と握られた。
細いのに――力強い。
全身が痺れるような感覚に陥った。
「あふぁっ」
変な声が出た。
「あっ、ご、ごめんね!?」
「俺こそ、ごめんっ」
慌てて手を離すと、そこだけがひどく冷えた気がした。
気まずい沈黙が流れる。お互いに、目を合わせることができない。
「……あの人、酷いことしてたでしょ。諸橋くんに」
沈黙を破ったのは、幸村だった。
「……俺が、とろくさいのが原因だろ。皆しっかり働きに来ているのに、俺だけ生半可だから。言われるのは理由がある」
「そんなことないよ! それに、それならわたしも、邪な気持ちで応募したようなものだもん」
「邪って?」
「……ひみつ」
彼女はそう言うと、人差し指をそっと自分の唇に当てて、悪戯っぽく笑った。
――初日だよなぁ、今日?
こんなもん、もう、恋に落ちちゃうだろ!! いいのか!?
「……ありがとう、幸村さん」
「あ~っ。さん~? あれ~?」
彼女が、楽しそうに俺の顔を覗き込む。
「……幸村」
「ふふ。よし!」
その後も研修が続いた。
俺がレジでミスをすれば「大丈夫、誰でもやるよ」と笑ってくれた。
商品の場所がわからなければ、まるで俺の心を見透かしたように「こっちだよ」と優しく袖を引いてくれた。
時折、彼女の指先が俺の手に触れるだけで、全身の血液が沸騰するような喜びを感じた。
彼女と一緒に仕事を進めていると、さっきまでの頭痛が、嘘のように消えていた。
◆
あっという間に初日の業務が終わり、俺たちは店の前で別れた。
「また明日ね、諸橋くん!」
小さく手を振って、去っていく彼女の後ろ姿を、いつまでも見つめた。
心が温かい。こんな感覚は、いつぶりだろうか。
信じていたものに裏切られた。
築き上げてきた大学生活の日常は、たった一人の悪意によって、粉々に砕け散った。
その果てに応募したバイトも、全員が善人ではない。
それでも、この場所で、幸村と出会えたのなら。
それだけで、もう少しだけ、生きていけるかもしれない。
夜道を歩きながら、アパートへの道を辿った。鍵を開け、しんと静まり返った冷たい部屋に一人。
その瞬間、胸にあったはずの温かな気持ちは急速に色を失った。
耳の奥で、甲高い笑い声が反響する。
俺を裏切り、笑いものにし、ありもしない罪を着せて追放した元カノ――。
あいつの歪んだ欲望のせいで、未来は叩き壊された。
今頃、俺から奪った全てを享受して笑っているんだろう。
幸村がくれた束の間の希望は、悪夢のような記憶によって、いとも容易く踏み潰される。
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