第09話「反撃のベイズ推定」
理人が戻ってきた翌日、ネクストリープのオフィスはこれまでにない緊張感と高揚感に包まれていた。慎一は全社員を集め、理人から聞いたギガ・ソリューションズの不正のすべてを語った。そして、ネクストリープとしてこの不正を告発し、正義のために戦うことを宣言した。
「これは単なる会社同士の争いやない。データ社会の未来をかけた戦いや。俺たちは、人の心を無視したビジネスに、断固として『ノー』を突きつける!」
慎一の力強い演説に、社員たちは静かに、しかし熱く燃えていた。理人を追い出してしまった罪悪感と、巨大な権力に立ち向かう恐怖。それらが入り混じりながらも、誰もが「正しいこと」をしたいと願っていた。ネクストリープは、一枚岩となって反撃の狼煙を上げた。
作戦会議は、社長室で慎一と理人、そして各部署のリーダー数名で行われた。中心に立つのは、もちろん理人だ。彼は、まるで水を得た魚のように生き生きとした表情でホワイトボードに向かっていた。
「ギガ社を追い詰める鍵は、彼らが改ざんしたデータの中にあります。彼らは違法に収集した個人情報を、あたかも正規の手段で得たかのように見せかけるため、ログデータに巧妙な偽装を施しているはずです。我々はその『偽装のパターン』を特定し、不正の動かぬ証拠を掴む必要があります」
「しかし、敵は業界最大手。セキュリティも万全だろう。どうやってそのパターンを特定するんだ?」
技術部長の問いに、理人は自信に満ちた笑みを浮かべた。
「『ベイズ推定』を使います。」
またしても、聞き慣れない言葉が出てきた。社員たちが顔を見合わせる中、理人は説明を続ける。
「ベイズ推定とは、簡単に言えば『新しい情報を得るたびに、予測の精度を更新していく』という考え方です。例えば、ここに中身が見えない袋があり、赤い玉と白い玉が合計百個入っているとします。最初は、赤と白が何個ずつ入っているか全く分かりません。これを『事前確率』と言います」
理人はホワイトボードに、袋の絵を描いた。
「しかし、袋から玉を一つ取り出して、それが『赤』だったとします。すると我々は、『この袋には、もしかしたら赤い玉の方が多いのかもしれない』と予測を少しだけ更新できますよね? さらにもう一つ取り出して、それも『赤』だったら、その確信はさらに強くなる。このように観測したデータ(事後確率)に基づいて元の予測(事前確率)をどんどんアップデートしていくのが、ベイズ推定の基本的な考え方です」
「なるほど……。それを、どうやってデータ改ざんに応用するんや?」
慎一が尋ねると、理人は得意げに指を鳴らした。
「私がギガ社にいた時、彼らのデータ管理システムの根幹部分の設計に少しだけ関わっていました。その時の記憶と、彼らが公表している論文や技術情報から、彼らが使いそうな改ざんアルゴリズムの『事前確率』をいくつか予測できます。そして、私が集めたこの証拠データの一部と照らし合わせることで、その予測を更新し、最も可能性の高い改ざんパターン、つまり『事後確率』が最も高いパターンを特定するんです」
それは、大海原に落とした一本の針を磁石を使って探し当てるような、途方もない作業に思えた。だが、理人の瞳には一点の曇りもなかった。
その日から、理人を中心とした特別チームによる昼夜を問わないデータ解析が始まった。慎一は、彼らが集中できる環境を整えることに全力を注いだ。食事の差し入れをしたり、仮眠室を用意したり。それは経営者としての仕事であると同時に、理人を支えたいという個人的な想いの表れでもあった。
解析作業は、困難を極めた。ギガ社の偽装は理人の想像以上に巧妙だった。何度も壁にぶつかり、チームのメンバーが諦めかけた時、いつも理人が新たな視点を示し、彼らを鼓舞した。
「まだです。このノイズの中に、必ずシグナルは隠れている。諦めずに仮説と検証を繰り返しましょう」
感情が高ぶると早口になる彼の癖が、この時ばかりはチーム全体の士気を高める呪文のように聞こえた。
慎一は、そんな理人の姿を少し離れた場所から見守っていた。あの雨の夜以来、二人の間に恋愛めいた会話はなかった。だが言葉にしなくとも、互いの想いは痛いほど伝わっていた。同じ目的に向かって戦う中で、二人の絆は以前よりもさらに強く、固く結ばれていくのを感じていた。
そして、作業開始から一週間が経った深夜。
「……見つけました」
静まり返ったオフィスに、理人の声が響いた。モニターを囲んでいたメンバーから、歓声が上がる。
理人が指し示した画面には、特定の周期でデータのタイムスタンプが不自然に書き換えられている痕跡が、はっきりと可視化されていた。それは、ギガ社のデータ改ざんを示す動かぬ証拠だった。
「やったな、理人!」
慎一は、思わず理人の肩を強く抱いた。理人も、興奮を隠しきれない様子で頬を紅潮させている。
「はい。これで、第一段階はクリアです」
「第一段階?」
「ええ。証拠は掴みました。しかし、これを公にしただけでは、ギガ社は『元社員によるデータの持ち出しと捏造だ』と主張してくるでしょう。我々には、社会的信用が足りない」
理人は、冷静に次の手を考えていた。
「そこで、次の一手です。行動経済学の『社会的証明の原理』を利用しましょう」
「社会的証明……?」
「はい。人は、自分の判断に自信がない時、他人の行動を参考にしてしまう、という心理的傾向です。特に、多くの人が支持していることや権威のある人が認めたことは、『正しい』と思い込みやすい。我々はこの原理を利用して業界内で我々の味方を増やし、ギガ社を追い詰める包囲網を築きます」
理人の目は、チェスの名人のように数手先まで見据えていた。
慎一は、彼の隣に立ち力強くうなずいた。
「ああ。やろう。俺たちの正しさを、世の中に証明してやるんや」
勝利の光はまだ遠い。だが、暗闇の中を進むべき道筋は、はっきりと見えていた。二人の天才が描く逆転のシナリオが、今、最終章へと向けて動き出す。
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