黒瀬探偵事務所へようこそ──煙草と酒と、くだらない依頼

雨宮しずく

第1話「消えた駄菓子と最初の依頼」前編

新潟市・古町。

 夏の朝は、夜のネオンの残り香と、蝉のけたたましい鳴き声で始まる。アスファルトは朝八時にしてすでに灼熱、路地の排気口からは熱風が吹き出し、汗が滝のように流れる。観光パンフレットでは「北国の涼やかな夏」とか言っているが、古町に住む人間からすれば「暑いもんは暑い」である。


 その繁華街の裏路地。キャバクラとスナックとラーメン屋に囲まれた雑居ビルの二階。くたびれた鉄製の看板には「黒瀬探偵事務所」とだけ書かれている。フォントが昭和で止まっている時点で、客を呼ぶ気があるのか怪しい。


 そのドアを開けると――バーボンと煙草の匂いがむわっと鼻を突いた。


「……ねぇ、冷房壊れてんのに朝から酒と煙草って、頭おかしいでしょ。」


 机に広げた書類をパタパタ扇ぎながら、笹原美月が呆れ声をあげる。

 二十五歳。元OL。世間的には「普通の女性」をやっていたはずなのに、なぜか今はこの探偵事務所で雑用と経理を押し付けられている。


 だが彼女はまだ気づいていない。ここでの役割は、経理や雑用なんかじゃない。――ツッコミだ。


「酒と煙草はな、夏バテ防止に効くんだよ。」


 ソファに寝転がっているのは、無精ひげにヨレヨレのスーツ姿の男。黒瀬隼人。二十七歳。肩書きは探偵。

 だが誰がどう見ても、探偵というより社会不適合者にしか見えない。


「効くのは病院行きでしょ!」


 美月の毒舌が飛ぶ。


 隼人は片手にラッキーストライク、もう片方にはバーボンのグラス。冷房より先に煙草に火を点ける男を見て、まともな人間なら「この人に依頼して大丈夫?」と疑うだろう。だがここは古町。まともな人間のほうが少ない街だ。


 机の下では、犬のバロンがぐったりと横になっていた。舌を出してハァハァと苦しそうにしている。


「ほら、バロンも呆れてるわよ。アンタの酒臭さで酸欠になるって。」

「犬は正直だな……人間よりよっぽど信用できる。」

「シリアスぶるなバカ探偵!」


 そのとき、ドアが勢いよく開いた。


「隼人さん!お待たせしました!アイスコーヒーをブルーマウンテンで淹れてきました!」


 やけに爽やかな笑顔で現れた青年に、美月が顔をしかめる。

 九条零士。二十六歳。九条財閥の御曹司にして、なぜかこの探偵事務所の助手をやっている。


「……ねぇ零士。なんでこんなブラック企業みたいなとこに就職したの?」

「美月さん!僕は本気です!隼人さんの背中を追って、この事務所に来たんです!」

「……お前、氷結でも買ってこい。」

「缶チューハイで夏を乗り切るなバカ!」


 煙草の煙、バーボンの匂い、そして財閥御曹司のブルーマウンテン。

 この三つが揃う場所は、世界広しといえど「黒瀬探偵事務所」くらいだろう。


 ――その時。


「隼人ちゃーん!大変だよ、大変!」


 駄菓子屋「菊池堂」のオバチャン、菊池ハルが汗だくで駆け込んできた。七十歳にして声量は古町一。彼女が叫ぶと、事務所全体が震える気さえする。


「どうしたんですか、ハルさん?」美月が慌てて扇子を止める。

「うちの駄菓子が、今朝ごっそり盗まれたんだよ!」


「……くだらねぇな。」隼人が煙を吐く。

「くだらなくないでしょ!?商店街の子供たちが泣いてんだから!」

「子供のプリンより価値あるんですか?」零士が素で首を傾げる。

「あるわよ!子供にとって駄菓子は命より大事なの!」美月の正論ツッコミが炸裂する。


 こうして、黒瀬探偵事務所の「最初の依頼」が幕を開けた。

新潟市・古町。

 夏の朝は、夜のネオンの残り香と、蝉のけたたましい鳴き声で始まる。アスファルトは朝八時にしてすでに灼熱、路地の排気口からは熱風が吹き出し、汗が滝のように流れる。観光パンフレットでは「北国の涼やかな夏」とか言っているが、古町に住む人間からすれば「暑いもんは暑い」である。


 その繁華街の裏路地。キャバクラとスナックとラーメン屋に囲まれた雑居ビルの二階。くたびれた鉄製の看板には「黒瀬探偵事務所」とだけ書かれている。フォントが昭和で止まっている時点で、客を呼ぶ気があるのか怪しい。


 そのドアを開けると――バーボンと煙草の匂いがむわっと鼻を突いた。


「……ねぇ、冷房壊れてんのに朝から酒と煙草って、頭おかしいでしょ。」


 机に広げた書類をパタパタ扇ぎながら、笹原美月が呆れ声をあげる。

 二十五歳。元OL。世間的には「普通の女性」をやっていたはずなのに、なぜか今はこの探偵事務所で雑用と経理を押し付けられている。


 だが彼女はまだ気づいていない。ここでの役割は、経理や雑用なんかじゃない。――ツッコミだ。


「酒と煙草はな、夏バテ防止に効くんだよ。」


 ソファに寝転がっているのは、無精ひげにヨレヨレのスーツ姿の男。黒瀬隼人。二十七歳。肩書きは探偵。

 だが誰がどう見ても、探偵というより社会不適合者にしか見えない。


「効くのは病院行きでしょ!」


 美月の毒舌が飛ぶ。


 隼人は片手にラッキーストライク、もう片方にはバーボンのグラス。冷房より先に煙草に火を点ける男を見て、まともな人間なら「この人に依頼して大丈夫?」と疑うだろう。だがここは古町。まともな人間のほうが少ない街だ。


 机の下では、犬のバロンがぐったりと横になっていた。舌を出してハァハァと苦しそうにしている。


「ほら、バロンも呆れてるわよ。アンタの酒臭さで酸欠になるって。」

「犬は正直だな……人間よりよっぽど信用できる。」

「シリアスぶるなバカ探偵!」


 そのとき、ドアが勢いよく開いた。


「隼人さん!お待たせしました!アイスコーヒーをブルーマウンテンで淹れてきました!」


 やけに爽やかな笑顔で現れた青年に、美月が顔をしかめる。

 九条零士。二十六歳。九条財閥の御曹司にして、なぜかこの探偵事務所の助手をやっている。


「……ねぇ零士。なんでこんなブラック企業みたいなとこに就職したの?」

「美月さん!僕は本気です!隼人さんの背中を追って、この事務所に来たんです!」

「……お前、氷結でも買ってこい。」

「缶チューハイで夏を乗り切るなバカ!」


 煙草の煙、バーボンの匂い、そして財閥御曹司のブルーマウンテン。

 この三つが揃う場所は、世界広しといえど「黒瀬探偵事務所」くらいだろう。


 ――その時。


「隼人ちゃーん!大変だよ、大変!」


 駄菓子屋「菊池堂」のオバチャン、菊池ハルが汗だくで駆け込んできた。七十歳にして声量は古町一。彼女が叫ぶと、事務所全体が震える気さえする。


「どうしたんですか、ハルさん?」美月が慌てて扇子を止める。

「うちの駄菓子が、今朝ごっそり盗まれたんだよ!」


「……くだらねぇな。」隼人が煙を吐く。

「くだらなくないでしょ!?商店街の子供たちが泣いてんだから!」

「子供のプリンより価値あるんですか?」零士が素で首を傾げる。

「あるわよ!子供にとって駄菓子は命より大事なの!」美月の正論ツッコミが炸裂する。


 こうして、黒瀬探偵事務所の「最初の依頼」が幕を開けた。

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