第50話 声

「っくしゅ」


 しばらくして、気持ちも落ち着いてきたらしいハルの小さなくしゃみに、おもわずキョウヤは笑みをこぼした。

 太陽と月が交代してずいぶんと経つ。

 屋上に吹き抜ける風はけっして強くはないが、それでも夜独特のひんやりとした空気をまとっていた。


「ほら、そろそろ戻んねーと風邪引くぞ」


 軽く鼻をすするハルの体を、キョウヤは出入口に向かって強制的に方向転換させてやる。

 顔だけこちらに向ける彼女の瞳は、どうやら自分も一緒にと言いたげだった。

 その証拠に、ハルの小さな手は彼の服を掴んで離そうとはしない。


「…………」

「……部屋、来る?」


 キョウヤが軽い調子で言う。

 互いの気持ちが通じ合ったのだ。いまさらシュウの戻ってくる可能性のある部屋に帰す気などさらさらないのだが、キョウヤはあえてそう聞いた。


 するとハルも、少し照れくさそうにはにかみながら小さくうなずく。

 その姿になんとも言えない愛おしさを感じ、キョウヤはおもわずハルを抱きしめた。彼女のひたいに唇を落とす。


 どちらからともなくつながれた手。握ったぬくもりの心地よさに、無意識に心が満たされる。

 二人で並んで歩くことも、手をつなぐことも、ましてや自室に彼女が来ることもはじめてではないのに、想いが通じ合ったというだけでなにもかもが新鮮に思えた。


「はいどうぞ、お姫さま」

「おじゃまします……」

「じゃなくて?」

「ふふっ、『ただいま』?」


 ドアのオートロックがかかる音を背中で聞き流しながら、キョウヤはハルの手を引いた。

 暗がりの中、外気ですっかり冷えてしまった互いの体をあたためあうように、きつくきつく抱きしめる。

 耳元でささやかれた熱い吐息に、ハルは小さく応えた。

 こつんとひたいを合わせてはにかみあうと、どちらからともなく唇を重ねる。

 行き来する熱に浮かされながら、二人は何度も互いを求め合った。



◇◇◇◇◇



 シュウに別れの言葉を突きつけられてから二日。

 エリカはうつろなまなざしでぼんやりと天井を見上げたまま、自室の床に力なく座っていた。

 おそらく食事もまともにとっていないのだろう。

 風呂に入ることすら億劫で、目元はすっかり黒ずんでしまっていた。

 心ここに在らず。

 ふわふわとする思考は働かず、頭に霞がかかっているかのような感覚に襲われる。


『――力が、欲しいか?』

「だ、れ……?」


 部屋には彼女以外誰もいない。

 にもかかわらず、はっきりとしない脳内に直接響く重低音が、妙にエリカの神経を高ぶらせた。


『――力を求めよ』

「……ち、から……?」

『――お前の望みはなんだ?』

「……あたしの、のぞみ……?」

『――求めよ、すべてを』

「……きゅー、ぶ……?」


 エリカは緩慢な動きで床から立ち上がる。

 力の入りきらない足がよろけた拍子に、そばにあったガラスの小瓶が倒れて床に転がった。

 小さな白い錠剤が、無造作に辺りに散乱する。

 しかしエリカは気に留める様子もない。

 おぼつかない足取りで自室をあとにすると、裸足のまま彼女は冷たい廊下を進んでいった。


 ペタ……ペタ……と響く湿った足音が、やけに不気味だった。

 焦点の合わない瞳はなにを映すでもなく、ぼんやりと辺りをさまよう。

 喧騒はどこか遠く、すれ違う者はない。


 ふらふらと左右に体を揺らしながら、エリカは司令室の前を通過する。

 廊下の先の突き当たり。関係者のみに使用が許されたスライドドアが、エリカのゆく手を阻む。

 だが彼女はためらうことなく、いつの間にか握りしめていたカードキーを端末に押しつけるようにしてかざしていた。


 表示されたのは、知らない男の名前。


 それが誰かなど認識する暇もなく、ランプが緑色に点灯したと同時にドアがすばやくひらいた。

 まるでエリカを待っていたかのように、エレベーターが扉を開けていた。


「フフッ……フフフッ……」


 デジタルの表示がひとつずつ進むにつれて、エリカの真っ赤に染まった唇が妖しくつり上がっていく。

 生気のない白い顔色に対して、血がにじんだような唇の赤みだけが気味悪いほどに際立っていた。


「よんでる……きゅーぶが……よんでるっ……!!」


 うわ言のように、エリカは何度も繰り返し同じ言葉をつぶやいた。

 抑えきれない高揚感が彼女の心を踊らせる。

 それは歓喜や悦楽といった類いのものに近い。


「ちょっ、きみ!」


 なに食わぬ顔で目の前を通過していくエリカに、警備員の一人がすかさずその肩を掴む。


「無許可での立ち入りは禁止されています。止まりなさい」


 しかしエリカは警備員の制止を振りきり、なおかつその細腕からは想像もつかないような力で男をねじ伏せたのである。

 そこ一点にだけ膨大な圧力がかかっているかのように一切起き上がることができない男の頭を、湿った裸足が踏みつける。


「きゅーぶがよんでるの……じゃま、しないでっ……!!」


 エリカの瞳は飢えた獣のようにぎらつき、闇が揺らいでいた。


「落ち着きなさい! 離れて!」


 慌ててブースから飛び出してきたもう一人の警備員を一瞥して、エリカはすばやく身をひるがえす。


「じゃま……しないでってばぁ!!」


 男の後頭部を鷲掴み、力任せにブースのカウンターに叩きつける。

 手を離せば、警備員はずるずると崩れ落ちるようにして床に転がった。


「フフッ……きゅーぶが、ちからをくれるの……!」


 笑みを浮かべて喉を鳴らすエリカは、再びふらふらと歩を進める。

 暗い廊下の一番奥。研修のときに一度だけ訪れた、キューブの保管室。

 あのときと変わりなく浮かぶ宝石を目にした瞬間、エリカは吸い寄せられるようにガラスにへばりついた。

 呼気で白く曇るガラスの奥で、キューブの輝きがいっそうエリカを魅了する。


「フフッ……とくべつなの……あたしは、とくべつになるのっ……!」


 そのとき、厳重にロックされているはずの鉄扉から電子音が響いた。

 表示された『OPEN』の文字が、暗がりの中で妖しく揺れる。

 エリカは導かれるように鉄扉に手をかけると、ためらうことなく隔離された空間へと足を踏み入れた。


 邪魔者はいない。

 力さえ手に入れば、誰にも文句は言わせない。

 これですべてが自分の思いどおりになるのだと、エリカは色を失くした瞳を輝かせる。


「きゅーぶ! ちからを……! あたしにちからを!!」


 興奮気味に叫びながらキューブへと駆け寄ると、エリカはふわふわと宙に浮かぶ石に手を伸ばす。

 なめらかな表面が、ひんやりと冷たい。


 次の瞬間、辺りは光に包まれた。



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