第28話 【外伝】諏訪湖のほとり
むかしむかしのお話です。
信濃の国、諏訪の湖のほとりに、ひとりの神さまが佇んでおられました。
その名をタケミナカタ様と申します。
かつて国譲り――大和と出雲の大統合――の折、最後まで国譲りに反対して、大和の使いであったタケミカヅチ様に戦いを挑み、敗れてこの地に住まわれるようになった神さまです。
今では諏訪の守り神として、信濃の国の人々に慕われておりましたが、やはり心のどこかに出雲への想いを残しておられたようです。
「神在月……いや、この地では神無月か。この空の向こうでは、神々が集まって、神謀りをしているのだろうか……。」
沈みゆく夕日を眺めながら、タケミナカタ様はそっとつぶやかれました。
そのときです。背後から少しぶっきらぼうな声がしました。
「おい、負け犬。」
振り返ると、そこに立っていたのは、あのタケミカヅチ様です。雷を司る鋭い眼光の神さまであり、かつてタケミナカタ様と死闘を演じた神さまでもあるのですが、このときはどこか柔らかい表情をしておられました。
「出雲のクシナダヒメ様からだ。これをお前に、だとよ。」
そう言って二つ持っておられた竹皮の包みを一つ、タケミナカタ様に放り投げました。受け取って見てみると、中には大きな赤飯のおむすびと白米のおむすびが二つ、仲良く並んでいます。
「ふん、雷の神が使い走りとはな。」
「うるせえ。ついでだ、ついで。さっさと食え。」
「ふん……。」
竹皮をほどくと、ほんのり湯気が立ちのぼり、やさしい香りが広がりました。
「仁多米の香りか、懐かしいな。しかし紅白のおむすびとは珍しい。」
「クシナダヒメ様がな。『新しい門出のお祝いに』だとさ。お前をぶちのめした俺に、そんな言づてをするとはな。」
「ふ……やっぱり使い走りではないか。」
「違うっつってんだろ、この野郎。」
「だいたい、あの時殴った回数は俺の方が多かっただろうが。」
「寝ぼけてんのか。俺の方が多いに決まってる。」
「いいや、俺の方だ。」
「何ぬかしてやがる。」
二人は憎まれ口をたたき合いながら、湖岸に腰かけておむすびをほおばりました。
夕暮れの風が湖面を渡り、波がきらりと光ります。
「……美味いな。」
「当然だ。あのお方のおむすびは、あの素戔嗚尊様を笑顔にしたという伝説の品だからな。」
「ふーん。まあ、俺は美味けりゃ何でもいいが。」
言葉が途切れ、風だけが通り抜けます。
と、その沈黙を破るように、タケミカヅチ様が小さく言いました。
「あのお方は……強いのだな。」
「姉君や素戔嗚尊様を見送るしかできなかった無念があるらしい。九度目は無いように、だとさ。」
「八岐大蛇、か。」
「姉君は生贄となる直前まで、出雲の民のために奔走しておられたと聞く。ご自分もそうありたいそうだ。」
「戦いしか知らん俺には、分からん心境だな。」
「ふん、だから使い走りにしかなれんのだ。」
「うるせえよ、負け犬。」
その後、ふたりは言葉を交わさず、ただ静かにおむすびをほおばっておられました。
湖の向こうに、夕日が沈みゆき、風がやさしく吹き抜けます。その風の中に、ほんのりと、おむすびの香りが漂っていたといいます。
それからというもの、諏訪の湖では、時おりお二方の笑い声が風に乗って聞こえるのだそうです。
おむすびが結んだ、かつて死闘を演じた者たちの縁。
これもまた、クシナダヒメ様の“和ませの力”のおかげだったのかもしれませんね。
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