第46話
薄暗くてカビ臭い。硬い椅子に座らされて後ろ手に縛られているレイラは、狭い小屋の中を落ち着きなくうろつく男から、できるだけ視線を外す。
恐怖、不安、緊張、後悔……ないまぜになった感情が煩くて不快で吐き気がした。
(これが、あのオオカミ男……?)
あの時とは佇まいからして違う。だが、子どもの頃の記憶なんて当てにならない。
レイラは意を決して、サングラスに守られていない目で男のほうを見た。
「お店は大丈夫なの?」
ずっと黙っていたレイラが声をかけると、男はぴたりと立ち止まってこちらを見た。
それなりにしわが刻まれ始めた中年男性の表情から、高揚感や達成感といった感情は読み取れない。張り詰めた空気の中、男はゆっくりと口を開いた。
「今日は臨時休業にした」
「そう……。ねぇ、銃は駄目なんじゃなかったの?」
ホテルのドアを開けたレイラに突きつけた拳銃を、店長は今も右手に握っている。
「……護身用だ」
「慌てて買ったのね。あんた怖がりだから。本当は触りたくもないのにね……わかるよ、私も護身用で持ってるけど、あまり良いものじゃない。使わずに済むといいね」
店長は不信感を露わにして睨んでくるが、気にせず探りを入れる。
「この小屋、よく知ってたね。獣道を通らないと辿り着けないような場所なのに」
「昔、お前たちはよくこの森に来てただろう。ウォルターの父親は入退院を繰り返してて、俺は保護者代わりみたいなもんだったからな。子どもが遊ぶ場所の下調べくらいはしていたさ」
険しい眼差しを向けてくる男は平静を装っているが、その目の奥では恐怖心が膨らんでいく。
自分に向けられるそれに否応なく付き合わされながら、頭の中でイメージする。
目の前の男は、子供向けアニメの臆病なブタだ。架空の世界の、作り物の感情。
子どもの頃にウォルターの家でよく行った訓練を思い出しながら、感情を抑制する。
椅子に縛られて身動きが取れなくても口は自由だ。
まずは誘拐の動機を訊き出す……。
「こんなことしてるけど、あんた、私のことが怖くてしかたないんでしょう」
つい、感じたままを吐き出してしまった。
その言葉にひどく気分を害したのか、大きなブタは右手の銃をレイラに向ける。
その瞬間、恐怖よりも罪悪感が沸いた。
この男と同じことをウォルターにした自分を許せない。
「お前は怖くないのか」
「怖いよ。あんたと同じ。私は私が怖い」
「……はは、イカれてる自覚はあるのか」
「どうだろう……足りないのかもね。時々、ひどい間違いを犯す」
ホテルにメッセージを残してきた。
銃で脅されてホルスターを外す際に、ジーンズの左ポケットにあるレシートがちらりと見えた。昨日ダイナーに行ったときのものだ。
会計時、ウェイトレスが来た時には代金ぴったりを用意していて、仕舞っていた財布をまた出すのが面倒でジーンズのポケットに入れて、そのままにしていた。
それを咄嗟に、銃とホルスターの隙間に挟んだ。
そんなもので、ただのレシート一枚で自分の状況が伝わるはずがない。なのに……。
もしも、置手紙を残して出て行った自分を、ウォルターがホテルまで探しにきたら。
もしも、こんな分かりにくいメッセージに気づいてくれたら。
その可能性に賭けてしまった。
(ほんと、余計なことしたな……)
このブタがあのオオカミ男だとしても、別のイカれ野郎だとしても同じことだ。
もうこれ以上巻き込まないと決めたのに、またこうやって馬鹿な真似をする。
ただ浅はかなだけなのではなく、分かっていてやっているのだから質が悪い。
そんな自分が心底嫌になる。自分の心すらコントロールできないことが恐ろしい。
「あんたには感謝してるの。あの時、あんたが私を止めなかったら、私はウォルターを……」
「そうだ。お前はウォルターを殺そうとした。トビーを殺すところを見られたからか? どうしてトビーを……この町の住人たちをっ……」
薄々感じてはいたが、シリアルキラーだと疑われている。というより、もう完全に決めつけているようだ。トビー殺しを否定したところで、きっと意味がない。
「お前は悪人だ。どうして戻ってきた……戻ってこなければ、こんなことをしなくて済んだのに……!」
「どうしてどうしてって、訊きたいのはこっちのほうなんだけど。……私をどうするつもりなの?」
思い切って尋ねると、ブタの感情が徐々に落ち着きを取り戻していった。
「俺はなにもしない。神がお前を裁くのを、ただ待つだけだ」
「……驚いた。本気で守り神を信じてるのね」
「ふんっ、そうやって馬鹿にしてればいいさ。でも女神様は存在する……俺は見たんだ。八年前、この森でウォルターをお前から助けた日、確かにこの目であのお方のお姿をな」
(……ああ、こいつ……)
「質問を変える。この誘拐は誰かの指示?」
使命感に駆られたような顔をして近づいてきたブタが、額に銃を押し付けてきた。
「時間稼ぎのつもりか? 無駄だ。こんな場所まで誰も助けには来ない」
撃つ気はないと分かっていても、恐怖で言葉に詰まりそうになる。
「昨日ここで死んだダニエル・オルティスは第一容疑者だった。あんた、なんか知ってる?」
「……死んだ?」
凪いでいた心が騒めく。驚きと疑念……ダニエルの死を知らないようだった。
そして再びレイラへの恐怖心が膨らむ。また殺したのかと言わんばかりだ。
(〝人間の共犯者〟がいるなら彼だと思ったけど、当てが外れた……?)
そもそも、本気でレイラをシリアルキラーだと思っている。
彼は彼なりに純粋な平和主義者で、人を殺す度胸はない。誘拐に慣れているようにも見えない。
今やっているような〝生贄を捧げる〟行為は今回が初めてなのだろう。
(いや、死んだのを知らなかっただけで、共犯者殺しじゃなくても、なにか繋がりはあるかも)
「答えてくれたら、あんたの質問にも答える。あの日の真実を教えてあげる」
ブタは少し迷ってから、銃を下ろして渋々口を開いた。
「ダニエルって、あのタトゥースタジオの息子だよな。失踪者家族の会で会ったことはあるが、付き合いがあったのは失踪した父親のほうだったからな……よくは知らない」
「そう……なら、妹のことは? あいつは妹に異常に執着してた?」
「執着? さあな……ああでも、彼が話す番、たったひとりの妹の為に頑張りたい……みたいなことは言ってたな」
「あのイカれ女、あんたのダイナーで働いてるでしょ。本当は、あの兄妹と付き合いがあったんじゃないの?」
「知らないと言っただろ。妹のほうは雇ったばかりだよ。ほら、あの日だ。あんたとウォルターが学者のことを訊いてきた日」
「……それ、本当?」
「ああ、間違いないね。なんなんだ、なにが目的だ。まさか妹まで殺す気なのか?」
レイラの共感は嘘を見抜けるわけではないが、感情の不自然な揺らぎから、ある程度察することはできる。ブタが嘘をついているようには感じなかった。
「目的……そう、目的ができたの。でも達成はまたおあずけみたい」
ため息をつくレイラの視線がブタから逸れて留まった。
その様子に、ブタも振り返って窓の外を見る。するとすぐに、歓喜の声を上げた。
「ああ、あの霧は……きっと女神様がいらしたんだ……!」
霧の一部が黒く染まっている。ブタにはそれが見えているのだろうか。
足早にドアに向かうと、女神様を招き入れるように開けた。
だが、ややあって霧の中から現れたのは……。
「レイラ……!」
ブタが邪魔で見えないが、その声と感情には覚えがあった。
「……君、なんでこんなところに――」
バチバチと大きな音がするのと同時に、戸惑うブタの声が途切れた。
大きな身体が崩れ落ちると、その先で微笑むクロエと目が合ってしまい、レイラは顔をしかめた。
クロエの手にはスタンガンが握られている。
「レイラ、助けにきたよ」
優しく声をかけながら縄を解かれる。短く礼を言って椅子から立ち上がったレイラは、手首をさすりながらブタに近づく。
蹲って呻き声を上げる様子をしばらく見下ろしていたが、クロエに急かされて小屋を出た。
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