第42話

 高台まで続く公園の階段を上ると、簡素なウッドデッキの展望台はがらんとしていて人影はなかった。

 柵の向こうで輝く夕日は厚い雲に覆われながらも、その存在を主張するように空をオレンジ色に染め上げている。


「ここ、初めて来た」

「なんにもない場所だからね。階段長いし、みんなわざわざ来ないよ」


 この辺りは草木の手入れもろくにされていない。

 散歩コースやデートスポットにもならないらしい。

 ウォルターの知る限り、霧の森の次に人が寄り付かない場所だ。


「君がこの町を出てから、ひとりになりたい時はよくここに来るようになったんだ」


 サングラスを外して柵の前に立つ様子はいつも通りに見えたが、安心はできそうにない。

 レイラがはっきりとウォルターに弱さを見せるのは初めてのことだった。


(心配しなくていいなんて、どうして今更そんなこと……)


 その理由を、涙の理由を訊きたくても、凛とした横顔は踏み込むことを許していない気がして、なにも言えずにただ一緒に夕焼け空を眺めた。


「あんな気味の悪い森よりずっといい。教えてくれたらよかったのに」

「だよね。ていうか、その予定だった。ほら見て。ここからでもイルミネーションを楽しめる」


 眼下にはイルミネーションが煌めく広場が見える。

 遠く離れた場所にある人の気配。この距離感がなんだか心地いい。

 ぴったりの場所を遂に見つけたと興奮したのをよく覚えている。


「きっと気に入ってくれると思ったから、君を誘いたかった。広場には行けなくても、一緒にフェスティバルを楽しみたかったんだ。だから……八年前の、あの日……」


 どんなに平穏な日常を過ごしていても、ウォルターの中から消えることのない罪悪感。

 目を合わせていなくても、きっとそれは声に乗ってレイラの心に流れ込んでいく。


「あの日だけは言いつけを破って……霧が出てるのに、君を探しに森に入ったんだ。そのせいで……本当にごめん」

「……なんで謝るの?」


 見据える視線に向き合うと、ウォルターの感情を感じ取った影響か不安げな顔をしていた。


「今日だって……衝動が起こるかもって、君は警告してくれたのに。俺が、ちゃんと君を見てなかったから……怖い思いをさせた」


 少しの間を置いて、レイラの表情が苛立ちに変わった。


「なにそれ、逆でしょ……私に襲われて死にかけたのはあんたなのに……っ」

「怖かったのは俺だけじゃない」

「……意味がわからない」

「伯父さんが来て止めてくれて、正気に戻った君は怯えてた。そのあと、君は会ってくれなくなった。淋しかったし心配だったけど、君にとって俺は、嫌な思い出になっちゃったんだなって納得したよ。でも、それだけじゃないのかもって……」


 避けられていた一番の理由。

 再会してまだ一週間も経っていないが、それは確信に変わりつつある。


「俺と会ったら、また衝動に駆られるかもしれない。それが怖かったんじゃないかって」


 レイラはウォルターを傷つけることを異常なほど恐れている。

 衝動が起こる可能性があれば、迷わず銃を渡してしまう。

 自分の命を軽んじたレイラの行為にも、それに気づけなかったことにも腹が立つ。


「あの日俺は兄を失って、殺されかけた。だけど、トラウマを抱えてるのは君のほうだ」


 夕日が照らす顔からは感情を読み取れない。踏み込んだ途端、心を閉ざされたような気がした。逸らされた視線は再び夕焼け空に向けられる。


「自分はなんともないって? ……そうかもね。こうして私と一緒にいられるんだから」

「……確認しておきたいんだけど、俺ってまだ変た……マゾヒストだと思われてるのかな」


 こちらを一瞥したレイラは、「さあね」と答えた。

 数日前、真剣な顔で疑ってきた時と比べると興味なさげに見えたが、言葉は続いた。


「そう考えればまだ納得できるんだけど、そうは見えない。恐怖心は麻痺してそうだけど……ねぇ、あんたにとってシリアルキラーと私、どこが違うの?」


 あまりに突飛で冗談のようにも聞こえたが、レイラにとっては純粋な問いなのだろう。

 どこがもなにも、逆に共通点なんて思い当たらなくて困ってしまう。


「俺は、君のことを怖いなんて思ってないよ」

「……あんたのそういうところ、私には一生理解できなさそう」


 求められている具体的な回答ではないが、確かな感情だ。

 どう受け止めたのか、レイラは諦めたようにため息をついた。

 危害を加えている時点で同じ悪人。むしろ直接二度も襲った自分のほうが危険人物。

 なのに、想像とは違う反応が返ってくる。そんな風に感じているのかもしれない。

 当事者同士なのに見えているものがまるで違う。

 そう感じるたび、淋しさを覚える。


「わからないって怖いよね。俺だって、君の考えがわからないのは、少し怖い」

 レイラは黙ったまま、わずがに身構える気配を見せた。


「さっき、森で言ってた……悪人は守り神に裁かれて地獄へ落ちるって……前に言ってた犯人の言葉? それとも……君の言葉? もしダニエルが生きてたら、君は――」

「私のじゃない」


 遮るようにはっきりと言う。町を見下ろす目は、綺麗な景色に微塵も興味がなさそうだ。


「ウォルター。私はべつに、復讐しようなんて考えてなかった」

 聞きたかった言葉がするりと出てきて、ウォルターは胸をなでおろした。


「あんたは知ってるだろうけど、誰のどんな感情に共感しても、その日のうちにすっかり忘れる。でも、この殺意だけは消えない。他人のものだけど、私にとっては他人事じゃないの」


 横顔を隠すように髪が風になびく。

 肌寒いのか、ジャケットの前をぎゅっと寄せた。


「だから、知りたかった。どうして人を殺したいのか。本人に会えば、この憎しみの理由を知ることができたら……もしかしたらなにか変わるかもしれないって……」


 そこまで言って、どこか虚しくふっと笑った。


「バカみたい。そんな都合のいい話なんてないのにね」

「……だからダニエルが死んでも、まだ事件の真相に拘ってるんだね」


 ダニエルからなにも聞き出せなかった。希望を失ったレイラは、この先ずっと動機も分からない殺意を持て余しながら生きていくのかもしれない。


(……でも、これ以上危険な目には遭わない)


 身勝手だと思いはしても、安堵が勝ってしまう。


「ずっと、あんたのことが羨ましかった」


 ようやくこちらを向いたレイラの手が伸びてきて、ウォルターの胸に触れた。


「ここが静かで、時々少し波立っても、すぐに穏やかになる。変に深入りもしない。子どもの頃、そんなあんたの傍が唯一安心できる場所だった」

「……レイラ、俺……」

「あんたは、そのままでいてね」


 優しい声色に絆されそうになりながらも、違和感を無視できなかった。

 レイラは気づいているはずだ。

 ウォルターの心が、もうあの頃とは違っていることに。

 なんだか釘を刺されているようで、ウォルターは曖昧な笑みを浮かべた。


     ◇ ◇ ◇


 目を覚ますと、かすかに雨音が耳に届いた。

 眠りが浅いのは、ソファの寝心地に慣れないせいか、嫌な夢のせいか。

 手探りでローテーブルからスマホを取って画面をつけると、まだ夜中の三時だった。

 スマホの明かりにぼんやりと照らされたテーブルの上にふと目が留まる。

 キッチン用のメモ帳が一枚置いてあった。


〝ごめんなさい。私はトビーを助けられなかった。だから、やるべきことをやる〟


 寝室には、レイラの姿も彼女の荷物もなかった。

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