第39話
「揮発性の毒、ね……それが本当なら、この森に漂ってる霧は毒の霧ってことになるけど」
レイラは難しい顔をして手帳のスケッチに目を落とした。
スケッチをよく見ると、潰れた黒い実から、どろりとした液体が垂れる様が描かれている。
「ダニエルは俺に、この毒の植物の危険性を知らせたかったのかな……」
「人殺しがそんな善人みたいなことするとは思えない。逆ならわかるけど」
「逆?」
「だって、〝代行者〟は森に入った悪人を裁くんでしょ? 命に関わるかもしれない毒なら、勝手に自然が裁いてくれる」
「いや、それじゃあ無差別殺人……」
――無差別かもしれないよ。
ダニエルが言っていた。そう思わせたかったのか、嘘に混ぜた本音なのか。
〝代行者〟が本当の動機を隠すカモフラージュだとしても、彼の言動には矛盾を感じる。
推し量ることは自分にはできそうにない。もう問いただすこともできない。
「イカれた奴の行動に一貫性を求めるなんて無意味よ」
「……そうかも、しれないけど……」
「ねぇウォルター、確か被害者たちの遺体から毒は検出されてないのよね?」
記憶を辿って頷くと、レイラは続けた。
「前になにかで聞いたことがある。警察の薬毒物検査って、どんな毒でもわかるわけじゃないのよね。定番の薬物なら簡単だろうし、症状から予想できたら検査方法を絞れる。でも、検出が難しい毒とか……そもそも、発見されてない未知の毒だったら?」
研究所の女性は新種の植物に毒性があることは突き止めたが、それがどういう毒なのかまでは特定できていないようだった。
「……犯人はそれがわかってて、この植物で毒殺したってこと?」
「死因不明の説明がつく。それに、植物学者を殺す動機にもなる。新種として世間にバラされたら困るから……ねぇ、あんたこの植物のこと知ってた?」
「うーん……見たことあったかもしれないけど、覚えてないな。植物とかあまり興味ないし」
「私もそんな感じ。でも、ここに来るまでの間に何度か見かけた。気に留めてなかっただけで、きっと昔からこの森にあったんだろうね。毒の実をつける植物があちこちに」
「でも、俺たちはなんともない。あの頃、何度もここに来てたのに。今だって……」
「運よく通り道に生えてなかったんじゃない?」
随分と楽観的だなと思ったが、口には出さずに周りを見渡した。
これだけ霧が漂っている森の中を、偶然地雷を避けるみたいに歩き回れるものだろうか。
実が割れて液体が気化し霧に混じる。毒の量や広がる範囲はどの程度なのか。
案外、簡単には条件が揃わないのかもしれない。それでも――
「町の人に知らせなきゃ……ダニエルのことだって、警察に……」
「それは無理」
無理というのは主に後者のことだろう。
警察に通報するのは、それこそ楽観的過ぎる。
レイラはダニエルの服にもテーブルにも触れた。
放り投げたティーポットは割れて破片が散らばってしまっている。
証拠隠滅は難しい。
ダニエルと待ち合わせをしていたこと、学者の荷物を見つけた経緯をありのままに説明するのも、良い判断とは思えない。
いくらそれが真実でも、疑いの材料にしかならないこともあるのだから。
それに、署長たちが毒のことを軽視して森に入ってしまうのは避けたい。
「大丈夫よウォルター。町の人は森を避けてる」
「……せめて、どうにかして学者のことを遺族に伝えられないかな」
「……さっきの研究員を利用できなくもないけど、電話の内容を警察に話されるのはマズい」
レイラは、事件に関する情報を少しでもかき集めたくて、咄嗟に警察関係者だと偽ったのだろう。リスクを無視した行動は、執着心の表れだ。
ダニエルの死を目の当たりにした。それでも、きっと彼女の中では何も終わってなどいない。
ウォルターだって似たようなものだ。
レイラと再会して、兄の死と向き合う覚悟を決めた。
シリアルキラーを捜すなんてまともじゃないと後悔に苛まれながらも、犯人に近づいた……そう思った矢先に、これだ。
知りたかったことも疑問もそのままで、行き場をなくした感情を持て余している。
拍子抜けしているような、少しほっとしているような。
確かなのは、自分の心が思いのほか静かなことだ。
死体を前にして最初は動揺した。だが今は、思考を巡らせる余裕がある。
〝二度目の目撃〟で人の死を身近なものに感じているのか。
それとも、ただ自分がそういう人間なだけなのか。
じわじわと実感する。ダニエルは死んだ。
レイラは今何を考えているのだろうか。これからどうするつもりなのか。
ふとレイラを見ると、バッグから出していたものを元に戻していた。
オオカミのマスクの傍にバッグを放り投げて、さっき掘り起こした穴を雑に埋めると、手についた土を払ってこちらを向いた。
「広場に行くよ」
「え……」
「公衆電話があるでしょ。匿名で通報する」
「……いいの?」
予想外の言葉に驚きながらレイラの背中を追う。
いつの間にか少し薄くなった霧の中を、来た時とは逆にゆっくりと進む。
隣に並ぶと、エメラルドグリーンの瞳はまっすぐ前を見つめていた。
「私たちじゃ限界があるけど、警察ならなにか見つけてくれるかもしれないし」
「指紋とか調べられるよ」
「そうね」
レイラは昔、共感力が原因で暴力事件を起こしているが、さすがに子どもの頃の話だ。
警察のデータベースに彼女の指紋は登録されていないはず。
だが捜査の流れ次第では、バレる可能性だってある。普通なら危ない橋は渡らない。
「あのさ……君の目的は、君に殺意を植え付けた犯人と会って話すことだったよね」
「ええ……もう無理だけど」
「じゃあ、どうして……」
目的を失って落ち込むどころか、より一層事件の真相に拘っているように見える。
どこか、破滅願望のようなものを感じるほどに。
「ねぇ」
レイラらしくない控えめな声は、土を踏む音にさえ搔き消されそうだった。
こちらを向く彼女の視線が少し下がる。
「首、平気?」
気遣うように尋ねられて、思わず隠すように首に触れた。
もしかしたら絞められた痕が残っているのかもしれない。
レイラの前でそんなものを晒していたくはなかった。
「……あ、うん。大丈夫。なんともないよ」
レイラは足を止めて俯くと、小さく口を開いた。
「……全然抑えられなかった。抑えようと考えることすら……私、あんな……本当にごめんなさ――」
「大丈夫だって。それに、君はうっかり忘れちゃうのかもしれないけど、俺はちゃんと男だよ。いざとなったらどうにでもできる。どうしたんだよ、さっきは俺にあんなに怒ってたじゃん」
「それは……だって、あんたが銃をあんなふうに……」
「あははっ、俺だいぶテンパってたよね」
罪悪感と不安がじわじわとせり上がってくるのを誤魔化すように、明るい口調を心がける。
「レイラ、心配しないで。もうバカな真似はしない」
謝ってほしくなんかない。謝るべきなのは――
「……やっぱり私、ひとりで来るべきだった」
「違うよ」
土で汚れた右手で、同じように汚れたレイラの左手を掴んだ。
レイラは手を引こうとしたが、振り解かれないように力を込めた。
ぎろりと睨みつけながら痛いと訴える彼女の目をまっすぐに見つめる。
「ひとりでなんて絶対にダメ、だろ? 君が言ったんだよ」
優しく子どもを諭すように言うと、レイラは困惑した表情を浮かべた。
「だから……今後は、お互い気をつけよう」
「……ええ、そうね」
手を放すと、たちまち背中が遠ざかる。
ウォルターは一度大きく息を吸ってから、ゆっくりと歩き出した。
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