第30話
「あの女、実の兄とデキてたのね」
「え……署長さんはそこまでは言ってなかったけど」
レイラはソファに腰かけて、空いている左側の座面をぽんぽんと叩いた。
隣に座ると、タトゥースタジオに行った時のことをレイラが話し始めた。
「あの時、店の奥でクロエが階段を下りてきたの覚えてる?」
「あ~……うん。確か寝起きな感じで」
勝手に目覚まし時計を止めた兄に怒っていたのを覚えている。
「今日あの家に入った時わかったんだけど、二階は父親のアトリエと兄の部屋と物置になってる部屋だけだった」
きょとんとしているウォルターの頬を指でぐいぐい押して、「ほんとに意味分かんない?」と不満をぶつけてくる。
「や、やめて、地味に痛い……」
「クロエはダニエルの部屋で寝てたってことよ」
指が離れた頬をさすりながら考えてみるが、どうにもしっくりこない。
――お兄ちゃんって過保護だから。十七の妹に初めての彼氏ができて心配だったのよ。
そういえばクロエは、ウォルターの兄との交際を反対されていたと言っていた。
そうやって干渉し続けてきた兄の溺愛を、クロエが受け入れたということだろうか。
「……よくわからないな」
そもそも、ウォルターは男女の深い関係についてあまりに無知だった。
「ヒグマの雄は、雌グマの発情を促す為に小グマを殺す。彼らの世界ではそれが日常よ。秩序に縛られた人間社会の中にだって、そんな習性をもった奴はいる」
「……なんだか飛躍してる気がするけど、君が言うと妙に説得力があって怖いな。でも……」
「なによ」
「あの兄妹の関係がどうであれ、クロエは君のことが好きだ。だから、兄への誤解を解きたがってる」
「本当に信じてると思う? 兄とデキてるなら尚更、なにか知ってても不思議じゃない」
「え……だって、あの絵をレイラに見せたんだよね?」
自信満々だったレイラの顔が怪訝そうに歪む。
「そうなのよね。アトリエには勝手に入ったけど、べつに構わないみたいだった。むしろ見られて嬉しいって感じ……」
「仮になにか知ってたとしても、具体的なことは知らないんじゃないのかな。八年前の事件の時はなにも気づかなかったかもしれないし、あの場にレイラがいたことだって……」
「だとしても、マスク墓標の事件を調べてる私に、あの森で描かれた絵を見られたくないって思いそうなもんだけど」
抱き寄せたクッションに顎を乗せて丸まるレイラを見ていると、ふと疑問が浮かんだ。
「森なんてどこにでもあるし、あの絵ちょっと幻想的な雰囲気あるから、架空の森かも」
「いえ、あの森よ。クロエが言ってたの、父親は森に出入りしてたって……」
迷いのない言葉が途切れたかと思うと、今度はなにやら考えている様子で続けた。
「そう、わざわざ言ってた……そんなのこの町じゃ変人扱いなのに」
クッションから離れた顔がぐっと近づいてくる。
「犯人は父親だって思わせたかったんだとしたら? 失踪してるはずの父親がアトリエで目を塗り足した……そういうシナリオにしてしまえば兄が疑われない。警察が父親を怪しんでたのを利用しようとしたのよ」
「ちょっと待って。父親がシリアルキラーだと思われるのも、結局印象が悪いことに変わりはないじゃん」
「もしクロエが真相を知ってるなら、重要なのは兄を被疑者にさせないことでしょ」
レイラは「すっきりしたらお腹空いてきた」と言うと、ダイニングテーブルで放置されていたトマトスープをレンジに入れた。
レイラの背中をぼんやり眺めるウォルターは、まだ〝すっきり〟できていない。
他人にはあまり興味がない。人間関係についてこんなにあれこれ考えたのは久々でどっと疲れてしまった。
警察やレイラの考えに乗っかって納得してしまえば楽になれる。なのに、面倒な思考は止まってくれない。違和感や疑問をそのままにしておいてはいけない気がした。
「ねぇ、レイラ。俺はまだ、ダニエルが犯人っていうのが腑に落ちないんだ。犯人なら、DNA鑑定を頼むなんて変だよ。折角警察が父親を疑ってたのに。自分に容疑がかかるリスクがあるし、さっさの話も矛盾する。クロエが真相を知ってる場合、骨になってる父親を犯人に仕立て上げるなんて無理なんだから」
「私たちから見たら矛盾に思えることでも、本人にとっては違ったりするでしょ」
少しも間を開けずに返されて、何か言おうとしたが言葉が出てこなかった。
ウォルターは論理的に考えて答えに近づこうと試みたが、そんなに単純ではないのかもしれない。
レイラは自分なんかよりもずっと他人というものに詳しい。
「……そうかもね。俺たちは、あの兄妹のことをほとんど知らないわけだし」
食卓につくとレイラは、話は終わったと言わんばかりに黙々と食べ始めた。
ウォルターはサーモンソテーをつつきながら、まだ思考の渦から抜け出せずにいる。
「……ダニエルが犯人なら、あの目を塗ったのもダニエルってことになるよね?」
「あー、それね。タトゥースタジオに行った時に気づかれたんでしょ。私、サングラス外してたから」
レイラの話では、パレットの絵の具が乾ききっていなかった。
誰かが彼女の目の色を見て、あのアトリエでグリーンを塗り足したのは確かだ。
「ごめん、俺が外したほうがいいとか言ったから……」
「気にしないで」
やけに軽い調子の言葉に、なぜか胸がざわついた。それは罪悪感よりも大きく――
「……ウォルター、平気?」
「……え?」
何も言えずに俯いていたウォルターが顔を上げると、真剣な顔のレイラと目が合った。
「やっぱり、あんたはこんなことに関わらないほうが――」
「大丈夫だよ。言っただろ? 俺も、八年前の事件の真相が知りたい」
(弱気になっちゃダメだ……)
レイラにじっと見つめられると、心の中を全て見透かされてしまうような気分になる。
それでも、深いエメラルドグリーンの瞳から逃げずに心を落ち着かせる……が、いつまで経っても視線が外されない。
「……あの……」
「ねぇ、今もいるの? トビーの……」
「え、あぁ……いないみたいだね。誰かといる時は出てこないようにお願いしてるから」
そういえば、いつもなら家にいると鬱陶しく絡んでくるトビーの姿がない。
レイラと過ごす時間が増えたからか、出てくる頻度が減った気がする。
「あんたは、黒い霧を見たことないのよね?」
「……うん。少なくとも記憶にはないな」
レイラ曰く、呪われた者だけに見えるという不穏な霧。
「クロエが、黒い霧が見えるって言ってた」
「えっ……じゃあ、彼女も?」
「話を鵜呑みにするならね……適当なことを言ってるだけかもしれない。役の為に、この町の伝承のことを調べて知ってただけかも。嘘をついてるようには感じなかったけど……でも、あいつは信用できない」
レイラの前で嘘をつくのは難しい。たとえ初対面の相手でも、心の機微を感じ取り、違和感に気づく。――そんな彼女の視線が、演劇の台本に落とされる。
「正直ドタキャンも考えてたけど、明日の劇が楽しみになってきた」
その言葉が、食事を終えてもずっと頭の片隅から消えなかった。
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