第16話
たった一回、枇杷島さんがもぎとった和了りで、状況は一変した。俺と木下は蚊帳の外。枇杷島さんが食らわせた数え役満・四万八千点で、枇杷島さんの点数は六万七千九百点。対する石上は六千百点。黒点はもっとひどい。四万八千点の三倍、十四万四千点から枇杷島さんの黒点と相殺した分、四万八千点を引いた九万六千点、三億八千四百万が負債としてのしかかっている。
「テンパイ」
「ノーテン」
「ノーテン」
「ノーテン」
そして、さっきまでの熱が嘘のように、戦況は凪いでいる。枇杷島さんの仕掛けた立直に、誰一人攻めた打ち回しをしなかったのだ。機を伺っているようでもあったが、この勝負を捨て、これ以上の損失を出さないよう努めているようでもあった。
一見この窮地に勝負に出ないのは勝負を投げているようにも見える。しかし、本当に勝負を投げるというのは、むしろここで攻めることなのかもしれない。
ギャンブルには、二つの盲目がある。一つは、勝利の盲目だ。眩い勝ちに目を焼かれ、正常に物事を捉えられなくなる。パチンコで十万勝つと、余韻で一万浪費しても何も感じなくなるタイプの盲目だ。
二つ目は、敗北の盲目だ。昏い負けに周囲を覆われ、勝負に出なければという強迫観念に襲われたり、絶対に当たらないと分かっていながら、一万円が二千円になっていたりするときにその二千円を持って帰れず、結局最後まで使ってしまうような盲目だ。
石上は、敗北の盲目に陥っていてもおかしくない。だが、守る。これは中々出来るようなことじゃない。しかし、後者の盲目には勝負に出ない事も含まれる。確実に勝てるような状況でも、暗闇の中に足を踏み入れることが恐ろしくて、守りに入ってしまう…そういうのも立派に盲目だ。正常じゃない。
つまり、奴が本当に動じず、冷静でいるのなら…まだ勝ったとは言えないのかもしれない。
枇杷島さんの二連荘目、俺の予測は裏付けられた。石上が立直を打ったのだ。枇杷島さんはそのとき三副露。口に出さずとも、聴牌は察せられた。まだ五巡目のことだ。
素人目に見ても、尋常な勝負だった。そして、純粋な…雀力勝負だった。
「ロン」
そのシンプルな力勝負に、石上は負けた。
「千」
ひどく簡単な手で、残酷なまでに突き放す。だが、やはり石上は盲目に陥ってはいないようだった。拳をきつく握り、その目は…
「勝負師…!」
今更気づいたのか、と言いたげな目で、枇杷島さんが俺の事を見る。
ふと、石上の服の裾が気になった。ちょっとした縫い跡があったのだ。馴染んでいるので素人にはよくわからないだろうが、あれは手縫いで修繕した跡だ。
それを目にした瞬間、俺はふっと魔法が解けたような気持ちになった。俺は、石上のことをいけすかない金持ちども…遊戯で賭博をやっているあいつらと同族だと思っていた。
そんな気持ちが、俺自身の目をフィルターにかけてしまっていたのだ。
何のことはない。目の前の男は、俺たちと同じだ。薄汚れて、くたびれて、目は燃えている。必死なんだ。
ふいに、俺はざまぁみろだとかそういう気持ちを石上に抱けなくなった。
ぬるりとした違和感…闘いと言うのはこういうことじゃない。あの金持ちより、石上の方がずっと強く、難敵だが、あの金持ちの方が、俺たちの敵としてふさわしい。
点棒の状況は、俺と木下が千点づつ減り、俺と木下が同点で一万二千点。最下位の石上が三千百、枇杷島さんが七万二千九百点だ。点差は七万点近い。逆転には単純計算で三万四千九百点以上必要になる。黒点も含めれば、親の三倍満が最低条件だ。それでも、二万四千点黒点が残る。
親の三倍満…三万六千点と同じ点数を枇杷島さんから出和了りできても、黒点の問題が重くのしかかる。親の跳満を二回浴びせても、取れる黒点は二万七千点。親の三倍満の七万二千点との差は同じ点数だというのに二・五倍程もある。パズルを使うのも厳しい。チョンボ罰符を取られればトビ終了なのだ。既に看破されていると知っているイカサマを使うのは死にに行くようなものだ。
パズルの他にまだイカサマがあるならもう手を打っているだろう。
南二局が繰り返される。配牌を開く—
感情より理屈を優先する…口にするのは簡単だが、実際に行うのは至難の業だ。
実際、俺もこんなに辛いとは思わなかった。
流局した南二局一本場、俺はイーシャンテンだった。倍満の手をテンパるのを、何度も見逃した。不要牌が危なく見えてならなかったからだ。
手が届きそうな和了りを何度も逃すのは、身を焦がすような思いだった。
計算を排し、勝負に出ることが出来たらどんなにか楽だろうか…結局、俺の不要牌は枇杷島の待ちではなかった。
だからと言って、次局同じ状況に陥っても押し切るべきだとは考えない。危険牌をある程度絞り込むことはできても、ビタ当ては手慣れであろう枇杷島に対して難しい。二択、三択を外したようなものだ。
そういって、自分の中の欲を持った怪物を抑え込む。
続くニ本場、俺は振った。攻めた選択ではなかった。当たり牌だった三萬は、俺が立直していなくても切っていただろうと確信を持って言える。
最善の行動をとり続けるしかないのだ。この振りに、どうせ何を切っても振るのだからと投げやりになることもせず、これを切っても当たるのではと恐れることもせずに。
俺の残り点数は三千百点。しょぼい手では死なないが決して安心もできない。
一縷の望みをかけ、配牌を開く。
一萬七萬七萬 三筒五筒七筒 一索二索六索六索七索 白
泣きたくなる。ひどいもんだ。ドラのニ索が使えそうなのが救いか。
八の萬子を引き入れて、白を捨てる。三色がちょっぴり見えるくらいか…次のツモは二の索子。やや対子の傾向が見える。
一萬を捨て、番を回す。その流れが、不意に枇杷島の番で止まる。
枇杷島が牌を倒したのだ。しかし、和了ってわけではないらしい。牌を伏せて倒している。
「また休憩ですか?」
席を立ちたいのだ、とそう俺は解釈した。
「ああ…しかし俺はこいつをここに残す。お前は木下を残せ」
「⁉︎」
「一度、話したいことがある」
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