〈1-2〉これ……牢屋……?

 寝起きではっきりとしない意識の中、ほたるは暗闇に人影を見た。遠くではなく、すぐそこに。


 母が様子を見に来たのだろうか。……違う。小柄な母よりもずっと大きな身体だ。つまりこれは、母ではない――そうと認識した瞬間、口が勢い良く空気を吸い込んだ。


「嫌ぁああ――ッ!?」


 金切り声の悲鳴は、ほたるの口から発せられると同時に止められた。


「ッ、んー!? んー!!」

「ごめんねェ、ちょっと近所迷惑だからさ」


 気の抜けた言い方の声は男のものだった。しかし帰り道に会った男とは違う。暗いせいで顔は見えないが、それでも分かるのだ。声質と、ほたるの口を塞ぐ男の手の匂い。あの嫌な血生臭さはなく、そして落ち着いた振る舞いもまたこの二人が別人だとほたるに教える。

 だがそれは、ほたるを恐怖から解放する理由にはならなかった。


 何故ならほたるはこの男を知らない。その声を聞いたこともない。今ほたるの家にいていいのはほたる自身と、あとは母親だけ。つまりそれだけでこの男を恐れる理由になる。

 そんな相手が、寝ていたほたるの口を塞いでいる。自然と眠りに落ちる直前の恐怖まで思い出す。帰り道に男に襲われて、必死に逃げ帰ってきた。その記憶が鮮明に蘇る。


 これは誰だ。あの男と関係があるのか。何故ここにいる。この男がここにいるなら、母は。


 矢継ぎ早に浮かんでくる疑問はどれも答えを持たず、ほたるをどんどん混乱させていく。


「んー! んんんー!!」

「叩くな叩くな! ほら、こっち向いて」


 男の言葉に、ほたるの目が無意識のうちにそちらに引き寄せられる。その手から逃れようと男をがむしゃらに叩いていた腕の動きが止まり、見えたものに釘付けになった。


「っ……」


 光だった。紫水晶のような、綺麗で小さな光が二つ。


 しかしそれのある場所がおかしかった。何故ならそれは、男の声が発される場所よりも少し上。人間の顔の、目があるところ。

 紫色の光が二つということと、大きさから考えれば目であってもおかしくはない。しかし目はそんな色にはならない。ほたるが状況を把握しきれずにいると、男が「あれ?」と首を捻るのが分かった。


「何、お嬢さんシュシモチなの? まァいいや……――あんま頑張らないでね」

「ッ!?」


 もう一度男に目を覗き込まれた瞬間、ほたるの全身を怖気と不快感が襲った。例えばジェットコースターの一番高いところから落下する時のように。例えば黒板に爪を立てて引っ掻いた音と聞いた時のように。それはほたるの全身の、骨の奥からぞわぞわとした嫌な感覚を引き出す。


「んーッ!!」


 口を塞がれたまま力いっぱい叫べば、不快感が少し和らいだ。


「うわ……マジか。とんでもないモン引き当てたな」


 男が驚いたように呟く。しかし次に聞こえたのは、「面倒臭めんどくさっ!」という文句だった。


「何だこれ、すっげー面倒臭いじゃん! あーもう……いや……うん。オッケー、オッケー、大体把握した。めちゃくちゃ面倒臭いけどまァ、逆に分かりやすいっちゃ分かりやすいからいっか。……にしてもお嬢さん、運がないね」


 男の手が、ほたるの口から離れる。ほたるは咄嗟に逃げようとしたが、それよりも身体が酸素を求めた。

 それでも呼吸を整えながら逃げようと試みる。ベッドから急いで下りようとしたところで、「ごめんね?」と男が言うのが聞こえた。


 その直後に感じたのは、腹部への衝撃。


「なるべく早く帰れるようにするから」


 そんな男の声を聞きながら、ほたるの意識は闇に沈んでいった。



 § § §



 次にほたるが目を覚ました時、周りはやはり暗かった。だが、夜の暗さではない。光が届かない場所にいるのだ。すぐにそうと分かったのは、少し離れたところに弱い光が見えたから。


 ここはどこだろう?


 身体を起こし、周囲を見渡す。僅かな明るさしかないが、それでもそう時間をかけずに見覚えのない場所にいるのだと理解した。ほたるが寝ていた床はゴツゴツとした石でできていて、壁も同じ。三畳程度しかないその空間に他のものはない。そして、ドアも。


 ドアがあるべき場所にあったのは、鉄格子だった。


「これ……牢屋……?」


 そんなまさか、とほたるの眉がうんと寄る。しかし、目に入るものは牢屋にしか見えない。

 それもかなり古いだろう。少なくとも現代において、石造りの牢など作る理由がほたるには思い当たらなかった。


 鉄格子の傍まで来て、光の方を見る。どうやら鉄格子の向こうは廊下のようになっているようだ。光が赤くゆらゆらと動くのは、それが蛍光灯の明かりではないから。


「え、何……? どういうこと……?」


 日本にこんな場所があるとは思えなかった。あるとすれば映画のセットか、テーマパークのアトラクションか。しかしそのどちらであっても、撮影や観覧のためのスペースがあるはずだ。

 だがどれだけ探してもそんなものはなく、そもそもセットと言うにはあまりにリアルな石の質感がほたるの頬を引き攣らせる。


 誘拐? ドッキリ? 変な動画配信者の企画にでも巻き込まれた? ――どれだけ頭の中で可能性を並べても、この状況を説明できそうなものはない。


「だ、誰か……!」


 試しに声を出してみるも、返事はない。


「ねえ! 誰かいないの!?」


 最初よりも大きな声で呼びかけたが、やはり周囲に変化は起こらなかった。


「なにこれ……」


 混乱が、孤独が、ほたるの声を弱らせる。


 それでも勇気を振り絞り、その後も何度か声を張り上げて助けを呼んだ。牢屋から出る方法を探した。けれど結局、意味はなかった。時間ばかりが無情に過ぎていくだけで、状況は全く変わらない。


 そうして、どれくらいの時間が経っただろうか。次は何かが変わるかもしれないと意味のない行動を繰り返して、そしてやはり無意味だったと思い知らされて。

 それを繰り返しているうちに、だんだんとほたるの中に諦めにも似た感情が生まれてきた。


 自分はきっと誘拐されたのだ。最後に自室で見たあの男に誘拐された。

 気絶させるために殴られでもしたのだろう。意識を失う前に衝撃を感じた腹部を撫でれば、打ち身のような鈍い痛みが残っていた。

 何故自分かは分からない。家が金持ちというわけでもなければ、誘拐されるようなトラブルに巻き込まれた覚えもない。いつもと違うことがあったとすれば、あの夜道で出会った男だけだ。だからもしかしたらあの男のことが関係しているのかもしれないし、全く関係はないのかもしれない。


 分かるのはここに一人で、連絡手段すらないということだけ。制服を着ていたからポケットにでもスマートフォンがあるかと思ったのに、どれだけ探しても見つけられなかった。

 母は大丈夫だろうか。無事でいるだろうか。母が無事で、自分の不在に気付いたなら、きっとすぐに警察に連絡してくれる。だからここで待っていればきっと、迎えが来る。

 そう自分自身を励ますことくらいしか、今のほたるにはできなかった。


「早く帰りたい……」


 抱えた膝に額を当てる。心細さに涙が滲む。しかし泣いてしまえば本当にもう耐えられなくなる気がして、ほたるは必死に涙を押し留めた。


 その涙の波が、どうにか去っていった頃のことだ。


 コツコツ、コツコツ……足音が聞こえてきた。「ッ、誰か!」咄嗟に鉄格子に縋りつき、声を張り上げる。すると耳を澄ませないと聞こえなかったほどの小さな足音が、徐々にこちらに近付いてきていることが分かった。


「あのっ……――ッ」


 開きかけた口を噤んだのは、その姿が見えたから。

 足音の主は二人いた。しかし助けは期待できそうにない。二人とも頭から三角の黒い布を被り、それ以外の全身も同じ色の布で覆っている。

 少なくとも味方ではないと、ほたるが判断するには十分だった。


「…………」


 嫌な汗がほたるの背中を伝う。知らず知らずのうちに手はカタカタと震え、牢屋の奥まで後ずさる。

 そんなほたるに逃げる様子はないと判断したのか、二人組のうちの片方が牢の鍵を開けた。キィ、と音を立てて扉を開き、もう一人がほたるの方へと近付いていく。


「い、嫌……」


 小さな拒絶は、届かなかった。


「ッ、や……!?」


 突然、頭を乱暴に掴まれた。後頭部を押され、首を差し出す体勢になる。転ばないようにほたるが足で踏ん張って耐えた瞬間、今度は首に冷たい感触がした。ガシャガシャと音を立て、ずっしりとした重さが首にかかる。かと思えば頭から手が離れていき、ほたるは思わず首のそれに触れた。

 そして、愕然とした。


「なんで、こんなの……」


 首枷だった。あるいは首輪か。違いなどほたるに分かるはずもない。

 分かるのはそれが金属でできているということ。そして首枷は、同じく金属の鎖と繋がっているということ。

 ほたるがどうにか状況を理解しようとしていると、今度は首に当てていた両手を引っ張られた。


「やめて!」


 拒絶も虚しく、ガシャンッと両手に同じような枷がつけられる。更には頭に布を被せられて視界も塞がれた。そして首枷の鎖を引かれれば、ほたるにはもう抵抗する術はなかった。


 引かれるままに足を動かす。そうしなければ転んでしまうからだ。

 知らない場所。拘束された首と腕。周りを見ることは禁じられ、靴下だけの足でぺたぺたと歩いていく。その足裏の感覚でどうにか同じような石の廊下が続いていることは分かるが、しかし大して意味はない。

 絶望しかなかった。助けが来る気配はなく、こんな時代錯誤な仕打ちを受けている。

 カルト教団か、変質者の集まりか――これまで得た情報で思い浮かぶ犯人像は余計にほたるの恐怖を募らせる。


 私が何をしたのだろう。一体どうして私なのだろう。

 ずっと頭の中にある疑問は、未だ答えの欠片すら掴めない。


 首を引かれるがままに歩き続け、数分。ほたるは周囲の空気が変わったのを感じた。床の素材も凹凸のある石から、つるりとした木のようなものに変わったように思える。

 そのまま数歩歩いたところで、首を前に引く力が止まった。代わりに背中を押され、何かの台のようなものの上に立たされる。

 そして、視界を奪う布が外された。


「っ……――?」


 広い円筒状の空間。

 見たことのないその構造に、ほたるはただただ圧倒されることだけしかできなかった。

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