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それから俺と咲子さんは、リビングのテレビの前に置かれたソファに並んで座って、珈琲を飲んだ。テレビは付けなかった。咲子さんは、最近学校どうなの、とか、バイトは上手くいってるの、とか、母親然としたことを、きれいな低い声で問いかけてきた。俺はなぜだかそのことに、微かな焦燥ともどかしさを覚えながらも、一つ一つの質問にちゃんと答えていった。その焦燥ともどかしさに名前が付くことが怖かった。その恐怖は多分、さっき咲子さんに感じた恐怖と、共通する根を持っていた。
明日は、学校に行こう。バイトにも行こう。
俺は、柔らかに微笑しながら珈琲を飲む咲子さんを見つめながら、そう思った。明日美は、俺がいなくても大丈夫。そして俺は、咲子さんとずっと二人でいると、たぶん大丈夫じゃない。
「悠一とふたりって、久しぶりよね。ほんと、久しぶり。」
「そうだね。学校とかバイトとか、わりに忙しくしてたし。」
「彼女は? 別れちゃったの?」
「え?」
高校に入ってすぐにできた、同じクラスの恋人とは、三か月で別れたし、その後も、同じサークルだったり、たまたまコンパで顔を合わせたり、そんなきっかけでできた恋人とも、俺は長続きしたことがなかった。だから咲子さんが言う『彼女』が、誰のことを指すのかもわからずに、俺はかなり動揺した。
「……まぁ。」
曖昧に言葉を濁すと、咲子さんはただ、そう、とだけ言って、それ以上追及してはこなかった。
理由を話したらどうなるだろうか、と、ふと思う。
彼女と別れた理由。
どうしても、誰かと深い関係になる気が起きなかったということ。具体的には、肉体関係を持つことに恐怖心があったこと。咲子さんに話したら、彼女はどんな反応をするのだろうか。
次こそは、次こそは、と、細い希望の糸に縋るみたいにして恋人を作ってはみたけれど、別れる理由はいつも一緒だ。俺には、誰かとむき出しの感情を擦り合わせることができない。
「……多分、もう、彼女は作らないかも。」
最後に恋人と別れたのは二か月くらい前、相手はバイト先の同僚だったな、と、ぼんやり思いながら呟く。もうそろそろ、諦めどきだという気がしていた。ひとにはどうしたって克服できない苦手分野の一つや二つはあるし、それが俺にとっては深いレベルの人間関係なのだと、割り切ってしまえば楽になる気もした。
「遠慮してる? 私や明日美に。」
「え?」
全然想定していない言葉が咲子さんから出てきて、俺は目を瞬いた。
「あなたは私の大事な息子だし、明日美の大事なお兄ちゃんだけど、それ以前に、ひとりの人間よ。」
俺は咲子さんのその言葉を聞いて、裏切られたような気がした。
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