ほほえみ

小向アキ

ほほえみ

 「カフェオレを……。あ、やっぱりアイスコーヒーで。」

 「アイスコーヒーですね。」

 耕平は店員の姿形を見やった途端に、細長い指でこめかみを掻きながら、当初の注文であるミルクココアを改めた。

 「ミルクとお砂糖は御入用ですか?」

 「あ……。なしで。」無糖のコーヒーなぞ生まれてこの方口にしたことのない彼であったが、ころんとした茶色いまなざしを意識するとつい、漢の舌には甘味など似合わぬという侍のような態度をとってしまった。

 この喫茶店は突如として彼のいる街に現れた。繁華街から横道逸れた閑静な住宅街に、年季の入った佇まいが誰にも気づかれずひっそりと立ち現れた。蔦が絡まるレンガ造りの外壁は、ここにだけ太陽が届かないかのようにすとんと冷たくなっている。そして表に出された傘立てには、いつでも黒いレースの日傘が一本、取り残されていた。

 ある夏の日、耕平はこの店を通り過ぎた。見慣れぬ店構えに一瞬視線を上げたが、一瞥の価値を見出すのみで、記憶にも残すことなく歩みを進めた。けれども、妙に後ろ髪をひかれてしまった。誰かに腕をグイと引っ張られるような感覚がして、慌てて差し出しかけた足を後ろにひき、体を反転させて重い扉を押し開けた。

 ランチタイム後の午後三時、耕平は締め切られた遮光カーテンの間隙を縫って唯一、日が射す席に腰掛けた。周囲を見回すと黒いスーツを身に纏った恰幅の良い中年男性が一人、四人掛けのテーブルに座り、こくりこくりと船を漕いでいた。背中を向けている彼の頭皮には、申し訳程度に細い黒髪が散っている。

 店内は沈み込むような静寂に包まれていた。BGMも何も無く、誰の物音すらしない。注文を取る女性店員も足音の一つも立てることはなかった。耕平はそのあまりの厳粛さに、尻を落ち着けられないでいた。

 店員はハンディを勢いよく閉じると、踵を返して厨房へと姿を消した。耕平は小さくなっていく背中を眺めている最中、ほとんど呼吸を忘れていた。酸欠によって脳みそがどくんと締め付けられる感覚によって、ようやく息を吸い込んだ。ものの数分で彼は見事に恋に落ちた。店員の容姿が好みと寸分違わず、まるでキャッチャーミットに鋭く投げ込まれるストライクボールの如く、彼の趣味そのものだったのだ。耕平は店内の静けさとは裏腹に、どうにも浮き足立つ心持ちで、大半が氷で満たされたお冷やをかっぴらいた喉の奥へ流し込んだ。

 次の日も、また次の日も耕平は彼女の居る喫茶店へ通った。縁の無かった「ブラックコーヒーで。」という注文は口に馴染んだ文句に変わっていた。

 彼は昼過ぎに眠りから覚めると布団から跳ね起き、キビキビとした動作で身支度をし、そうして店へと向かう。そしてレジに立つ彼女が見える席に座り、無糖のコーヒーを頼む。その一連はほとんど強迫めいていて、彼の意思がどこまで支配力を持っていたのかどうかは当人でさえ藪の中だった。

 

 耕平は店員と何度も言葉を交わす内に、彼女のある癖に気がついた。彼女は語尾に「ウヒヒ。」と付けるのだ。ブラックコーヒー、と彼が言うだけで「かしこまりました。ウヒヒ。」とおかしそうに微笑む。その口元には浅いえくぼが二つ、ぽっかりと浮かび上がる。耕平はその愛らしさに毎度、心を射貫かれた。ほとんどコーヒーの美味さなど理解できない彼であったが、ただ彼女の微笑みを浴びるために、なけなしのバイト代から五六〇円を毎度払い続けるのだった。

 彼女の入れるコーヒーはいつも少し甘い。飲み口の薄いグラスは茶色一点の液体で満たされているのにもかかわらず、不思議ととろりとまどろむ甘さがある。耕平はその秘訣を訊ねようと幾度も考えたが、どうしても彼女と注文の他に言葉を交わすことが出来なかった。「ウヒヒ。」と微笑まれてしまうと、目がトロけて言いかけた言葉が喉の奥へ逆流してしまうのだった。


 コーヒーを飲み終えいよいよ店に留まる理由がなくなると、彼は渋々立ち上がってレジへ向かう。コーヒー代の五六〇円を払い、レシートを受け取ると「いつもありがとうございます。ウヒヒ。」とそう声を掛けられた。「ごちそうさまでした。」と口の中で言うと、届いているはずの無い挨拶に情けなさを感じた。けれども店員は柔らかく会釈をした。目元にも口元にも聖女の微笑みをたたえて。

 日が赤く溶ける頃、足取り重く耕平はアパートへ帰る。砂壁に囲まれた部屋のスイッチを押すと、切れかけの電球が四回ジジジジと点滅した後、嫌々体を光らせた。

 いつか、耕平は電車に飛び込む直前まで行ったことがある。体力・気力の両方がほとほと使い果たされた結果、足下がぐらついた。高校生の頃であった。元来、おっとりとした気質を持って生まれた彼にとって、世間が回るスピードはあまりにも速く、成長するにつれそれは大きな息苦しさを生んだ。彼は生きづらいとため息をつく度に、自分にだけ配り損ねた台本があると感じていた。例えば学生時代が全十回のドラマだったとして、世間にはきちんと十話分過不足無く手元に置かれ、各人がそれぞれ役を全うしている。しかし彼には冒頭の三回分しか配られず、ストーリーも登場人物も全て知り得ないまま一人だけアドリブを強いられているように思えて仕方がなかった。役名はおろか、物語がどこへ走っているのかも朦朧としている中、まるでジオラマでも見ているような心持ちで、涙でむくんだ目で世間を見上げていた。

 しかしホームに飛び込むにしても、車輪でひしゃげた自身の死に顔を想像すると、散々曝した生き恥が、とうとう最期まで拭われないまま死後硬直を迎えてしまうことを彼は恐れた。悲惨な生活が続いていく苦痛に比べればちっぽけなはずのそんな懸念を晴らせないまま、いつの間にか改札を出た。そして当てもなくしばらく歩いて自宅まで戻った。一夜の後に、耕平は歩き疲れてぐっすりと眠りについていた自分自身に思わず吹き出してしまった。

 灯火を留め置くのもおぼつかない豆電球に照らされながら耕平は手と顔を洗い、「ウヒヒ。」と洗面台の鏡を覗いて口角を上げてみた。するとこけた頬はいくらか丸く、落ちくぼんだ瞼の尻にはいくらか幸福そうな皺が出来た。「ありがとう。」よりも「もっと大きい声で喋って。」と言われた回数が勝るような彼の人生は、店員の微笑みによって一日ずつ延長されていくのだった。

 

 ある日のことだった。いつもの如く耕平は視界の隅に彼女が入る席を選び、グラスからしたたる結露を気にしつつコーヒーをすすっていると、見慣れない人影がレジにあるのを認めた。その男は彼女とおそろいのエプロンを巻き、胸元には研修中という手書きで書かれた札を付けていた。そして時折、笑った。「ウヒヒ。」と二人、目を合わせながら笑った。耕平は右の手の甲に西日が染みこみピリリと痛むのを感じた。

 気もそぞろになりつつコーヒーを飲み干しレジに向かい、耕平は伝票を彼女に向かって差し出した。すると白い紙切れは小さな柔らかい手から「はい。」と右から左へ流れるように男性店員の血管の浮き出た手元へと流れていった。

 そして「ブラックコーヒー。五六〇円ね、ウヒヒ。」と初心者らしくレジ操作にまごつく男性店員に彼女はささやきかけた。すると頷くついでに男は俯いた頭を上げると

 「常連さんですよね。いつもありがとうございます。」と腰を折って礼をした。「ウヒヒ。」と彼女から移った癖とともに。耕平を見つめるその瞳の美しいこと美しいこと……。またもや耕平は台本を配られ損ねたまま舞台に立っていた。己のあずかり知らぬところでいつの間にか名前もない脇役として踊らねばならぬ屈辱をまたもや味わわされ、見目麗しい男女を最大限に引き立てるために、おどおどしてみせなければならなかった。それが割り当てられた役目、ひいては彼の運命と言うほかなかった。けれども彼は、道化役にはもううんざりしていた。そんな台本にはもう付き合いきれなかった。

 耕平を、主人公達が澄んだ瞳で捉えている。彼は枯れ木のような指で財布を開き、五六〇円をちょうど取り出すと、衝動的に二人に向かって投げつけた。緑色のエプロンに硬貨は当たり、跳ね返った勢いそのままにカウンターの内側へと転がり落ちていった。チャリンチャリンと小銭が床で翻る音を聞き、しまった、と冷静になった彼をよそに、彼女はしゃがみ込んだ。そうして、時が止まった。

 「ウヒヒ……。ウヒヒ……。」と、地鳴りのような恐ろしい響きがカウンターから這い出た。そして彼女は煙が登っていくかのようにゆっくりと立ち上がると、勢いよくカウンターから身を乗り出し、その瞬間、耕平の腕を引っ掴んだ。

 「五六〇円……。ウヒヒ……。五六〇円……。ウヒヒ……。」

 そう笑う彼女の目玉は蛆に食い尽くされたかのように朽ち、カウンターにまろび出、黒い穴ぼこが耕平と見つめ合った。

 「ウヒヒ……。ウヒヒ……。ウヒヒ……。ウヒヒ……。」

 彼女は半身を乗り出すと、顔同士を近づけた。耕平はその時になって初めて、彼女の息がひどく生臭いことに気がついた。そして叫び声も出ないまま必死に腕を振りほどくと、重い扉に体当たりをして外に出た。

 足も腕もめちゃくちゃに絡ませながら走り、息を切らして道端にへたり込むと、己のやつれた頬の肉が引きつっていくのが分かった。自分の意思とは無関係に、背後から何者かの手によって口の端を引き上げられているかのようにして。無理矢理に上がっていく口角に、彼の乾燥した唇は裂けて血が滲んだ。そして「ウヒヒ…。ウヒヒ…。」と広く空いた前歯の隙間から、笑い声が延々と漏れて出た。

 耕平は笑っていた。そしてそれから涙を流した。彼女と初めて触れ合えた感動のために。初めて知り得た人の体温の暖かさのために。耕平の手首には、女性の指の太さほどの痣が赤く赤く刻み込まれていた。

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ほほえみ 小向アキ @nagare_ootaka

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