ルーチンハウスワーク

高橋心

ルーチンハウスワーク

「ひょっとすると妻は私と出会う前に死んでいたのかもしれません。」

カーテンで覆われた窓越しの声は年齢のせいか掠れていた。そして震えた声は彼の緊張や不安を感じさせ、それにつられた司祭は彼の言葉を疑問に思うと同時に、自らの強張りを気取られまいと必死になっているのだった。

「…神父様?」

そんな彼の声は司祭の余計な思考を上書きし、慌てたように司祭は話の続きを促すのだった。

「いえ…今の私の物言いが少しわかりにくかったのですね。初めからお話しします。私自身これが懺悔なのかも分かっておりませんので最後まで辛抱強くお話を聞いていただきたいのです。」

乾いた咳払いの後に彼は続けた。






 妻とは互いの両親が設定したお見合いで出会い、相手のことを深く知らないまま苗字を同じくした私たちはそれから5年もすると言葉を交わさないのが当たり前になっていました。元来口数の少ない性分もあるのでしょうが最後に彼女の声を聞いたのはいつなのかも曖昧で、職場での会話がある私とは違い、友人などと出かけることのない彼女は自分の声を覚えているのか疑わしくなるほど無口を貫いていました。子供でもいれば生活音以外の音を家でも聞くことができたのでしょうが。


 ただ、そんな絶対零度の家庭とは対照的に彼女の家事は正確で文句を言うこともありませんでした。専業主婦になってから洗濯物は毎日同じ順序で畳み、掃除も毎日同じ部屋順で行われるのです。ひたすら家に籠り、1秒もずれることなく決まった家事を行う様子は機械的という言葉がぴったりで、料理すら曜日ごとにメニューを固定する徹底ぶりです。買い出しだけは外出が多く運転免許を持っている私の役割ですが、私が何かを買い忘れたり別なものを買って帰ったりしても翌日の朝食は不思議と予定通りのものが並んでいました。まるで家が丸ごと時間を繰り返しているようにも見えました。いつしかそれが機能的でとても心地が良くなったのですが、当時はそうは思えませんでした。


 その日もリビングに降りるとテーブルにトーストとハムエッグ、豆腐だけの味噌汁が二つずつ見えました。今日は月曜日と分かっているのに改めて思い知らされるようで無性に腹が立ったのを覚えています。いつものように顔を合わせないように席に着き、声には出さず唇だけ「いただきます」と動かすのが唯一の会話のようなものでした。言葉のやり取りが存在しない分、早く食べ終わることだけが良いところです。味も悪くはないのですが、どんな料理が卓に並ぶのか分かりきっている上、既に知っている味のため感動はありませんでした。家での私は心が動かない死体のようだという自覚がありましたが、次第に仕事こそが私の生きがいと感じるようになっていきました。家庭が棺桶に見えていた上に彼女もその一部か中身だと感じていたので居心地が悪かったのは確かです。家を出る瞬間が私が一番好きなものでした。


 ただ、いくら生きがいといえど上手くいかない日もあるということです。その日上司に厄介な案件を押しつけられた私は退勤が遅くなり、いくら忘れようとしても上司の脂まみれの顔が脳裏に浮かんだままでした。考えるほど頭に血が上っており自制が効かなくなり、家に帰るまで見かけた酒屋で度の強い酒を買い、それを片手にまた途中で見つけた店で空になった缶と新しいものとを交換しそれを繰り返して家に向かっていました。飲みすぎました。眩暈を感じながらもそれすら理不尽に思え怒りは増すばかりでした。

 いつもよりも遅く家に着くと、当然であるかのように夕食はすでに片付けられていました。既にいつもの食事の時間は過ぎていたのです。私は自分の尊厳が酷く傷つけられたような気がして、普段通りの時間に皿を洗う最中の妻に私は怒鳴り散らしていましたが、彼女はそれでも皿を洗い続けました。それがますます癇に障り、つい私は彼女を足で押すように蹴りました。妻は一度倒れたもののむくりと起き上がるとまたいつも通り皿を洗い続け、その何事もないような振る舞いはかえって私の怒りを大きく膨らませました。数秒前まで臨界点だと思っていたものを簡単に超えてしまった私はわざわざ自室へ駆けあがりお気に入りのパターを手に彼女の前に戻ると、順調に汚れた皿は減っていました。

 脅すように大きく振りかぶる瞬間も彼女は私が見えていないかのように手を止めず、振る際の風を切る感覚は悪くなかったですが、人の頭を飛ばすのは思ったよりも気持ちが良くなかったのは覚えています。先ほど小突いた時よりも派手に倒れた彼女とその凹んだ側頭部、私自身の妻に生きていてほしいと思う気持ちが、彼女が手遅れであることを裏付けていました。焦りと激しい後悔が全身の虚脱感を生み、本当に自分がしでかしたのかあやふやでこの時点で私が受け止め切れる物事の量を超過していたんだと思います。私は医者ではありませんがそんな私でも一目見ればもはや救急車が要らないことが分かりました。そのため、警察に連絡をしようとしましたがそれも必要なかったです。

 むくりと起きた妻は板付きのようにまたそこに立ち、いつも通りスポンジで皿をこすり始めました。大きく凹んだ頭のまま。私は妻の生存と自分の過ちが認識よりも小さいことを喜ぶことができず、むしろなぜ動けるのだろうと思いました。それは正確には、動かないで欲しいという願望でした。

 割れた黄身みたいに飛び出しかけた目と眼窩の隙間から流れた血が洗剤の泡と混ざって淡い桃色になったところで、今度はゆっくりと自室に向かい、アセトアミノフェン錠をかきこみました。なんとなく、そうすれば嫌いだったいつもの朝がやってくると思ったような気がします。


 結局次の日も、その次の日も妻はいつも通りでした。空気を入れる前のバスケットボールみたいに頭が潰れていること以外は。よく観察することは私にはできませんでしたが血は止まっているようで、あの時床に流れた血も普段の家事のおかげで1週間ほどで綺麗さっぱり見えなくなりました。

 妻の頭部は治ることもそれよりひどくなることもないまま、ゼンマイ仕掛けの家事は続いたのです。私は妻に病院に行くことを勧めませんでしたし彼女もそのことに触れることもありません。家での私は死んだように生きている気がしていましたが、彼女は逆なんだと思います。それが一体いつからだったのかは分かりませんが。

 しばらくするうちに、なぜだか私はそれを事実として受け入れていましたし、何ならそれからは何かにつけては一日に何度か彼女を殴ったり蹴ったりするようになりました。頭に血が上るたびにそんなことをしていたので、あっという間に彼女にはヒョウモンダコの体に似た、全身の青あざができました。理由はいちいち覚えてもいられない些細なもので、口内炎が痛いだとかそんなことだったような気がします。気分は絶対に壊れないぬいぐるみを見つけたようで、あの日のように多少やり過ぎることも何度かありましたが、その度に何事も無かったかのように家事を再開する様子のせいで次第にそれが普通になっていました。


 そんな出来事から20年ほど経った後でも彼女の機械的な習慣も、私の彼女に対する仕打ちも変わらないままでした。彼女の傷は増え続けていますが治ることはないので、凹んだバスケットボールもそのままです。

 しかし、私自身は大きく変化したように思います。というのも彼女のことを誰かに知られてしまうことに恐怖を抱くようになりました。当事者の私でも説明できないような彼女の状態を他人が知ってしまったらどう思うのだろうと考えるとたまらなく不安で彼女を見張るようになったのです。彼女は外には一切出ないので、頭では大丈夫だとは分かっていましたが、仕事も辞め家に籠っていられる投資で生計を立てるようになり、以前は好きだったゴルフなどのアウトドアも長時間家を空けることを避けるために辞めました。ほとんどの時間を家で妻と過ごし、いつしか私も彼女のように決められた生活をこなすだけになっていましたが、そんな生活そのものには特別苦しさなどは感じていませんでした。むしろ繰り返される空間に居心地の良さを感じ幸せなもので、変化のない日々が愛おしくなっていました。乱れのない電車に運ばれて、間違いの無い時間を過ごす静かな気持ち良さとでも言えばいいんでしょうか。

 ただ、壊れないが傷つく彼女のせいで今まで私が彼女にして来たことが目に見える形で堆積し、四六時中それを見続けるという新たな悩みも生まれたのも事実です。なんというか、私の心はどっちつかずで、怒りに任せて彼女を殴打しては、それについて自責の念に苛まれるということをしばらくの間繰り返しておりました。そんな私にとって彼女の傷を見続けるのはとてもとても苦しいものです。そして、限りなく気分が落ち込んだある時ふと、自分が彼女を痛めつけるのに使ったゴルフクラブを捨てたいという気持ちが私の胸の内に広がりました。

 なんとなく気分が良くなるような気がするだけの儀式じみたことだとは思いましたが、気づくと私は久しぶりに車を走らせていました。真夜中のある山中にそれを放り投げることになったのは、いかんせん妻の頭を潰した凶器であるために人目はなるべく避けたかったことに他なりません。これで安心して妻と過ごせると思うと快く、アクセルを強く踏みながら、そうして我が家に帰りました。家に入ると、妻は死んでいました。横たわった彼女の20年前の頭部の怪我が新鮮な致命傷に見えたのです。帰ったらまた確認しようと思うのですが、倒れていたのもあの場所だったと思います。

 妻は死にました。私は妻に取り残されてしまいました。変化することが生きることなら妻は死んで初めて生きたのでしょうが、今の私はどうなのでしょうか。いつの間にか私も、彼女のように生きたように死んでいるのでしょうか。私はまた家に帰ります。そして彼女のことを誰かに話すことで私もそうあれるのでしょうか?

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ルーチンハウスワーク 高橋心 @shincostan

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