お酒の言い訳
らぷろ(羅風路)
お酒の言い訳
駅前の高層ビルの地下へと降りると、ざわついた通りとは違う、湿り気を帯びた静けさが広がる。
「ワイン&カクテルバー ランコントル」――灯りに浮かぶ看板が目を引き、通り過ぎる人を吸い込むように誘っていた。
扉を押すと、ひんやりとした空気とジャズのリズムが迎える。
棚に並ぶボトルが鈍く光り、バーテンダーが磨くグラスの透明感が店の落ち着きを強めていた。
会社帰りの客もいれば、ひとり静かにグラスを傾ける常連もいる。外の喧騒から切り離された小さな地下の楽園。
カウンターの中央に座る男は、琥珀色の液体を見つめていた。
丸い氷がグラスの中でゆっくりと音を立てている。
ウイスキーの香りを確かめるように鼻先に近づけ、ひと口含んだ。
冷たいはずなのに、舌に残るのはぬるい疲労感。
何軒も飲み歩いた後で、この店は「口直し」だった。
ビールの泡と焼酎の苦味に覆われた胃を、最後に整えるための一杯。
付き合いばかりで、酒を楽しむことを忘れていた夜の終点。
彼にとってランコントルは、ほっと息をつくための避難所のような存在になっていた。
カウンターの端に腰を下ろしている女は、赤ワインの入ったグラスを手にしていた。
グラスを傾ける仕草は自然で、目線はどこか遠くに漂う。
口に含むたび、舌に残る渋みを確認しているように見えた。
肩の力は抜けているのに、瞳の奥は落ち着きを欠いている。
彼女にとって酒は癒しであり、同時に支えだった。
仕事を終えて部屋に戻ると、沈黙が心にのしかかる。
その静けさを埋めるために、ワインに手を伸ばす。
夜をやり過ごすための習慣が、自然と足をこの店に向かわせていた。
――ふたりの会話は、偶然の拍子に始まった。
女が軽い足取りで席を立ち、化粧室から戻るとき、ヒールが床に軽く引っかかり、身体がよろけた。
カウンターに置かれていた男のタバコの箱に触れ、箱は床へと落ちる。
「あっ、ごめんなさい」
身をかがめようとした女に、男が手を差し出して制した。
「大丈夫、俺が拾う」
そう言って腰を伸ばした瞬間、今度は彼女の手からハンカチがひらりと落ちた。
布が床に触れる小さな音。
二人の視線がそこで重なり、男が先に拾い上げて差し出す。
「今日はずいぶん落としものが多いね」
女は頬を赤らめ、苦笑を返す。
「本当に。ありがとうございます」
彼女が席に戻ったとき、そのまま自然に言葉がつながった。
「けっこう飲んでるみたいだね」
男がからかうように言うと、彼女は小さく肩を揺らした。
「少しだけ。でも……あなたの顔のほうがずっと赤いですよ」
「俺は仕方なくなんだ。仕事で断れなくて。取引先に呼ばれ、上司に誘われ……断れば角が立つ。今夜も3軒目さ」
「私は逆ね。誰も誘ってくれないから、自分で飲みに来るの。ひとりで部屋にいると、落ち着かなくなる。お酒がないと眠れないのよ」
男はグラスを揺らし、氷の音を耳で追う。
「仕事の延長みたいなもんだ。好きでもないのに飲んで、笑って、へとへとになって……結局、情けない自分が残る」
女は赤ワインを一口含み、口角をわずかに上げた。
「私も似たようなもの。本当はもっと強くありたいのに、気がつけばグラスを握ってる」
- 酔ってるときの俺は、俺じゃない -
- 私、しらふなら、もう少しまともに話せるはず -
声の温度が変わり、言葉が重さを帯びる。
互いに語る理由は違っても、そこに潜む弱さは似通っていた。
男がふと尋ねる。
「君はどうして、そこまで酒に頼る?」
「昼間は平気。でも仕事が終わると、心に穴があくの。その空白に押しつぶされそうで……ワインがそれを埋めてくれる」
「俺は逆だ。酒を断ったら、仕事が回らない。契約も人間関係も、酒の席がなければ成り立たない」
「変ね。私は一人だから飲むのに、あなたは人とつながるために飲む」
「結局どちらも、酒に縛られてる」
二人は笑った。乾いた笑い声が、ほんの少しだけ互いの心を軽くした。
氷が解ける音が、沈黙の中で透明に響く。
女が視線を落としながらつぶやく。
「もし飲まずに会ったら……私たち、何を話すんだろう」
男は少し驚いたように目を上げ、やがて笑った。
「それを確かめてみよう。次は素面で会おう」
女は短く頷き、微笑んだ。
その瞬間、二人のグラスには酒ではなく水が似合っているように見えた。
数日後、日曜の午後。
ランコントルの静かな灯りとは対照的に、駅前のカフェは窓から明るい陽射しが差し込んでいた。
テーブルの上には、ホットコーヒーとカモミールティー。
最初はぎこちなかったが、話し始めると不思議なほど自然に言葉がつながっていく。
「こうして話すと、酔ってたときよりずっと楽だ」
男がカップを置き、照れくさそうに笑う。
女はティーカップを両手で包み込み、香りを吸い込みながら頷いた。
「お酒がなくても、自分を出せるんだってわかったわ」
仕事の話、趣味の話、休日の過ごし方。
言葉は次々と流れ出し、途切れることはなかった。
「酒がきっかけで出会ったけど、これからは酒がなくても会える」
男の言葉に、女は少しだけ頬を染め、微笑む。
「私たち、お酒をやめるために出会ったのかもしれないわね」
窓の外では街路樹が風に揺れ、光が反射してきらめいていた。
アルコールに霞まされない景色が、まっすぐに二人の目に映る。
その未来はまだ小さく、頼りなげだが、確かにそこに芽吹いていた。
女は、言った。
「コーヒーカップ、これから買いに行ってみませんか?」
お酒の言い訳 らぷろ(羅風路) @rapuro
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