第2話 潰悸

日曜の昼下がり、奈緒は隼太と一緒に村の境内を歩いていた。

隼太が嬉しそうに尻尾を振りながら先を歩く姿を見ていると、心が少し軽くなる。


「おい、そこの娼婦の娘」


振り返ると、クラスの男子数人が薄笑いを浮かべて立っていた。


血の気が引く。


「母親があれなら、お前もそうなんだろ?相手してくれよ」


一人がスカートの裾を掴んで引っ張った。

奈緒は必死に抵抗しようとしたが、その拍子に隼太のリードを手放してしまった。


隼太は驚いて走り出した。


「おっと、逃げやがった」


「捕まえてやる」


男子たちは笑いながら隼太を追いかけていく。奈緒は慌てて後を追ったが、足の速い男子たちに追いつけない。


「隼太!隼太!」


奈緒は村中を探し回った。


夕暮れまで、夜が更けるまで。しかし隼太の姿はどこにもなかった。


翌朝、父が青い顔をして毛布に包んだ何かを抱えて帰ってきた。


「奈緒…隼太が…」


毛布をめくると、そこには冷たくなった隼太がいた。


美しかった茶色の毛は汚れ、小さな体は無数の傷で覆われていた。

明らかに何度も何度も殴られ、蹴られた跡だった。


奈緒は声も出なかった。

ただ隼太の冷たい体を抱きしめた。


その時、奈緒の胸の奥で何かが音を立てて沸騰した。

今まで感じたことのない、どろどろとした黒い感情が静かに、しかし確実に心を満たしていく。


怒り。憎しみ。復讐への渇望。


奈緒は隼太の傷だらけの体を見つめていると身体が震えた。


父と二人で裏山の木陰に小さな穴を掘った。

隼太を毛布ごと優しく土の中に寝かせ、奈緒は隼太が好きだった林檎を墓標代わりの石の前に置いた。


「ごめんね、隼太。ごめんね」


涙は出なかった。


心の中で何かが凍りついていた。


週が明けて月曜日。

奈緒は重い足取りで2年3組の教室に入った。


「私の席…」


奈緒は立ち尽くした。


自分の机がない。


本来あるべき場所はぽっかりと空いていて、まるで奈緒という存在が初めからいなかったかのようだった。


教室の隅から笑い声が聞こえた。

女子たちが手で口を隠しながら、クスクスと奈緒を見て笑っている。


「あれ、机ないの?どうしたのかなあ」


「よそ者には席ないんじゃない?」


奈緒の胸の奥で、昨日から煮えたぎっていた何かがさらに膨れ上がった。


授業中、奈緒は廊下の壁際に立たされた。


休み時間、教室を出ると誰かが足をかけ、奈緒は床に倒れ込んだ。


笑い声が響く。


放課後、下駄箱を開けると靴が放り出され、泥まみれになっていた。



もう無理だった。



奈緒の中で何かが音を立てて壊れた。


隼太の傷だらけの体、男子たちの薄笑い、女子たちの冷たい視線、継母の嫉妬に満ちた目、そして今日という日。


全てが重なり合い、奈緒の心を真っ黒に染め上げた。


喰代神。

その名前が脳裏に浮かんだ。


ヤエの警告も、もはや耳に届かない。


決めた。


今夜、山へ行こう。​​​​​​​​​​​​​​​​


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