第23話 それでも、私は…
録音まであと2日。
朝の病院で、ゆらは診察台に座っていた。
「ぁ゛ー……」
必死に声を出そうとする。
でも、かすれた息しか出てこない。
医師が喉頭鏡を覗きながら、厳しい表情を浮かべた。
「このまま無理をすれば……」
一呼吸置いて、はっきりと告げた。
「二度と歌えなくなる可能性があります」
ゆらの顔が青ざめる。
隣で真琴とこよりも息を呑んだ。
* * *
スタジオに戻ると、重い空気が流れていた。
「うちらだけで歌う」
真琴が決意を込めて言った。
「ゆらの分も歌う、うちらが」
「……私も賛成」
こよりも頷く。
「3人分を2人で。やるしかない」
* * *
その夜、10時過ぎ。
スタジオには折原だけが残っていた。
明日の録音の準備を進めている。
ドアが静かに開いた。
ゆらが一人で立っていた。
「ゆら?どうしたんだ、こんな時間に」
折原が驚く。
ゆらはメモ帳を取り出した。
震える手で文字を書く。
『お願い。明日、歌わせて』
折原は首を振った。
「ダメだ」
月明かりが窓から差し込み、二人を照らしている。
静寂の中、ゆらが必死に筆談を続ける。
『このプロジェクトは私の全て』
『ここで諦めたら、もう二度と立ち上がれない』
折原がゆらの肩にそっと手を置いた。
「気持ちはわかるが、君の声を失うなんて俺には考えられない」
その手の温もりが、ゆらに伝わる。
折原の表情は、月光の中で真剣そのものだった。
「俺はファンとして、君の声に励まされてきた」
ゆらの目が見開かれる。
「仕事がうまく行かないことばかりで、何もやる気が出なかった時」
折原が静かに続ける。
「君たちの歌を聴いて、明日も頑張ろうと思えた。
特に君の声は、俺にとって特別だった」
二人の距離が、いつの間にか近くなっている。
「君の声が聞けない人生なんて、考えたくない」
その言葉に、ゆらの目から涙が溢れた。
月明かりが、その涙を銀色に光らせる。
嬉しい。
折原がそこまで自分の声を大切に思ってくれている。
でも——
『それでも、歌いたい』
ゆらが震える手で書く。
『折原さんと一緒に作ったものを、完成させたい』
二人の間に、沈黙が流れる。
ふと、厚い雲が月を隠した。
スタジオが暗く沈む。
まるで、今の状況を映しているようだった。
折原とゆらは、暗闇の中で見つめ合っていた。
答えは、いつまでも出す事はできなかった。
* * *
録音当日。
朝のスタジオ。
エンジニアの山田が機材を調整する。
真琴とこよりがブースに入る。
ゆらは折原と一緒に、家で待機することになっていた。
「じゃあ、真琴ちゃんから」
山田がマイクを調整する。
真琴が深呼吸して、歌い始めた。
いつもの力強い声が、スタジオに響く。
「……次、私」
こよりも続く。
透き通るような声が、美しく重なっていく。
2人の録音は順調に進んだ。
「あとは、ゆらちゃんのパートどうする?」
山田が心配そうに聞く。
「……動画がある」
こよりがスマホを取り出す。
「公園で撮った時の」
あの夜、折原のために歌った「夢の続き」。
その時の音声が残っていた。
一聴した山田はこよりににこやかに告げる。
「ノイズは多いけど、できるだけ綺麗にしてみるよ」
最後の仕上げに入ろうとした時——
ガチャ!
突然、スタジオのドアが開いた。
そこに居たのは、ゆらと折原だ。
「ゆら!?」
真琴が驚く。
* * *
——時間は2時間前に遡る。
折原家。
折原がゆらの様子を見に、部屋をノックする。
「ゆら、大丈夫か?」
返事がない。
嫌な予感がする。
家中を探し回ると、玄関でゆらを見つけた。
外出着に着替え、靴を履こうとしている。
「ゆら、ダメだ」
折原が慌てて止める。
ゆらがメモ帳に書く。
『行かせて』
「医者が言ってただろう。二度と歌えなくなるって」
『それでもいい』
ゆらの文字が震えている。
『このプロジェクトが失敗したら』
『私はアニメからも、アイドルからも離れる』
『それくらいの覚悟なんです』
「ダメだよ!」
折原が声を荒げる。
「それでも行かせることはできない!」
その騒ぎを聞いて、廊下から声がした。
「修」
折原の母親が立っていた。
優しい、でも少し寂しそうな表情。
「あんたも高校の時、同じこと言ってたじゃない」
母親がリビングに向かう。
そこには、亡き父の遺影があった。
「『俺はアニメ監督になりたいんだ』って」
遺影を見つめながら続ける。
「『それ以外の仕事なんて、死んでるのと同じだ』って、
お父さんに向かって叫んでたよね」
折原が黙り込む。
「あの時、お父さんは止めなかった」
母親が微笑む。
「後悔する人生の方が、辛いからって」
ゆらと折原は、顔を見合わせた。
* * *
——現在。
スタジオのブース。
ゆらがマイクの前に立った。
震える手で、マイクスタンドを握る。
「本当にいいの?」
山田が心配そうに聞く。
ゆらが頷く。
折原がトークバックのボタンを押した。
「無理はしない。でも、君にしか出せない歌がある」
優しく、でも確信を持って言う。
「掠れた声でも、息だけでも、それが今の君の表現だ」
録音開始。
イントロが流れる。
ゆらが最初の一音を出す。
掠れている。
でも、確かに音程がある。
「……綺麗」
こよりが呟く。
真琴も目を潤ませる。
「これや、これが本物や」
3人の声が重なり始める。
真琴とこよりが、ゆらの掠れた声に寄り添うように歌う。
予想もしなかった美しさが生まれた。
完璧じゃない。
でも、だからこそ心に響く。
途中、ゆらの声が完全に出なくなる瞬間があった。
「大丈夫」
折原がマイクを通して言う。
「息だけでいい。それも君の表現だ」
ゆらが目を閉じて、息を吐く。
その吐息さえも、音楽の一部になっていく。
五十嵐が撮影しながら涙を流していた。
「これ……プロには絶対出せない音」
* * *
最後のサビ。
ゆらが渾身の力を振り絞る。
喉が焼けるように痛い。
でも、歌いたい。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
クリアな声が響いた。
まるで雲間から光が差すように。
澄み切った、美しい声。
でも、すぐにまた掠れる。
その不安定さが、かえって真実味を帯びていた。
今を必死に生きている証。
完璧じゃないからこそ、本物。
「OK!」
山田が録音を止める。
ゆらが崩れるようにその場に座り込んだ。
もう、完全に声が出ない。
でも、その表情は晴れやかだった。
メモ帳に文字を書く。
『これが私たちの本当の姿』
真琴とこよりが、ゆらを抱きしめた。
「最高やった」
「……感動した」
折原も優しく微笑む。
「君たちにしか作れない音だ」
完璧じゃない。
でも、誰にも真似できない。
そんな音が、確かに刻まれた。
【お礼】
ここまでお読みくださった方、本当にありがとうございます。
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これからも続けていけるよう、頑張っていきます。どうぞよろしくお願いします!
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