木漏れ日の図書室で

淡路結波

木漏れ日の図書室で

 昼下がりの図書室。

 木漏れ日が射しこむ憩いの場。

 光の粒が本棚の間を抜けて、文庫のページの上で踊っている。


 放課後のざわめきが遠のいたこの場所は、

 私にとっていつしか避難所のようなものになっていた。

 人の気配が薄い時間だけ、世界が静止する。


 開いたページの質感は軽く、少し熱をもって暖かい。

 その余韻を閉じ込めるように、栞を挟んでみた。


 ――パタン


 本を閉じる。その栞は去年の春、後輩にもらったものだ。

 リボンの色は淡い藤色。

 季節が変わるたびに、その色が記憶の奥をくすぐる。


 リボンが風に揺れ、なんだか気持ちよさそうだ。


 ドアの先からテクテクとした音がする。

 普段は全然人が来ないのに。

 物珍しさもあって、ドアの方向に耳を澄ましてみた。


 最初は、ただの職員かと思った。

 けれど、足音の間隔が妙に整っている。

 あぁ、これはあの子の歩き方と同じリズム。


 ――テクテク、テクテク


 足音が近づき、少しずつ大きくなってくる。

 ふと、音がピタッと止まる。


 んんっと、不審に思っていると、

 ガラガラっと扉が開いた。


 そして、じぃーっとした視線を感じた。


 振り返ってみると、そこには後輩が立っていた。



 長くて短い高校生活。

 後輩と出会ってからの二年間、いろいろなことがあった。


 それまで私は、こうやって一人で図書室にこもって

 本を読んでいることが多かった。


 ある日そこに、


「何読んでいるんですか?」


 と見知らぬ人間が現れた。

 それが後輩だった。


 その日、私は『銀河鉄道の夜』を読んでいた。

 彼女は表紙を覗き込み、


「あ、これ小学生の時に読んで泣きました」


 と笑っていた。


 あの笑顔が、春の光に似ていた。


 あれから世界が少し広がった。

 でも、それももう遠く離れてしまった。


 過ぎるときは一瞬に儚く散る。


 彼女はまだあの頃と同じ髪型だった。

 ほんの少し伸びただけで、

 あの頃の面影がふっと重なる。


 ページを閉じる指先が少し震えた。

 どうしてこんなときだけ、思い出が鮮やかに蘇るんだろう。



 ***



 図書室の前で、私は一度立ち止まった。

 胸の奥で、何かがカチリと音を立てた気がした。


 もう今日しかない。そう思った。


 引き戸の向こうに、先輩がいる。

 あの光の中で本を読んでいる姿を、何度も思い浮かべてきた。


 あの日の「何読んでるんですか?」から、すべてが始まった。


 先輩の声を初めて聞いた日、

 私の世界は本のページのようにめくれた。


 先輩は静かな人だった。

 でも、その沈黙が心地よかった。


 何も言わなくても隣に座っていられる。

 そんな人に出会ったのは、あの人が初めてだった。



「卒業後はどちらに行くんですか?」


 私は尋ねた。


「地元の大学に進むよ」


 そう答えた先輩の声が、少しだけ遠く感じた。


「その先は、まだ考えてないね」


 軽く笑うその仕草が、あまりにいつも通りで、

 逆に胸が痛んだ。


 きっと、私の中ではもうではいられなかったのに。



 先輩との別れが迫っていた。


 高校入学直後に、この図書室で出会ってからというもの、

 私は先輩を探しによくこの部屋にきた。


 初めて一緒に本を読んだとき、

 ページをめくるたび、紙の音が重なってハーモニーみたいだった。


 思えばあの時に一目惚れしていたのかもしれない。


 でも同性だったから、友愛だとずっと思っていた。

 いや、思いたかった。


 この関係を壊したくなかったから。


 でも、今日こそは伝えないといけない。

 もうここで会うことはないんだから……。



「じゃあね、またどこかで」


 そう言って先輩は席を立った。

 一つ、また一つと私から遠ざかっていく。


 図書室の引き戸に手をつけてドアを開ける直前に、

 声が漏れた。


「行っちゃだめっ!」


 私の声を聞いて、先輩が振り返る。


「先輩っ! 最後に伝えたいことがあるんです!」


 私と先輩しかいない部屋がシーンと静まり返る。


「なぁに? どうしたの?」


 先輩が振り返り、こっちを見る。


「先輩のことが、好きです。付き合ってください!」


 言葉を出した瞬間、足元から体温が抜けていく。

 声が震えて、空気が揺れた。


 けれど、もう止まらなかった。



「ありがとう。あなたの気持ちを受け取ったわ」


 私の告白に対して、先輩はそう返してくれた。


 その声が柔らかく、春の光みたいに胸に沁みた。

 世界が少しだけ明るくなった気がした。



「お返事をいまここで手紙にするから、少し待っててくれる?」


「もちろんです。急いでないですから」


 鉛筆の流れる音が静かな空間に響く。


 しばらく時間が過ぎ、音が止んだ。

 ピシッ、ピシッと、紙を折る音がする。


「ほら、お返事。受け取ってね」


 そう言って、先輩は紙飛行機を飛ばした。


「へっ!? 飛ばすんですか??」


 思わず声を上げる。


 けれど、それは綺麗に舞いながら、私の目の前に着地した。


 紙を開くと、中には一首だけ綴られていた。


  春の風 ともに歩まん 道ひとつ

  花の芽吹きし 未来あすをかさねて


 その瞬間、胸の奥で何かが解けた。

 涙が滲んで文字が少し滲んだのに、

 不思議と世界がはっきり見えた。


 窓の外から光があふれて、

 一粒一粒が舞い落ちていた。


 教室にもおすそ分けのように、

 優しい日差しが頬を撫でる。


「今日から一緒に帰っていいですか?」


 私の言葉に、先輩はうなずいた。


 そのとき、二人の間を通り抜けた風が、ページを一枚めくった。


 春の章が、始まったばかりだった。


 三分咲きの桜が、

 徐々に親しむ私たちを祝福してくれるような気がした。

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木漏れ日の図書室で 淡路結波 @yu-Awaji

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