沈黙の福音

crow

第一章

第1話:血と炎と正義と

血と焼けた肉の匂いが、鼻腔を激しく刺す。


燃え盛る家々から上る黒煙が、魔族領の空を昏く染め上げていた。


暴力と絶叫の渦中、魔族の村のど真ん中に僕を含めて五人の人影があった。


「ガハハハ! 歯ごたえがねぇなぁ! もっといねぇのか!? 穢れた魔の眷属がよぉ!」


戦士ヴィクターの雄叫びが響き渡る。彼の振るう特大の戦斧が、逃げ惑う魔族の胴体を軽々と切断した。


血しぶきが彼の黒い鎧を濡らす。揺らめく炎が反射しその赤と黒が怪しく艶めいていた。


「ヴィクター、いい加減慎むのです。これは狩りではありません。神聖なる神への奉仕なのです。その下卑た哄笑は、御前での祈りを妨げます」


筆頭聖騎士であるゼーロットが、大盾を構えながら至って冷静に注意を促す。しかし、彼の持つ聖なる槍も、既に数え切れないほどの魔族の命を貫いていた。


「もたもたしてたら、逃げちゃうわ。殲滅するならさっさとしないと」


魔道士ガロアが魔族の足を氷魔法で凍らせる。動けない魔族に、まるで的当てのようにいくつもの火球を投げつける。炎上する魔族の断末魔が、煤に烟る空に響き渡った。


「神の御名の下に、不浄なる魔族を滅ぼす! 我らが正義の行いだ!」


僕たちの一行のリーダー、勇者ジャスティンは聖剣を高らかに掲げる。


ナスティリッチ教の教え。魔族と魔物は神が創りたもうたこの世界を汚す異端の存在。これを滅することは神への聖なる祈りであり、『善行』であった。


嘗ては僕もその教えを信じて疑わなかった。


教会で育ち、光魔法の才能を見出され、勇者一行に選出された。


それは人間としてこの上なく誇らしいことだった。世界を救う、聖なる戦いだと信じていた。


僕たち勇者一行は魔族領奥深くまで侵攻し、魔物、魔族とその集落を見つけるたび手当たり次第にそれらを狩り続けていた。


殆どの魔族は角が生えている以外は人間とあまり変わらない姿形をしている。殺すことに僅かに抵抗はあったが、奴らは喋ることも出来ず、何を考えているかもわからない獣だと教わっていた。


だが、魔族領の空気に晒され続けたからだろうか、


『痛い、痛い、誰か、助けて』


『なぜ、我らがこんな目に』


『お願いします、我が子だけは』


聴覚にではない、魂に直接訴えかけてくる声のようなものが、僕の頭の中に響いてくるようになったのだ。


耳を塞いでも、その声は響いてきた。頭の中に、精神に直接干渉するように、その絶叫は、断末魔は、人間のそれと全く変わらずに、いや、人間のそれよりもっと直接的に響いてきた。


「奴らは命乞いすらしない。ただ獣のような唸り声を上げ、同族の死体を貪るだけの穢れた存在だ」と、神父様が仰っていた。


魔族は声帯を持たないはずだ。この声は一体なんなのだ? 魔族の瘴気に当てられたのか?


その声は長い遠征の中で僕の精神を徐々に、だが確実に摩耗させていった。


どうやら他の皆の反応を見る限り、聞こえているのは僕だけのようだ。なぜ僕にだけ、こんなものが聞こえるのか見当もつかなかった。


僕は白魔道士だ。攻撃が得意な立場ではない。だから、絶叫を上げる彼らに直接手を下すことはなかった。だがそれは同時に、碌な抵抗もできずに惨殺される魔族たちを眺めることしか出来ないということでもあった。


まるで、椅子に縛り付けられて、肉を裂かれ、臓物を引きずり出される人間を眺め続けさせられているようだった。それは僕にとっても同じ痛みを伴う拷問でしかなかった。


勿論、これを彼らに打ち明けることは出来なかった。


以前、夜営の最中にそれとなくジャスティンに訊いてみたことがある。『魔族を討滅するときに、声のようなものが聞こえないか』と。


その時、彼は『我には聞こえない』と首を振り、同時に『大丈夫か』と僕の身を案じてくれた。


あの時、いや、今も、彼は仲間を思いやる優しきリーダーだ。


なぜ僕にだけ聞こえるのだろう、いつまでこの拷問に耐えればいいのだろう、立っているはずなのに、足に力が入らないような浮遊感が僕を襲う。皆が虐殺を遂行する姿だけが、やけにくっきりと映り、身も心も宙に浮いている僕と対象的に感じられる、そう思っていたときだった。


「イオ! すまん! 回復魔法を頼む!」


ヴィクターが僕に向かって叫ぶ。


彼の足元には、鉄の斧を持った魔族が上下に両断され倒れ伏していた。抵抗する魔族に手傷を受けたのだろう。


我に返った僕は、彼に向けて回復魔法を行使する。


僕が放つのは、仲間を癒やす光の魔法。ヴィクターの負った傷が瞬時に塞がる。


「ありがとなぁ!」


ヴィクターはこちらを向きニカッと歯を見せて笑う。


溌剌とした笑顔と対照的に、僕の心はこの天を覆う宵闇の黒より昏く沈んでいた。


「はあっ!」


ジャスティンの聖剣が閃き、抵抗しようとした魔族の首を刎ねる。首が舞い飛び、地面に落下し転がる。


返り血を浴びた彼の聖剣が、炎の光を反射して煌めく。


その姿は教会のステンドグラスに描かれた、神の威光を纏い、魔を退ける英雄そのものだった。


彼は聖剣を下ろす。軽く聖剣を振り、滴り落ちる血を振り払った。


「神の御業は滞りないな。これで不浄なる魂は浄化し尽くしたか?」


その時、瓦礫に隠れる小さな影を、彼の視線が目ざとく捉えた。


それは、まだ幼い魔族の子どもだった。倒壊した家の隅に身を縮こませるようにしている。恐怖に震え、必死に息を殺している。


『こわい。こわい。こわい』


「おっと、こんなところに生き残りがいたか」


彼はまるでいつも口にしている祈りの詩篇の呟くように言う。


子どもの魔族はびくりと体を震わせた。恐怖に体が支配されているのか何も出来ず、後ずさる。


『やめて。こないで。こわい』


彼は何の感傷もないかのように、それが当然かのように、魔族の子どもに向けて聖剣を振りかぶった。


「やめろ! ジャスティン!」


僕は思わず叫んでいた。


遅かった。振りかぶられた聖剣は子どもの頭に吸い込まれるように叩き込まれ、頭蓋を粉砕し、胴体を縦に両断していた。


ジャスティンは今聞こえた声を確かめるように、ゆっくりとこちらに顔を向けた。


「イオ、貴様、今何と?」


彼の目は大きく見開き、今聞いた声が信じられない、といった顔をこちらに向けた。


「私にも聞こえましたよ、イオ。今、ジャスティンに向かって、『やめろ』と言いましたよね?」


ゼーロットが追及するように近寄ってくる。重厚な兜で遮られて、彼の表情は窺い知ることができない。


「どうかしたの? 大丈夫?」


ガロアが不安そうに、心配するようにこちらを向いて言う。


「なんでこんな奴らに手心を加える必要があるんだぃ」


ヴィクターも困惑を湛えた表情でそう問うてきた。


ぐるりと四人から囲まれる。皆から見つめられ、言葉が詰まる。喉まで出かけた言葉が、僕の理性によって押し留められている。手が震え、額に汗が滲む。これは、言ってはいけないことだ。


しかし、聖剣に斬り裂かれる直前の子どもの絶望の表情が僕の脳裏をよぎる。その光景が、僕の理性の箍を打ち壊した。


「これはただの虐殺だ! 正義でもなんでもない!」


僕の絶叫は、既に日が落ちて、炎に赤く照らされるだけの漆黒の空に吸い込まれていった。


ジャスティンはゆっくりと僕に歩み寄ってくる。その瞳には、驚愕、困惑、猜疑、憤怒、様々な感情が浮かんでは消えていく。


「イオ。貴様は少し、この聖戦で感傷的になりすぎだ。頭を冷やせ」


ジャスティンの声はいつものように頼り甲斐のあるリーダーのそれだった。聖都サン・ナスティールを発ってから今まで、ずっと皆が背中を預け、信じていた声。だが、今の僕にはその声よりも、脳髄を直接かき回すような『声なき絶叫』の方が遥かに大きく響いていた。


その『声』が、僕の冷静な判断力を蝕んでいく。その『声』が持つ痛みが、冷たさが、僕を彼らから背けさせる。


「感傷なんかじゃない! 事実だ! 僕たちはずっと、何の罪もない命を奪ってきたんだぞ!」


僕の口からは堰を切ったように言葉が溢れ出す。その勢いのまま、僕は力の限り彼らに叫ぶ。


「罪がない? 魔族であるということが、罪そのものだ。それがナスティリッチ教の教え。世界の真理だ」


ジャスティンは子どもに教え諭すように落ち着いた口調で言う。


「そんなものが! 真理で! あっていいはずがない!」


「襲ってくる魔物はともかく、魔族は襲ってこない! 殆ど無抵抗と言っていい! そんな彼らを惨殺することを、君たちは何も思わないのか!?」


僕の言葉に、彼の顔から表情が消えた。


「貴様、もしや……」


「魔族に味方するというのか? ……それは、ナスティリッチ教に対する背信だということは、わかってるのだな?」


先ほどとは全く違う、地の底から響くような声が僕に突き刺さる。


射殺すような視線が四人から向けられているのがわかる。喉が一瞬で乾く。心臓が掴まれたかのように強張り、全身に力が入る。


「確かに、ここのところの貴様は何かおかしかった。戦場で何かを恐れるように怯え、魔族の死に顔に顔を歪めていた」


ジャスティンはゆっくりと僕に聖剣の切っ先を向ける。


「……勇者ジャスティンの名に於いて、イオを断罪するッ……!」


絞り出すような声が、彼の口から発される。その真っ直ぐな瞳には燃えるような憤怒と、刺すような憐憫が浮かんでいた。


彼の号令とともに、他の三人も武器を構えた。


「違う! 待ってくれ! 僕は君たちと話がしたいだけだ! 決して魔族に味方しているわけじゃない! 落ち着いてくれ!」


「魔族に与するなど、言語道断……。それは即ち、貴様もまた、我らが滅ぼすべき魔であるということだ……」


彼は自分自身を押し殺すように低い声で言う。


言葉が通じない。当たり前だ。この場で狂っているのは僕だからだ。彼らは、正しい。そう直感した瞬間に僕も反射的に身構えるが、既に遅かった。


足が凍りつき、地面に縫い付けられている。ガロアの魔法だ。これでは避けることもままならない。


その冷たさが僕の意識に登る前には既に僕の左脇腹に槍が突き立てられていた。


ゼーロットの槍は僕の体を何の抵抗もなく貫通し、脇腹が抉られる。


抉られた肉片が舞い飛び、脇腹から血が溢れる。


その一撃が肺の中にあった空気を全て押し出す。


熱い。呼吸が出来ない。


その感覚が体を駆け巡った瞬間、今度は右肩を途轍もない衝撃が襲う。


ヴィクターの戦斧が、一撃で僕の鎖骨を、肋骨を、肺を裂いた。


右肩から右脇腹までを一直線に両断され、右腕が胴体の一部とともに削ぎ落とされていた。


到底耐えきれない衝撃に思わず僕は膝をつく。


「さらばだ、イオ」


胸の中央に、聖剣が突き立てられる。もう既に僕の体は感覚の殆どを失っていた。

僕の体は仰向けに崩れ落ちる。


これが、死か。教義に抗った、罰か。


薄れゆく意識の中、いくつかの記憶が蘇ってくる。


嘗てジャスティンと背中を預けて戦った記憶。ヴィクターの致命傷を治癒し、深く感謝された記憶。ゼーロットと並んで神に祈りを捧げた記憶。ガロアと共に魔法の鍛錬をした記憶。


しかし、そのフラッシュバックも数瞬で終わりがやってくる。


崩れ落ちた体から零れ落ちた、生温かい血の感覚だけがある。何も聞こえない。何も見えない。


僕の意識は、そこでぶつりと途切れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る