第3話 残された妻 - 1980年秋

 聡美さとみはその後、精神に異常をきたした。


「夜な夜な、誰もいない部屋で会話をしていた。壁越しに聞こえてくるんです」


 隣人の証言である。


「おかえりなさい。今日はどうだった?」

「そう、楽しかったのね」

「ええ、私も早く行きたいわ」


 隣人が心配して覗きに行くと、聡美は一人で食事をしていた。

 でも二人分の食器が並んでいた。


 一つは普通の和食。

 もう一つは、


「洋介はそこにいるのよ。見えないの?」


 聡美は空席を指差した。

 その時、隣人には一瞬だけ見えた。

 椅子に座る、小さな影を。

 子供くらいの大きさの、輪郭のぼやけた影。

 それは箸を持つ仕草をし、泥を口に運んでいた。


 数ヶ月後、隣県の河川敷で保護された時、聡美は記憶の大部分を失っていた。

 結婚していたことも、夫の名前も忘れていた。

 ただ一つ、子供の歌だけを覚えていた。


「あーそーぼ、あーそーぼ、ひーとーりはいやよ」


 何度も何度も、嬉しそうに歌い続けた。


 そして時々、自分の体を見下ろしてこう呟いた。


「私、大きくなっちゃった。早く。みんなと同じくらいに」

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