読んだら終わり。編集者が発狂した「事故物件 秋津荘 201号室」全記録

椿 喜介

編集者による前書き

 俺の名前は書けない。

 書いたら、俺が誰だったか


 神奈川県湾岸部わんがんぶ

 表向きは「連続失踪事件れんぞくしっそうじけん」で片付けられた。

 警察も、メディアも、誰もが真実から目を逸らした。


 ――でも俺は知っている。

 あそこでを。


 二年間、この記録と格闘してきた。

 血まみれの日記、狂気に満ちた録音、判読不能はんどくふのうになった手記。

 読むたびに、俺の中で


 最初は仕事だった。

 編集者として、事実を整理し、真実を明らかにする。

 それだけのはずだった。


 だが、三ヶ月が過ぎた頃。

 が始まった。


 それは最初、仕事疲れから来る、些細な感覚の狂いだとしか思えなかった。


 深夜の編集作業中、指先が異常に乾燥し、微かに生臭いような

 魚の腐ったような臭いが部屋に漂っている気がした。


 その臭いは換気をしても消えず、資料に鼻を近づけると、さらに強くなる。


 記録を読み進めるうちに――幻聴が始まった。


 夜中、押入れから子供の笑い声が聞こえる。

 誰もいないはずなのに。


 鏡を見ると、自分の顔が一瞬だけ、知らない子供の顔に見える。

 泣いている子供。

 と口を動かしている子供。


 半年後、手の異変に気づいた。


 朝起きると、爪の間から透明な粘液ねんえきにじんでいた。

 洗っても洗っても止まらない。


 生臭い、池の匂いがする粘液。


 ティッシュで拭き取ると、極小の白い粒が混じっている。

 自分の皮膚の破片だった。


 記録を編纂へんさんしていると、自分の手が勝手に動く。

 書いた覚えのない文章が、ノートに記されている。


「みんな待ってる」

「一緒に遊ぼう」

「寂しい」


 ――俺の字じゃない。

 もっと幼い、子供の字。


 でも確実に俺の手で書かれている。


 一年が過ぎると、記憶が曖昧になった。

 自分の家族の顔を思い出せない。

 恋人がいたような気がするが、名前が出てこない。


 けれど、覚えていることがある。


 池の底で遊んだこと。

 手をつないで輪になったこと。

 みんなで歌を歌ったこと。


 ――俺はそんな経験をしたことがない。


 8歳の時、俺は東京に住んでいた。

 神奈川の池なんて知らない。


 なのになぜ覚えているのか。

 なぜ、あの冷たい水の感触を――

 指の間をすり抜ける泥の柔らかさを――知っているのか。


 先週、浴槽の水が青白く濁った。

 湯を張っただけなのに、水面に白い粒子が無数に浮遊していた。


 ――俺の体から剥がれ落ちた皮膚の破片だった。


 湯船に浸かると、全身の毛穴から泥水のような液体が滲み出してくるのを感じた。

 それは湯に混ざり、浴槽全体をに変えていく。


 

 そう思った。


 鏡を見ると、顔が少しずつ変わっている。

 目が大きくなり、輪郭が丸くなり――まるで子供の顔に戻っているような。


 首筋には薄い膜が張りついている。

 乾いた泥のような、灰色がかった薄膜。


 爪で引っ掻くと簡単に剥がれ、その下から赤黒い、湿った肉が露出した。


 でも他人は気づかない。

「いつもと同じですよ」と言う。


 変わっているのは俺だけなのか。

 それとも、俺以外のすべてが変わっているのか。


 現在、行方がわかっているのは高城美鈴たかしろみすずだけだ。

 秋津荘あきつそうの管理人。


 彼女に会いに行ったことがある。

 取材のつもりだった。


 彼女は俺を見て、嬉しそうに微笑んだ。

 子供が新しいおもちゃを見つけた時のような、純粋で残酷な笑顔。


「記録、進んでますか?」


 彼女はそう聞いた。


 俺が何をしているか、なぜ知っている?


「もうすぐですね。楽しみにしてます」


 何が“もうすぐ”なのか。

 ――俺には


 自分でも分かっていた。


 今夜、俺は秋津荘201号室に向かう。


 呼ばれている。

 記録の中の声に。

 子供たちの歌声に。


「あーそーぼ、あーそーぼ、ひーとーりはいやよ――」


 口ずさんでいる自分がいる。

 知らないはずの歌を。


 気がつくと、一日中この歌を歌っている。

 この前書きを書いている今も、手が勝手に動く。

 書きたくない文字を書かされている。


 指先から透明な粘液が滲み、キーボードを濡らす。


 髪を掻くと、数本、するりと抜ける。

 根元を見ると、毛根ではなく、透明な水が滲み出ている。


 もう俺は俺じゃない。

 ――でもまだ少しだけ。

 編集者だった頃のが残っている。


 以下の記録は、俺が集めた資料を、

 まだ“人間だった頃”の俺が整理したものである。


 読むな。


 いや、もう遅い。


 ここまで読んだあなたは、もう――


 編集者――

 (名前を書こうとして、手が止まる。文字が思い浮かばない。自分の名前が、もう思い出せない)


【発見記録メモ】

 上記文書は、2024年12月24日、神奈川県某所のアパート一室より押収。


 失踪した編集者の自宅PCから復元されたデータの一部。


 精神鑑定の結果、本人の筆跡および入力パターンと一致。

 ただし、内容に事実との整合性は見られず。


 以下の記録群は、同PCおよび秋津荘201号室より押収された資料を元に再構成したものである。


 ――神奈川県警 特殊事案調査班

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