終わった世界で、それでもあなたの隣にいたかった

@pengin333

第1話 この国はね、とっくの前に滅んでいるんだ

 とても長い夢を見ていた。そんな気がした。

 とても、とても、長い夢。

 ──誰かの声を聞いた気がした。

 言い聞かせるような声だった。優しくも厳しく、そして温かな声だった。

 ──誰かの声を聞いた気がした。

 拒絶の意味を含む言葉だった。だが、声色にそれは感じられない。扇情的なか細い声が紡ぐのは、控えめな嬌声だった。

 ──誰かの声を聞いた気がした。

 何かを非難する声だった。怒りに震え、我を忘れ、罵詈雑言を吐いている。

 罵声は、私に向けてのものだった。

 その時、私は何を感じていたのだろうか。

 悲壮ではなかった。怒りではなかった。

 そうだ、あの時の感情の名前を私は知っている。

 あれは、──憐れみ、だった。


 ◯●◯


 目覚めた意識が最初に捉えたのは、薪がぱちぱち弾ける音だった。

 冷たい風が頬を撫で、湿った土の匂いが鼻をつく。屋外にいることを悟った。

 ゆっくり目を開くと、満天の星が視界に広がった。

 音のする方へ顔を向けると、焚き火に枯れ木を投げ入れる少女の姿が映った。

 湿った土の上で屈み込み、火に息を吹きかけている。

 ボロ布のようなものを羽織った、白髪の少女だった。

 絵本から出てきたかのような整った顔立ちの少女。

 月の光に照らされて、透き通るように輝く白髪は、人の手で色を抜かれたものではなく、彼女が生まれながらにして持ち得たものであることを示していた。

 それに加えて、パッチリとした目に、外国人のように高い鼻。

 素直に羨ましいと思ってしまった。


(……私なんか──、ん? あれ? 私って)


 視線を焚き火に向けたまま、視界の端で気づいたのだろうか、彼女はこちらに声をかけてきた。


「ひー、起きたの? いつもより早いね。そんな早起きをしたひーに申し訳ないけど、バッドニュースが1件ございます!」


 彼女は、私の方に勢いよく振り向き、力強く焚き火を指さした。


「今焼いてるお肉でストック切れです! またお肉を探さないといけません!」


 戯(おど)けるように、よよよと泣き真似をする少女。

 彼女が指をさした焚き火の中には、薄く切られた肉が錆びた金網の上で焼かれていた。

 少し離れた位置には、2枚の薄いパンが置かれていて、申し訳程度に火に炙られている。

 ピクニックの黎明期のような、簡素なサンドイッチでも作ろうとしているのだろうか?

 そんなツッコミを口にする前に、私には気になることがあった。

 あの~、と愛想笑いを浮かべながら彼女に声をかけた。


「ん、どうしたの? いつもなら肉がなくなったら、ひー、意味もなく泣きわめくじゃん」


(そうだったのか? 私って、そんなワガママな奴だったのか? )


「……嘘だけど」

「嘘かい!」


 思わず叫んでしまった。

 私としたことが、はしたない、はしたない。

 気を取り直して、おそるおそる手を挙げながら尋ねた。


「ここは、その……どこなんですか?」

「え? どこって、そりゃ──」


 意図がうまく伝わらなかったことを察して、別の言葉を続けた。


「そ、そうではなくてですね。……その、あなたは、誰なんですか? いや、そもそも──」


 ──私は誰なんですか。

 そんな陳腐な言葉が、私の口から漏れ出た。


 □■□


「え〜っと、つまりは何? 私は記憶喪失なんですって言いたいの? 」

「そうなりますね、へへへ」

「何笑ってんの? 」

「よく分かんないけど、ごめんなさい! 」


 私が、自分の置かれている状況を伝えると、目の前の少女は露骨に態度を変えた。

 彼女が言うには、どうやら私はヒナタという名前らしい。そして、彼女の名前はサキだと語った。

 ほんの数分前までは、私に親しげに話しかけていた彼女はどこへやら、なんだかツンツンしていた。


「ね、ねぇ? 一応確認なんだけど、サキって──」

「呼び捨てやめて。ちゃんか、さん、で。と言うか、本当に記憶失ってるなら実質初対面だよね? 気安くない?」

「ごめんなさい! 距離感が分からなくて……」

「──チッ」


(舌打ちやめてよ! )


 思わず心の中で叫んでしまった。

 おかしい、ついさっきまで私のことを、"ひー"とあだ名で呼んでいたはずなのに。

 かなり親しい仲だったのかな、と思って、気を遣って呼び捨てをしたのに。してあげたのに。

 正直、記憶喪失の件もあってメンタルがもちそうにない。


「……あの、サキちゃん。サキちゃんってさ、私のことを嫌いだったりする?」

「…………………………うん」


(なぁんでだよぉおお。なんでメンタルボロボロのタイミングでこんなことを確認しちゃうのかな私!? てか何だよ、さっきの絶妙の間! )


 そんな彼女だが、最低限は人の心があるようで、焚き火で焼いていた肉の焼け具合を確認すると、それをパンで挟んで渡してきた。

 口元に持っていくと、食欲を刺激する香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、反射的にかぶりつく。

 ピクニック黎明期のサンドイッチ。先程は、そんな評価を下したが普通に美味しかった。

 野菜が欲しくないといえば嘘になるが、これだけでも充分過ぎる。

 挟まれている肉は、脂身がそこまでキツいわけでもないのに、柔らかく、奥深い味があった。肉自体に味がついているのだろうか。


「これって何のお肉なの? 美味しいね」

「人肉」

「──!」

「人工の肉。略して人肉」

「︿╱﹀╲/╲︿_!!!」


 声にならない声が出た。

 手が出るぞ。本当に。

 さすがに冗談だとは思ったが、初めて食べた味がしたので、もしかしての可能性がよぎってしまった。

 心臓に悪い。


「私を驚かしたいだけでしょ、サキちゃん」

「否定はしないかなー」


 間延びした話し方だったが、口角が少し上がっているのに気がついた。ほくそ笑んでやがるぞコイツ。

 うふふ、と控えめに笑う少女。

 改めて彼女を見て、思わずため息が漏れた。

 普通に顔が良過ぎる。

 てか、シンプルに可愛い。

 ここまで容姿が良ければ、男も女も選び放題なんだろうな、と。


(ん!?)


 そこまで思考が至ったタイミングで、私は気がついた。気がついてしまった。

 サキの顔に見惚れすぎていて気づかなかったが、彼女の服装がヤバ過ぎた。

 大きめのボロ布を羽織ってはいる。だが、その下って、え、着(つ)けてますか? 履(は)いてますか?

 体育座りをして、美味しそうにサンドイッチを頬張る彼女。

 ボロ布は確かに彼女のシルエットを隠せるほどの大きさではあるが、そこから出ている脚が、もう、そりゃ、え?

 目がチカチカしている私をよそに、サキは恍惚とした表情を浮かべながら咀嚼している。

 私の知らない間にファッション業界に良くない革命でも起きてしまったのだろうか、そもそも文明自体が一度滅んでしまった可能性すらあった。そうとしか考えられない。

 そのレベルの衝撃を受けた私は、ふと気になって視線を落とした。

 己の服装へと。

 数秒間の硬直。


「どうしたのあんた? いきなりボロ布に包(くる)まりだして」

「だっ、だ、だだだ、だって!」


 見事に裸だった。

 着(つ)けてもないし、履(は)いてもない。

 おそらくサキも同じなのだろう。

 途端に顔が熱くなり、手で仰ごうとした。だが、そうすると布がはだけてしまう。


「……え、何。もしかして、裸なの恥ずかしがってんの?」

「そ、そうですよ! 裸ですよ? 恥ずかしいに決まってるじゃないですか!?」

「あたしとあんたの仲なのに?」

「どんな仲だったか知りませんよ! てか、仮に親友だったとしても、この格好はさすがに恥ずかしいです!」

「親友じゃなかったよ」


 吐き捨てるようにサキは呟く。

 何か意味がありげだが、あいにくそこに気を使えるほど、今の私に心の余裕がない。


「じゃあ、なおさら無理ですよ! そもそも私たち、どんな関係なんですか? 親友以下ってことは、顔見知りとか? それとも実は昨日出会っ──」

「恋人」

「恋人ですか! それなら、まぁ、ん、んんん?」


 拝啓、助けてください。

 頭の頭痛が痛いです!

 どうやら、私かサキちゃんのどちらかの頭がおかしくなってしまった可能性が出てきた。

 さっき聞こえた言葉を反芻して意味を考え、念のために確認する。


「恋人って、あの恋人?」

「あんたとあたしで、恋人の定義がズレていなければ合ってるよ」

「私の知ってる恋人っていうのは、世界で一番大切な存在で、手をつないだり、キスしたりする人のことだと思っているんだけど」

「相違ないね」

「相違ないの!?」


 なんだか面倒な話になってきた気がして、頭を抱える。

 別に、そういう人たちをどうこう思っていたわけではない。

 何も思わないし、何も感じない、正真正銘の無。

 ただ、それが自分自身の話だとなると、少し変わってくる。

 改めてサキと顔を見合わせ、少し考える。


(いや、顔良すぎだろ)


 彼女の顔の良さは前述の通り。そんな彼女が私と恋人だと言ってくれた。

 嬉しいか嬉しくないかで言えば、めちゃめちゃ嬉しいし、付き合いたいか付き合いたくないかで言えば、めちゃめちゃ付き合いたい。

 こんな美少女と付き合っているという事実だけで、私のステータスが上がるような気がした。

 じっと見つめ合う二人。

 視界と意識をサキが占める。

 ふと気づくと、息がうまくできずにいた。鼻から息を吸うことはできるが、吐くことができない。

 いや、正確には少しは吐けているのだろうが、呼吸のリズムが合わず、まともな呼吸ができない。

 やがて、口の中の水分がすべて消え失せたかのように喉が渇く。

 必然的に喘ぐような呼吸になってしまった。

 顔が熱を帯び、全身に広がり、身体が火照りだす。

 そのタイミングで、どちらからともなく目を逸らした。


「あ、あのさぁ……、飽くまでも確認なんだけどさ」

「……何よ? 」

「さっき私のこと、嫌いって言ってたじゃん? あれってどれくらい本気だった? 」


 そっぽを向いたまま、サキは膝に顔を埋めていた。

 それでも隠しきれない耳は赤色に染まっている。

 綺麗な白髪が風に揺られて、赤くなった彼女の横顔があらわになった。


「あたしは、ヒナタのことが好き。嫌いな訳が無い。さっきのは冗談……」


 正面から好意を向けられ、頭が真っ白になる。

 友人としての好きではなく、恋人として好きだということ。

 出会って1時間も経ってない相手に何でとは思うが、踊り出してしまいそうなぐらい嬉しかった。

 こんな美少女が、私に恋をしてくれている。

 改めてになるが、本当に嬉しかった。とても嬉しい。幸せなことだとは思う。

 だが、果たして私は、彼女の好意に向き合える感情を持ち得ているだろうか。

 感情としては肯定したいが、実際問題それは無い。

 私が現状、彼女に向けている感情は、彼女が私に向けている感情と向き合うには不相応な感情だと思う。

 だから、私は──


「ごめんなさい、気持ちは──」

「だけどね!」


 私の言葉を遮るように、サキは大声を出した。

 何事かと思ったが、頬を紅潮させながらもこちらを睨みつけるサキの圧に負けて、発言権を譲ってしまう。


「あたしはヒナタが好きだけど、好きなのはひーであって、あんたじゃない! 」

「なっ……」

「てか、そもそも今ここであんたが『私も好き〜』とか言うなら、殺す覚悟がある。出会って1時間も経ってないような奴に心を許すようなバカに、あたしが恋をしている事実が許せないから、あんたを殺す」

「……め、めちゃくちゃすぎない?」

「うるさい! 黙れ! 喋るな!」


 とんでもない暴論だった。

 まるで騙し討ちされたかのような気分だ。

 菓子折りを持っていったら顔面を殴られたような、そんな感じ。

 少しムカッとする。


「わ、私だって、初対面の人に心を許すような安い女じゃないよ! 」

「うっそだぁ〜、あんた顔真っ赤だよ」

「これは怒り! 怒りで顔が赤くなってんの! そういうサキちゃんだって、耳まで真っ赤じゃん! 」

「はぁあああ!? 」


 と、まぁ、こんな感じで常にフルスロットルで叫び合ってた私たちは、ものの数分で充電切れを起こした。

 息を切らしながら、仰向けに地面に倒れ込んだ。


「はー、はー、疲れたぁ……。お腹も空いたし、喉も渇いた」

「あ、あたしも疲れた。さっき食べたはずなのに、身体がエネルギー不足を訴えてる」


 のっそりと身体を起こして、サキに水があるかと聞くと、彼女は私の背後を指さした。


「ちょうどいいじゃん。そこに水あるよ」

「え、この水たまりの泥水の話をしてる? 」

「そうだよ」

「飲めるか! 砂漠で遭難しているわけじゃないのに、こんな水は嫌だよ! 」


 ペットボトル飲料とか水筒とか、そういうものがないかと聞くと、彼女は心底驚いた顔で言った。


「泥水飲まないの? 泥水好きだったよね? 」


 この女は、私が記憶喪失なのをいいことに、とんでもないことをさせようとしてきた。

 記憶の捏造を試みるのなら、もう少し丁寧にしてほしい。


「……」


 おい、やめてくれ。無垢な表情で泥水をすくうな。両手で差し出してくるな。

 それを私の顔に近づけるな! やめてくれ! そんなかわいい顔をされても飲めないから!

 お願い、飲めないから! やめて! そんな澄んだ目で見ないで!

 無理だから! 絶対に無理だから!


 □■□


 彼女は渋々と言った感じで、隣に置いていた大きなリュックサックから水筒を取り出した。

 水筒と言っても、私たちが普段使いをしているような円筒形のものではなく、渋い色をした独特の形状のものだった。


「そういうの、映画か何かでした見たことないよ」

「あー、軍の人らが使ってるイメージでしょ」


 そうそうと首を縦に振ると、サキは怪訝な顔をした。


「……そういうのは、覚えてるんだね」

「ほんとだね、ごめんなさい」


 彼女が悲しそうに話す姿を見て、胸が少しチクリとした。

 罪悪感を抱かずにはいられなかった。

 私が逆の立場だったらどう思うだろうかと少し考えて、やめた。

 勝手に憶測して同情をするのは、なんだか彼女に失礼な気がしたからだ。

 飲み過ぎないように言われて、水筒を受け取った。

 蓋を開けて、水を少し飲む。

 喉がすぐに潤(うるお)い、呼吸をはじめとする自律神経が整っていくのを感じた。

 もう一口飲み、水筒を軽く振る。


「まだ少し残ってるみたいだけど、サキちゃん飲む? 」

「……いや、あたしは自分のがあるからいいよ」


 そう言って、少し大きめの銀色の筒を取り出した。

 特に装飾はなく、強いて言えば、ストローとは違う用途不明のホースが上部についた不思議なシルエットだった。

 自分が渡されたものより大きいものを後から出されて、少し思うところはあったが、黙っておくことにした。


「そういえば大事なことを確認し忘れてた」


「ん? 」と可愛らしく小首をかしげるサキ。

 なぜか吹き出しそうになり、軽く咳払いをしてから続ける。


「私たちって、実は遭難してたり、サバイバルか何かをしてたりするの? キャンプにしてはガチすぎるし、けっこう緊急事態な感じだったり? 」


 一瞬、呆(ほう)けたような表情をしたが、サキは納得したように膝を打った。


「……そういうことね」

「え、何が?」


 理解が追いついていない私を横目で見ながら、彼女は勢いよく立ち上がった。

 そして、私にサンダルを履くように言うと、手を差し伸べてきた。


「ついてきて。凄いもの見せてあげる」


 私がその手を取ると、彼女は力強く握って私を引っ張り、そのまま走り出した。


 □■□


 周囲の景色が徐々に明るくなってきた。

 どうやら私が目覚めたのは早朝だったらしい。

 陽が昇れば少しは暖かくなるかと思ったが、逆だった。朝露のせいか、肌寒さが一層強く感じられた。

 まだ薄暗い中、私はサキに引っ張られて山の中を駆けていた。


「ちょ、ちょっと待ってよ。このサンダルぶかぶかすぎない? そんなに早く走れないよ」

「あんたがそのサンダルを選んだんでしょ!」


 そう言って、こちらを振り返りもせず、ぐいぐいと私を引っ張るサキ。

 記憶を失う前の自分を呪いながら、転ばないように、サンダルが脱げないように、必死で彼女についていく。


「もうそろそろ見えるかな」


 どれほどの距離を走っただろうか。

 サキが突然立ち止まった。

 引っ張られていた私は勢いが止まらず、前のめりに倒れそうになったが、サキに支えられてなんとか耐えた。


「あ、ありがとう」

「どういたしまして」


 そう言うと彼女は手を離し、奥の方を指さした。


「もう少し奥に行ったら見えると思うよ」

「何が? 夜景とか? 」

「は? もう朝だけど」


 知ってるよ。ちょっとボケただけじゃん。

 さっきまでいい雰囲気だったから、つい調子に乗ってしまったかもしれない。

 先に進む彼女に追いつこうと、小走りで後を追った。

 獣道を通っていると思っていたが、進むにつれて人工的な道であることが分かった。

 足元の砂利が周囲のものと異なり、朽ちてはいるが木製の柵のようなものもちらほら見えた。

 やがて、コンクリート打ち放しの建造物が目の前に現れた。

 展望台か何かだろうか。横の錆びた階段から屋上に上がれそうだ。

 サキはすでに屋上にいたので、私も急いで階段に足をかけた。

 途端に、ガタンと大きな音を立てて、階段の床が抜けた。

 まだ一段目だったからよかったものの、もっと高いところだったらと思うと、顔が青ざめた。


「大丈夫ー? その階段、かなり錆びてるから、走ったら床が抜けて死ぬよ?」


 頭上からそんな声が降ってきた。

 先に言えや。

 おそるおそる一段ずつ慎重に足をかけ、高さ約10メートルの展望台の屋上にたどり着くまで5分ほどかかった。


「遅かったね」

「生きるか死ぬかの状況だったんだから、これくらい時間かけても許してよ」

「裏側にコンクリートの丈夫な階段があったよ。あたしはそっちを使った」

「先に言って!? 」


 一瞬、本当に殴ってやろうかと思ったが、けらけらと笑う彼女の顔を見ると、怒るに怒れなかった。

 サキはすっと私の背後に回り、両手で私の目を覆って目隠しをした。


「な、なに!? 」

「いーから、いーから」


 そう言うと、彼女は後ろから私を押してどこかへ移動させた。

 数歩進んだところで立ち止まり、私の肩に顔を乗せて耳元で囁く。


「あんたさ、学校について記憶はある?」

「うーん、通ってた記憶はあるけど、どこのどんな学校に通ってたかは思い出せないな」

「……そ、そっか。ならさ、今日、学校はあると思う?」

「え、何それ? どういう意味?」

「いーから答えて」


 彼女に促されて、少し考える。

 質問の意図は分からないが、現状、私たちは学校に行けない状態だということは何となく分かる。

 つまり、他の人たち、世間一般の日常を送っている人たちについての質問だろうか?

 ならば、答えは──


「普通にあるんじゃないの? 土日や休日とかじゃなければ」

「なるほどね……」


 弱々しい声が返ってきた。

 何か間違ったことを言ってしまったのだろうか。

 私が焦っているのを彼女が知ってか知らずか、目隠しが解かれ、眩しい光が目に入ってきた。

 おそるおそる目を開ける。

 そして、私は見た。


「…………え?」


 言葉を失った。

 眼前に広がるのは、荒廃した世界。

 倒れた高層ビル。朽ち果てた車。崩れた家屋。

 遠くで風が唸り、崩れたコンクリートの埃っぽい匂いが漂う。

 人類の栄華は消え失せ、殺風景な光景がどこまでも続いている。

 大勢の人々が生活していたであろう街に、今は生命の輝きは感じられない。

 色鮮やかだったはずの世界は、無彩色に塗りつぶされていた。


「……なに、これ? 」


 これじゃ、まるで──

 そうだ。かつて似た光景を見たことがある。

 実際に見たわけではない、ただ知っていた。

 遠い世界の、遠い過去の話だと、そう思っていた。

 ──戦争、という単語が脳裏をよぎった。


「やっぱり、そうなんだね」


 サキは納得したように呟いた。

 私の前に進み出て、荒廃した世界を背景に語りだす。


「君は5年前に起こった事件と、その後に起こった戦争を覚えてないんだね」

「戦争が、あったの? 」


 サキは自嘲するかのように笑い、背後に視線を向けた。


「あれは戦争とは呼べないものだったよ。他国の大義名分のためにそう呼ばれているだけ。何もできない無抵抗な人々の平和を終わらせるあの戦争は、──虐殺と言った方が正しいかもね」


 何も言えずにいる私を見て、彼女は何を思ったのだろうか、無理に作り笑いを浮かべて両手を広げる。


「さっきは意地悪なことを聞いちゃったね。──この国はね、とっくの前に滅んでいるんだ」


 私の恋人と名乗った少女は、そう語った。


「……原因は?」

「話すと長くなるから、また後で教えるけどね、簡単に言うと他の国のために犠牲にさせられたんだよ」


 何が何だか分からなかった。

 脳のキャパシティを超える情報が一気に押し寄せていた。

 発狂して叫びたくなる自我を抑えるために、目を閉じた。

 すると、誰かの声が聞こえた気がした。

 言い聞かせるような声だった。優しくも厳しく、そして温かな声だった。

 ──君が導くんだ。この国を、家族を守るために。だから、……すまない。後は任せた、と。

 記憶に無い声だった。

 だけど不思議と使命感が湧いてきた。


「私は、何を忘れているんだ……」

「しょうがないよ、変に気負う必要はないと思う」


 ぽつりと呟いた言葉を、サキは聞こえていたらしい。

 だが、私の意図した言葉とは別に意味で捉えてしまったようだ。

 彼女はそれに気付かずに話を続ける。


「なんか、思い出がごっそり無くなった感じがするでしょ? あたしはてっきりそういうエピソード記憶に欠陥があるのかと思ってたんだけど、もしかしたら5年ぐらい前からの記憶も無いのかもね」


 エピソード記憶についての知識は残っていた。

 要は今の私のように、"知識" はあるが、思い出が無い。こういったのを、エピソード記憶の喪失というらしい。

 皮肉が利き過ぎて、思わず鼻で笑ってしまう。

 どうやら私は、それとは別に5年程前からの記憶も無いそうだ。

 彼女が語った、事件も、その5年間の間に起こったことなのだろう。

 そして、その後の戦争も同様に。

 自分だけが何も知らないであろうこの状況に、逃げ去りたい衝動に駆られる。

 目的も行く当ても無い。ただ、襲いかかる途方もない無力感を忘れる、何かが必要だった。

 思わず顔を下げた私に、サキはゆっくりと近づき、大丈夫と声をかけてくれる。


「記憶はね、きっと取り戻せる」


 優しい声に釣られて、顔を上げた。

 慈愛に満ちた表情で、彼女は続ける。


「数多くの記憶喪失系の物語があるけど、大抵は記憶を取り戻してハッピーエンドを迎える。だから、あんたも──いや、ヒナタも大丈夫」


 力強く言い、私の手に触れた。

 向かい合って、彼女の右手が私の左手を持ち上げる。胸の高さにまでくると、器用に指を絡めて握りしめた。

 優しく微笑む彼女の表情は、どこか寂しげで、儚さを孕んでいた。


「幸い、5年前までの記憶喪失には心当たりがあるし、エピソード記憶の方についてもできることがあるかも知れない」

「え、そうなの?」

「うん、私はね、頭が良いからね」

「そんな気がしたけど、普通自分で言う? 」

「……事実だからね。私が頭が良いことは、絶対に忘れないでね」


 逆の手に触れ、同じように指を絡めるサキ。今度は手を持ち上げず、腰辺りの高さで握り合う。


「エピソード記憶はね、忘れてしまった記憶に関する物事を追体験することで、記憶を取り戻したという事例があるの」


 そう言って、不意に手を引かれた。

 身体がバランスを崩し、彼女の方へと倒れかける。


「───!」


 引き寄せられた私の唇に、サキの唇が触れた。

 事故かと思い、慌てて離れようとしたが、握りしめた彼女の手がそれを許さない。

 ただ唇を重ねる、静かなキス。

 少し乾いた唇の感触に一瞬たじろいだが、すぐにその奥の柔らかさに引き込まれた。

 喉の奥から静かに熱を感じ、艶めかしい吐息が漏れた。

 どれくらいの時間、唇を重ねていただろうか、顔の火照りが限界近くになったタイミングで私の唇は解放された。


「……どう? 何か思い出した」

「いや、特には」

「そっか」


 素っ気なく答えるサキ。

 申し訳無さで死にたくなった。

 まだ唇に残る感触を確かめるように、指で触れる。


「ドキドキした? 」

「ま、まぁ、そりゃ……」

「あたしもしたよ」


 彼女は快活にそう言うと、下から覗き込むようにして、再度顔を近づけてきた。


「また、いつでもしてあげるからね」

「──────っ!」


 今、自分自身がどんな顔をしているのか想像したくもなかった。


 □■□


「ヒナタとあたしはね、この1年、旅をしていたの」


 山を降りながら、サキは語った。


「だからさ、その旅路を辿っていったら何か思い出せたりしないかなって」

「なるほどね」


 悪くないと思った。

 はたから見ても合理的で、可能性のある選択だと思う。

 彼女はその場で私の方に振り向くと、手を差し出した。


「改めてになるけど、よろしくねヒナタ」

「うん、こちらこそよろしくねサキちゃん」


 その手を握り返し、また歩みを進める。

 正直、戸惑いの感情が強い。

 記憶喪失の件もそうだが、彼女が私に向けてくれている感情についてもだ。

 あえて言うのもあれだが、現状私は彼女に恋愛感情は抱いていない気がする。

 いい人であることは分かる。

 好きだと言ってくれて嬉しかったし、キスもされてドキドキした。

 これが恋愛感情だと考える人もいるだろうが、私にはできない。

 少なくとも、彼女が私に向けている感情とは不釣り合い。その感想は変わらない。

 けど、好きになる努力はしてもいい。

 その程度は思っていた。

 私と彼女の旅路。その復路。

 この旅の果てに私は、記憶を取り戻せるのだろうか。

 彼女の気持ちに応えられるのだろうか。

 今は何も分からない。

 ただ始まったばかりの旅に、不安ばかり抱いていても仕方がない。

 気持ちを切り替えて、彼女の横顔を見た。

 そして、目を閉じる。

 すると、誰かの声が聞こえた気がした。

 拒絶の意味を含む言葉だった。だが、声色にはそれを感じられなかった。

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