【未来創作論争2】魂のプロンプトエンジニアリング〜続・アルゴリズムは神託を告げない

ちはやボストーク

第一章 亡霊の残響

その部屋は、思考の臓腑を裏返したような場所だった。


壁という壁は、巨大な相関図で埋め尽くされている。無数の付箋と、乱暴に書き殴られた単語、それらを結ぶ神経線維のような線。


結城栞ゆうきしおりにとって、書くという行為は、生存に不可欠な生理現象だった。内側から絶えず湧き上がり、出口を求めて精神を圧迫する思考の奔流。それを文章という形にして体外に排出しなければ、彼女は正気を保てない。その切迫感だけが、彼女を執筆へと駆り立てる唯一の衝動だった。


思考が行き詰まると、彼女は決まって書棚に手を伸ばす。部屋の片隅を占めるその一角は、大叔父が遺した古書の匂いで満たされていた。マイナーな詩人、忘れられた作家たち。栞は一冊を抜き取り、そのページのインクと古紙が混じり合った匂いを、儀式のように深く吸い込む。情報の原液に触れるような、神聖な感覚。それは、言葉の輝きを誰よりも愛した大叔父の魂の、微かな残響に触れる行為でもあった。


その静寂を破ったのは、旧式のインターフォンの掠れた呼び出し音だった。


栞は顔をしかめる。不快なのは、来訪者の存在だけではない。単純な矩形波であるはずの電子音が、経年劣化で高周波のノイズを撒き散らしている。彼女の耳には、その不協和音の成分比率が、不快なグラフとしてリアルタイムに「見えて」しまうのだ。

モニターに映っていたのは、深い皺の刻まれた、見知らぬ老人だった。


鷲崎巌わしざきいわおは、その住所が記された紙を握りしめ、古びたアパートの前に立っていた。 数日前、国内最大の小説投稿サイト『NEXUS』のシステムが、彼の注意を引くアラートを発した。AI評価は平均点。だが、その凡庸なスコアとは裏腹に、文章の構造解析データに、ありえない特異点が検出されたのだ。鷲崎は職権を濫用し、そのテキストを自身の端末に転送させた。


画面に表示された文章を読んだ瞬間、鷲崎は息を呑んだ。 これは、ただの文章ではない。意図的に仕掛けられた論理の飛躍、異常なまでに精密な比喩の構造。それは、50年前、季刊誌『不羈』に投稿してきた一人の若者――ペンネーム『アシンメトリー』だけが使った、あまりにも独特な「指紋」だった。


数年前にNEXUSを震撼させた初代『No-Face』の正体が、あの『アシンメトリー』であったことを知る者は、今や鷲崎をおいて他にいない。そして今、初代と寸分違わぬ「指紋」を持つ、新たな書き手が現れた。


「……亡霊、か」


鷲崎は呟いた。半世紀の間、心の奥底で悔いとして燻り続けていた炎が、再び燃え上がるのを感じていた。彼はNEXUSに再度圧力をかけ、投稿者の個人情報を照会させた。権力を私的に使うことへの罪悪感など、なかった。これは、50年越しの問いを、その亡霊に叩きつけるための、最後の巡礼なのだ。 表示された住所と『結城栞』という名を見た時、鷲崎は全てを悟った。結城。それは、あの若者の姓だった。


「壮観だな。これだけの紙の本は、もう美術館でしか見られんと思っていた」


部屋に通された鷲崎は、壁の相関図には一瞥もくれず、書棚に目を奪われていた。


「10数年前のアレでね、都内の取次も倉庫も、みんなやられてしまった。もう、我々のような古い人間しか、言葉に宿る筆者の息遣いや、ページの重みに込められた思索の跡といったものを、身体で覚えとらんのかもしれんな」


その言葉は、単なる懐古趣味ではなかった。大震災による強制的なデジタル化の推進。物理的な喪失感という、悲劇的な裏付けを持つ響きだった。 やがて鷲崎は、壁の異様な図に視線を移した。


「これは……一種の設計図か? 君の頭の中は、いつもこうなのかね?」


鷲崎の問いに、栞は壁の一点を指差した。そこには『共感のインフレーション』と書かれた付箋があった。


「先日聞いた、テレビのコメンテーターの発言です。『被害者の気持ちを考えると胸が張り裂けそうだ』と。ですが、彼の声のトーン、話す速度、使用単語の選択……あらゆるデータを分析すると、感情の含有率は7%未満。残りは自己演出と定型句。こういう、誰もが見過ごす論理の瑕疵が、私にはエラーコードのように見えてしまう。この図は、そのエラーをデバッグするためのものに過ぎません」


鷲崎は感嘆の息を漏らした。そして、彼の目は、栞の背後にあるモニターに吸い寄せられる。そこに表示されていたのは、膨大なテキストデータと、それを解析する自作のプログラムらしきウィンドウだった。


「君も……AIを使って書いているのかね?」

「いいえ」


栞は静かに首を振った。


「これは壁の図と同じ、デバッガーです。自分の文章を客観的に解析し、意図しない感傷や論理の破綻がないかを確認しているだけ。AIに書かせるなど、他人の消化液で栄養を摂るようなもの。思考のプロセスこそが、私の唯一の栄養なのに」


鷲崎は、目の前の若い女性の姿に、50年前の青年の面影を重ねていた。


「面白いことを言う。今の作家は、誰もがAIという栄養剤に頼りきっているというのに」

「彼らは『創作』をしているのではなく、『正解』を検索しているだけです。だから、今の文芸界は『創作デフレ』に陥っている」


その言葉に、鷲崎は確信した。この娘は「本物」だ。


「君にとって、書くとは一体何なのかね?」


問い詰められた栞は、少しの逡巡の後、顔を上げて答えた。その瞳には、自らの業を告白するような、切実な光が宿っていた。


「……排泄、です。私にとって書くことは。思考を止めると、言葉が腐って、内側から圧迫してくる。……いわば、『言葉の便秘』、とでも言うべき状態になるんです」

「言葉の、便秘……」


鷲崎は戦慄していた。その悍ましくも的確な語彙の選択に、目の前の才能が、常人の理解を遥かに超えたものであることを思い知らされた。彼は、半世紀分の覚悟を決めて、口を開いた。


「君のその才能、世に問うてみる気はないかね。君の大叔父が、そして数年前に彼自身が再び世界に問いかけた、あの名で。…『No-Face』の名で」


鷲崎に促されるまま、栞は作品をNEXUSに投稿した。作者名は、No-Face。反響は、ほとんどなかった。AIによる評価スコアは平均点をわずかに上回る程度。無数の作品の中に埋もれ、誰の目にも留まらないはずだった。


だが、違った。


数日後、栞の作品に、いくつかの的確すぎるコメントが付き始めたのだ。名乗りもせず、ただ鋭利な分析だけを投げつけてくる匿名の読者たち。「アーキビスト」と自称するそのコミュニティは、旧来の権威に懐疑的で、AIが生み出すスモッグの中から「本物」を見つけ出す鋭い審美眼を持つ第三勢力だった。


『この文章には、数年前に現れた初代No-Faceと同じ「指紋」がある。だが、明らかに筆致が違う』

『初代がAIを試すための哲学的な問いだったとすれば、こいつはもっと内的な、魂の構造そのものを文章にしようとしている』

『言葉の音韻への執着が異常。作者は単語を音のコレクションとして捉えている節がある』

『後継者か? それとも、全くの別物?』

『どちらにせよ、これは「本物」だ。AIが生み出すスモッグの中から、また一つ、星が見つかった』


栞は、画面に表示されたコメントを前に、凍りついていた。「理解された」という喜びよりも先に、自分の内面を裸にされ、解剖台に載せられたような恐怖と戸惑いが、彼女の全身を支配していた。鎧の内側にある、誰にも触れられたことのない柔らかな部分を、名も知らぬ他人の言葉が直接撫で回しているような、冒涜的な感覚。


それは、彼女が新たな世界の入り口に立ったことを示す、不気味な祝砲だった。 亡霊の残響が、半世紀の時を超えて、再び世界に響き渡り始めていた。(第二章に続く)

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