第5話 王都の絶望と聖なるパン
王都は、かつての面影を失っていた。
高くそびえる城壁には無数の傷跡が走り、門前広場には負傷兵が溢れている。
かつて華やかな市街を彩った露店は閉ざされ、商人たちの声は消え、ただ呻き声と泣き声だけが石畳を這っていた。
馬から降りた途端、鼻を突くのは血と薬草の匂い。
私の胸がきしんだ。
これが、勇者パーティーが守るはずだった国の姿なのか。
「……ひどいな」
風の精霊ミルが肩で囁く。
『だから呼ばれたんだよ。ここには癒やしが足りない。あなただけの“焼き”が必要なの』
◆
騎士団に案内され、私は王城の一角へ通された。
かつて仲間たちと共に作戦会議を重ねた、広間――。
そこに立っていたのは、王国宰相シグルド。長い銀髪を束ね、痩せた顔に深い隈を刻んでいる。
彼は私を見て、深く一礼した。
「聖なるパン職人レオン殿。遠路よくぞ参られた。王国は今、魔王軍の猛攻により存亡の危機に瀕している。兵は倒れ、祈祷師は枯渇した。どうか……あなたの力で兵たちを支えていただきたい」
「俺は勇者じゃない。ただのパン屋だぞ」
「承知の上です。ですが、そのパンこそが今の王国に必要なのです」
その時、広間の扉が勢いよく開いた。
赤いマントを翻し、見慣れた顔が現れる。
勇者アルド。
かつての仲間であり、私を追放した張本人だ。
「……レオン」
その声に、胸の奥が凍りついた。
背後には聖女マリア、宮廷魔術師ザイラスの姿もある。
三人の顔には疲労と後悔が刻まれていた。だが、私を見る瞳には複雑な色が混じる。
「レオン……すまなかった。俺たちは間違っていた」
アルドの拳が震えていた。「おまえを役立たずと決めつけ、追放した。だが……今や兵たちはおまえのパンを求めている。どうか、共に戦ってくれ」
私は黙ったまま、彼らを見据えた。
追放の夜、突きつけられた冷たい言葉。
その痛みは、今も消えてはいない。
◆
「……戦う? 違うな」
「な、何……?」
「俺は剣を取らない。勇者には戻らない。俺がするのは、ただパンを焼くことだ」
私は窯の準備を始めた。
騎士や兵士たちが目を丸くする。
粉を捏ね、水を混ぜ、塩をひとつまみ。
ミルが風を送り、生地に優しく息を吹き込む。
やがて焼き上がったのは――癒やしの白パン。
焼き色は淡く、ふんわりと柔らかい。裂けば湯気と共に、草原を渡るような清らかな香りが広がる。
「これを、負傷者に」
私は白パンを籠に積み、兵たちへ差し出した。
傷を負った兵士が一口齧る。
瞬間、蒼白だった顔に血色が戻り、呻き声が途切れる。
兵舎に歓声が広がり、次々と手が伸びた。
「痛みが消えた!」
「立てる、また戦える!」
「これが……聖なるパン……!」
◆
その光景を見て、マリアが涙を流した。
「レオン……あなたは本当に、神に選ばれたのね……」
「違う。神じゃない。精霊と、この窯と、そして俺の手が焼き上げたんだ」
ザイラスが唇を噛む。
「魔法でも癒せぬ傷を……パンが癒すとは。皮肉なものだな」
アルドは拳を握り、うなだれた。
「俺たちが切り捨てた“役立たず”が、今や王国の希望だなんてな……」
私は静かに告げた。
「おまえたちを恨んでいるわけじゃない。ただ――俺はもう勇者じゃない。ただのパン屋だ。それを忘れるな」
◆
その夜、王都の広場には久しぶりに笑い声が戻った。
兵士も民も、私の焼いたパンを分け合い、希望の灯を取り戻していた。
けれど、空を覆う雲はなお黒い。
遠くの地平線に、魔王軍の炎が赤く揺れている。
『ねえ、レオン』ミルが囁く。
『パンだけで、どこまで抗えると思う?』
「わからない。だが、やってみせるさ。剣で守れないものを、パンで守る」
私は夜空を仰ぎ、強く心に誓った。
追放された勇者ではなく、聖なるパン職人として――。
👉 次回「第6話 魔王軍の影、迫る」
王都に押し寄せる魔王軍の大軍。パン職人レオンは、兵士たちを立ち上がらせる新たなパンを焼く――!
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