白き血の契り

彼辞(ひじ)

白き血の契り

 野川の流れは、昔日の面影をかすかに残していた。成城の町がすっかり住宅地と化した今、川辺の草むらだけが取り残されたように緑を茂らせている。そこに、古びた社が一つ、ひっそりと佇んでいた。


 私は夢のなかでそこへ足を踏み入れていた。鳥居は朽ち、注連縄は切れかかっている。それでも結界の力は濃く、足を踏み入れた瞬間に空気がひやりと変わるのを覚えた。


 境内の隅に生えた山椒の木の枝が、不意に私の腕を引っかいた。鋭い棘が肉を裂き、右腕に走る痛み。だが、傷口から流れたのは赤い血ではなく、乳白色の汁だった。まるで樹木を折ったときに滲む樹液のように、ねばり、白濁し、腕を伝って滴り落ちる。


「危ない!」


 慌てて駆け寄ってきたのは、神主の装束を纏った男だった。年齢も顔立ちもぼんやりとして掴めない。けれど彼の手つきは確かで、私を抱えるようにして境内の奥へ連れていった。


 そこにあったのは奇妙な祭壇だった。木の柱を組んだ檻のような枠組み。その奥は、外界とは隔絶された木造の住居空間へと続いている。畳が敷かれ、梁が走り、しかし人の気配は一切ない。時間が止まった家。


「ここなら治せます。だが……決して振り返ってはいけません」


 神主はそう告げ、私を檻の前に座らせると、低く祈祷を唱えはじめた。


 背後で、何かが蠢いた。

 生温い息が首筋を撫でる。獣の臭い、毛皮と血の混じった匂い。思わず身をすくめる。


「振り返ってはならぬ」

 神主の声は祈りに混じって幾度も繰り返される。


 気配は近づき、私の傷口に舌が触れた。ざらりとした熱い舌が、白い血を舐め取り、じゅるりと音を立てる。痛みはすっと引いていった。


 熊だろうか。犬だろうか。姿を見ずとも、獣の存在は圧倒的だった。

 私は息を止め、ひたすら耐えた。


 やがて声がした。

「代償を寄越せ」


 腹の底から響くような、濁声。


「嫁の命をよこせ」


 即座に拒んだ。


「ならばおまえの寿命を」


 提示された年数は不釣り合いだった。私は首を振った。


「では、これから生まれる子の命を」


 胸が軋んだ。だが、それも拒んだ。


「では……」


 獣の声は途切れ、後は何を要求したのか覚えていない。ただ、何かを差し出し、確かに契約が結ばれた感触だけが残っている。


 目を覚ますと、汗に濡れていた。右腕には傷跡もなく、ただ鈍い痺れが残っているだけだった。


 ——あれは夢だったのか。


 そう思った瞬間、胸の奥底から冷たい直感が湧き上がった。

 あれは母の念だ、と。

 結婚に反対し続ける母の思いが、呪いのように形を変え、私を絡め取ったのだ、と。


 私は布団の上でしばらく震えた。

 誰も犠牲にしないと誓った。けれど代わりに差し出したものが何か、まだ思い出せない。もしかすると、それは「母に従う私」だったのかもしれない。あるいは「家の掟」。あるいは——。


 ふと、背後に気配を感じた。

 振り返ってはいけない。

 あの声が蘇る。


 私は前を向いたまま、目を閉じた。

 白き血の痕はもうない。それでも、確かに何かは舐められ、契約は交わされた。


 そして今もなお、私の背後では、獣の息遣いが絶え間なく続いている。

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