砂漠に咲く蓮の花
那月 結音
第一話:砂漠の月虹
冷えた砂の上を、夜風が渡る。
至る所に砂嵐の爪痕が残る砂漠地帯。その虚空には、まるで奇跡のように澄んだ光景が広がっていた。
乾ききった大地を見下ろすかのごとく浮かんだ満月が、天に淡く七色の弧を描く——月虹。
イェシムは足を止めた。
褐色の肌に、ひとつに束ねた黒髪。曲刀を腰に佩いた壮年の彼は、このあたりでは名の知れた傭兵である。
「……おいおい。まさか死んでるんじゃねぇだろうな」
数多の戦火をくぐり抜けてきた炯眼が、砂の中にひとつの影を捉えた。
影は人の形をしていた。嫌な予感が胸をかすめたが、過酷なこの地においては、悲しいかな珍しくはないことだ。
足音を忍ばせ、ゆっくりと歩を近づける。そこには、ローブを纏った白い肌の少女が、砂にまみれて横たわっていた。
意識はない。だが、その胸は、かすかに上下していた。
「生きてるな」
イェシムは肩をすくめると、少女の身体を抱き上げた。
年の頃は十代後半だろうか。腰まで伸びた黒髪は濃藍色につやめき、胸元では、花を象ったペンダントが月明かりを受け、ひっそりと輝いている。
ほかにも高価な装飾品がいくつか散見されたが、イェシムの目にひときわ強い印象を与えたのは、ローブの左胸に着けてある金のブローチだった。
「マジかよ……」
できることなら関わりたくはない。しかし、このまま放置しておけば、確実に少女は死ぬ。
月虹に向かって、ため息をひとつ。
覚悟を決めたイェシムは、ここから程遠くない岩陰にある洞窟を目指した。
少女が目を覚ましたのは、それから数時間後のことであった。
❈
「……う、ん……」
「気がついたか」
パチパチと爆ぜる小枝の音に混じって、イェシムの声が低く響いた。
たき火の炎に照らされた端正な顔立ち。彫りの深い目元に嵌め込まれた翡翠色の双眸が、少女をまっすぐ見つめる。
「ここはお前が倒れてた近くの洞窟だ。砂漠じゃ、こんな場所が命綱になる」
少女はぼんやりとイェシムを見返し、それから自分の置かれた状況を把握すると、慌てて上体を起こそうとした。……が、すぐさま眩暈に襲われ、湿った土にぺたんと両手をついた。
「無理すんな。まだ水もまともに摂ってねぇんだ。ほら、これ飲んどけ」
差し出された水筒を、少女はおずおずと受け取る。謝意を伝え、躊躇いがちに唇を潤すと、イェシムにこう問いかけた。
「あなた、は……?」
「俺はただの傭兵だ。イェシムって名で通ってる。……お前は?」
少女の眼差しが、不安定に揺れた。
痩せてはいるが、少女はあまりに麗しかった。硝子細工のように繊細な輪郭。夜空に散らばる星辰を思わせる瞳。儚さと静けさを湛えたその容貌は、おそらく見る者すべてを惹きつける。
名乗ることに多少なりとも逡巡していた様子の少女だったが、ややあって、掠れた声で、しかしはっきりと告げた。
「……リンファ、です」
「リンファ……東方の名前だな」
少女は、はっとして目を見開いた。
「なんだ、当てられて驚いたか? このあたりじゃ珍しい響きだ。旅商人くらいしか使わねぇ。……お前、東から来たのか?」
この質問に、少女——リンファは、首を横に振ることも縦に振ることもしなかった。
「戻る気は?」
今度は迷わず横に振る。その表情は、明らかに怯えていた。
「そうか。……ま、詮索するつもりはねぇよ。俺はただ命を拾っただけだ」
たき火の炎が、洞窟の壁にふたりの影を映し出す。
少女の影は、まだ小さく揺れていた。
「今夜のうちに町まで移動する。お前目立つからな。……それに」
イェシムはリンファの胸元にぶら下がったペンダントをちらりと見やった。
「そんなきらきらしたモン着けてふらふらしてると、いつか誰かにマジで攫われるぞ」
アマリリスの花を模した精緻な彫刻。ところどころに嵌め込まれた透明な石は、純度の高い水晶だ。
トップの部分に指を添えながら、呟くようにリンファが言う。
「これは……母の、形見なんです」
「だったら、なおさら隠して持て。……いいか。どこの箱入り娘か知らねぇが、ここは砂漠だ。素性の割れた善人ばかりじゃねぇ。俺は剣で食ってるが、お前みたいな無防備な奴がうかうか立ち入っていい場所じゃねぇんだよ」
空気が、音もなく軋んだ。
肌を切るような冷たさに言葉が沈殿する。息すらできないほどの緊張感に、リンファの背筋は凍りついた。
不意に。
「……とまあ、面倒くせぇ説教はこの辺にして、そろそろ行かねぇと」
直前まで張りつめていた空気が、にわかにほどけていく。
イェシムは、おもむろに立ち上がると、ぐぐっと身体を伸ばした。座っているときは気づかなかったが、かなりの長身だ。
そうして手のひらをリンファの頭にぽんと乗せると、にっと笑って優しく撫でた。
「夜が明けるまでにここを抜ける。砂漠の昼は灼熱地獄だからな。……幸い、今夜は満月だ」
触れられた箇所から、柔らかい熱がじわりと伝わる。その瞬間、リンファは胸にあかりが灯るのを感じた。
見上げれば、なおも月虹の架かった満月が、空一面を照らしていた。
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