死神少女と魂の天秤
Yozakura
プロローグ
夜の帳が降りた美浜町は、光の海だった。
男は、かつて自らが設計に携わった高層ビルの最上階、その静寂のただ中から、眼下に広がる煌めきをじっと見下ろしていた。
車のヘッドライトが織りなす光の帯は、さながら都市の血管だ。その一本一本が、名も知らぬ誰かの営みを乗せて脈打っている。家路を急ぐ父親、恋人と寄り添う若者、友と笑い合う学生。その一つ一つの光の中に、ありふれた幸福と、ささやかな祈りが満ちているのだろう。
美しい、と彼は思った。
だが、その網膜に映る光景は、彼の心を少しも温めはしなかった。むしろ、その美しさが彼の内なる空洞を、より一層冷たく際立たせるだけだった。
彼は知っている。このきらびやかな夜景という名の薄皮一枚を剥げば、その下にはどれほど醜悪な
この町の繁栄は、忘れ去られた者たちの犠牲の上に成り立っている。そして、彼が愛した全ては、その礎として無残に奪われた。
ガラス窓にそっと額を押し付ける。伝わってくる無機質な冷たさが、凍てついた彼の心臓の感触によく似ていた。
瞼を閉じれば、今も鮮明に蘇る。あの日の絶望と、耳の奥で木霊し続ける声。そして、己の正義の訴えを嘲笑し、利益のために真実を捻じ曲げた者たちの顔。彼の叫びは狂人の戯言として葬られ、社会という名の濁流から、彼は完全に抹殺された。
だが、それは終わりではなかった。絶望の最果てで、彼は新たな「天命」を授かったのだ。
「お前たちは、何も知らない」
静寂に溶けた呟きは、誰に聞かれることもない。その声には、もはや怒りも悲しみもなかった。あるのは、すべてを達観した者の、底なしの静けさだけだ。無知と傲慢を積み上げてこの町を飾り立てた者たち。その犠牲の上に安寧を貪り、偽りの平和を享受する者たち。彼らは皆、等しく共犯者なのだ。
ゆっくりと顔を上げると、ガラスに映る自分の顔は、月の光を浴びて青白く、まるで死人のようだった。だが、その瞳の奥には、消えることのない業火が揺らめいている。かつて未来の光を宿していたはずの
彼はポケットから、掌に収まるほどの小さなデバイスを取り出した。余計な装飾を一切排した、黒く滑らかな筐体。だが、その内部に秘められた力は、この光の海を永遠の闇に沈めるには十分すぎるものだった。
デバイスの表面に刻まれた、一つの文字――『零』。その冷たい感触を、彼は指先で確かめる。
「間もなく、すべては反転する」
彼の視線は、再び眼下の夜景へと注がれる。だが、彼が見ているのは、もはやこの光景ではない。彼の脳裏には、既に未来の美浜町が鮮明に描かれていた。
断ち切られた交通網。孤立した陸の孤島。鳴り響くサイレンと、絶望に染まる人々の悲鳴。光と闇が、生と死が、真実と偽りが、本来あるべき姿へと反転する、祝祭の光景が。
今この瞬間も、人々は何の疑いもなく、明日が今日と同じように訪れると信じ、眠りについているだろう。その当たり前の日常が、どれほど脆く、どれほどの代償の上にあるのかも知らずに。
彼は、この町が抱える全ての罪を暴き出す。そのために、彼は人間であることを捨てた。もはや、彼の心を揺さぶるものは何もない。残されているのは、ただ一つ、絶対的な使命感だけだ。
デバイスを一度ポケットにしまい、代わりに胸の内ポケットから一枚の写真を取り出した。色褪せかけた写真には、幸せそうに微笑む妻と、その腕に抱かれた幼い娘が写っている。
親指の腹で、そっと妻の頬をなぞる。守れなかった温もり。救えなかった未来。どうしようもない後悔の念が、鈍い痛みとなって胸を締め付けた。だが、その痛みはすぐに、眼下に広がる光への憎悪へと変貌する。この偽りの繁栄が、この輝きが、お前たちを奪ったのだ――。
写真を胸に戻し、再びデバイスを強く握りしめ、男は夜空を見上げた。満月が、まるで巨大な瞳のように、地上を見下ろしている。それは、彼の決意を祝福するかのようでもあり、あるいは、これから始まる狂宴の開幕を告げているかのようでもあった。
「さあ、始めよう。裁きを下す時が来た」
その言葉を合図に、美浜町の夜景が、彼の視界の中でゆっくりと歪み始めた。彼の心が、この町に訪れるべき終焉の姿を、既に幻視しているからだ。
この美しい光の海が、やがて漆黒の絶望に飲み込まれる様を、彼は誰よりも早く、そして誰よりも深く、知っていた。
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