百キロ先のいつもどおり

クソプライベート

風に負けない骨

「ピッ、ピッ……ピー」。二短一長が、今朝はしつこい。

 窓の外、通勤ラッシュが一斉に浮いて――見事に舞った。ビルの谷間から背広が百枚、紙ふぶきみたいに。信号待ちの自転車は列を成して水平移動、交差点の真上でスピンしても、着地すればチェーン直してそのまま出社。人間は、頑丈だ。




 俺は黄色いビニール傘を開く。骨は強化カーボン、外側に一センチ刻みの目盛り。柄には油性ペンで「百キロ=一周」。相棒だ。

 市役所の無線が鳴る。「商店街、連鎖発生!」

 現場は週末セールののぼりが林立。八百屋のミカン箱が宙を泳ぎ、店主は箱ごと軽やかにパルクール着地。寿司屋の大将はシャリを握ったまま二回転、戻ってくるなり「空輸だ、今日のは軽いぞ!」と笑った。笑う余裕がある。人間は頑丈だ。


 体育館では新学期。跳び箱十段のコースが、いつのまにか「百キロ対策サーキット」に改装済み。マット、網、ビニールプール。吹っ飛んだ生徒が網でトランポリンみたいに弾まれ、靴を拾って整列。先生が出席簿にさらっと書く。「はい、佐伯くん――安全着地、出席」。

 公園では、おばあちゃんがふかふかの布団にくるまってベンチで日向ぼっこ。孫が言う。「ばあば、今日はどっち?」

「南南東。ひなたはこっちよ」

 おばあちゃん、ふわりと上昇。百キロ先の温泉街に着地して足湯、夕方の便で戻ってくる。たぶん回数券を持っている。


 午後、臨港緑地で「全国一斉ふっとび訓練」。俺たち広域帰還支援課は、黄色い傘の無料貸し出し。柄のゼロに親指を置いて、風上三歩。合図は例の二短一長。

 ――その瞬間、風が裏返った。

 押し上げていた空気が、傘を通って吸い込むみたいに働き、半径二百メートルの人たちが「ふわっ」と戻った。中盤ツイスト。世界が、ほんの一拍だけ、逆回転した。

 ざわめき、そして拍手。誰も怪我はない。立ち上がった人々は服についた芝を払って、笑う。人間は頑丈だ。


 夜。庁舎に戻り、壁一面の地図を眺める。発生地点から着地点へ伸びる赤い糸が、日ごとに増えて糸巻きみたい。俺は一本一本を結び直しながら、微糖の缶を開ける。二本目は、いつも遅れてくる水谷の分。

「ねえ主任、今日の“戻り”はなに?」

「偶然……にしては、綺麗すぎる」

 俺は気づきかけていた。ランダムはランダムでも、“わずかに偏る”。みんな、心の向きに微妙に寄って飛ぶ。好きな場所、会いたい人、まだ言えていない言葉。その偏りが重なると、世界は一瞬だけ“戻る方向”を選ぶ。終盤ツイストの予感だ。


 「ピッ、ピッ……ピー」。また鳴った。

 窓の外で、風が踊る。俺はカラビナを外し、黄色い傘を開いた。ゼロの目盛りに親指。迷いは、ない。

 飛ぶ。

 夜景が帯になり、海と陸が入れ替わる。途中で同じように飛んでいる人と目が合う。ヘルメットの建設作業員が親指を立て、吹っ飛び犬用ハーネスをつけたコーギーが耳をばたつかせる。合流したランナー二人組は百キロ走の練習だと笑い、僧侶は数珠を握って「南無・広域帰還」と唱えながら気流に乗る。みんな着地しては、立ち上がる。人間は、頑丈だ。


 潮の匂いが変わる。見覚えのある灯台。あの日、ユイが消えた方角。

 世界が、また一拍、逆回転する。黄色い傘が吸い込まれる手応え。俺の胸の“偏り”に、風が合わせてくれる。

 砂浜に着地。膝を払う。遠くで、二短一長が重なって鳴る。

「遅いよ」

 ユイの声。笑ってる。無傷だ。

 俺は息を吐き、缶コーヒーを差し出した。「微糖」

 ユイは受け取って、笑う。「世界、優しいね」

「人間が頑丈だから、世界も甘くなるのかも」

 俺たちは黄色い傘をたたみ、ゼロの目盛りを親指でそっと押した。

 二短一長は、警報であり、合図だ。

 帰り道は、いつでも風任せでいい。

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