第02話 幼き記憶と川の音

 崖下で血に塗れた手を見つめていると、不意に頭を裂くような痛みが走った。


「……ぐっ!」


 膝をついた瞬間、知らないはずの光景が流れ込んでくる。


 暖かな食卓。

 だが、いつも父と兄の背中に隠れて泣いていた。剣も持てず、走ることすら遅く、使用人にまで笑われた。

 名をリオン・アルベール、5歳。

 貴族の次男として生まれながら、臆病で弱々しく、常に涙を流すばかりの少年。


 その情けない記憶が、俺自身の過去と混ざり合う。

 傭兵として血に慣れ切った俺と、泣き虫のリオン。

 二つの人格が、ひとつの身体に同居しているかのようだ。


「……チッ、まるで呪いだな」


 だが、ぼやいていても仕方がない。

 このまま山に留まれば、先ほどの連中の仲間に見つかる可能性が高い。

 何より、血にまみれた身体では動きづらい。


 川を探す。

 木々の間を歩きながら、耳を澄ます。

 やがて遠くから水のせせらぎが聞こえてきた。


 音を頼りに下り続け、やっと開けた場所に出る。

 澄んだ川が岩を削り、白い泡を立てて流れていた。

 俺はためらわずに膝まで浸かり、冷たい水で身体を洗う。

 乾いた血が流れ落ち、やっと肌が白さを取り戻す。だが問題は服だった。


「……クソ、落ちねぇ」


 布地に染みついた赤黒い色は、いくら叩き洗いしても消えない。

 水を吸った服は重く、しかも冷たい。

 だがこの世界に替えの服などあるはずもない。

 仕方なく、俺はビチャビチャのまま袖を通した。

 ぴたりと貼り付く布が気持ち悪く、子供の身体は震えを止められない。

 戦場で泥にまみれて寝ていた頃が懐かしくなるほどだった。


「はぁ……見てくれは最悪だが、背に腹は代えられん」


 岩に腰を下ろし、濡れた髪をかき上げる。

 冷たい風が吹き抜け、ビチャビチャの服がさらに体温を奪っていく。

 それでも、俺は川辺から視線を山の向こうへと向けた。


 泣き虫の貴族の次男坊リオン・アルベール。

 だが中身は血に慣れた傭兵。

 この矛盾を抱えたまま、俺は山を降りると決めた。

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