第5話 πと街とトラブル

 地球でも、南半球と北半球では星空が違う。

 まして異世界ならなおさらだ。

 しかし見慣れぬ星の海よりも、馴染みのない宗教や価値観よりも──男がいないという事実。それこそが、ヘカテリーナに世界が異なることを実感させた。


「で、では、子供は!? 子供はどうやって生まれるんですか!?」

「こ、子づくりですかっ──!?」


 ヘカテリーナは真っ先に浮かんだ疑問を口にした。

 デリケートな話題だ。アンネは耳まで真っ赤に染め、俯いてしまう。


 いや、しかし聞かねばならない。

 男が存在せず、巨乳が差別されるこの世界で。

 常識を知っておかなければ、要らぬトラブルを招くのは必至だ。


「──……です」

「え、なんですか?」

「“乳合わせ”ですっ! もうっ、ヘカテ様ったら! 何度も言わせないでください、恥ずかしいっ!」

「は──ちち、あわせ……?」


 今度はヘカテリーナが疑問符を浮かべる番だった。

 そんな反応を前に、アンネは頬を染め、(あ、本当にこの世界のことを知らないんだ……)と両腕で自分の胸を押さえた。

 女性の細腕で隠しきれるはずもない豊満な胸を、なんとか包み隠すように。


「その、ですね……おっぱいとおっぱいを重ねると、だんだんとあったかくなって……それで、お臍の下あたりに新たな命が宿るんです。神さまが祝福をくださるって、教えられてます……」

「は……へ……!? おっぱいで……子を授かるのですか!?」

「ふえっ!? ちょ、ちょっと声が大きいですヘカテ様っ! ──きゃっ!?」

「ふがっ!?」


 アンネは慌てた。馬小屋の壁は薄い。というか、半分無い。

 通りの人々の会話が聞こえるということは、こちらの声も筒抜けということだ。


 慌ててヘカテリーナの口を塞ごうと立ち上がったアンネだったが、“魔乳”と呼ばれるその重量バランスを制御しきれず──


 おっぱいダイブ!


 ヘカテリーナの視界は一瞬でおっぱいに包まれた。


「きゃーっ!? ご、ごめんなさいヘカテ様っ──ヘカテ様? ……ヘカテ様ーっ!?」


 返事はない。

 急なπ圧に包まれたヘカテリーナは、あまりの衝撃に気を失っていた。

 だが、その逝き顔は聖女を思わせるほど安らかだったという──。


◇◇◇


 翌朝。

 女店主──ものすごく胡乱げな表情をした──に礼を言い、宿を後にするヘカテリーナとアンネ。

 宿場町を出ると夜明けの光が、山の稜線を金色に縁取っていた。

 まるで二人の前途を祝しているかの光景に、ヘカテリーナは気をよくして領都ラウムへと続く峠道を進んでいた。

 道、と言っても現代日本人が想像するような舗装道路ではない。せいぜいが人が通った、という跡が分かる程度の、獣道に毛が生えたものだ。

 そんな悪路でも、理想の肉体はヒョイヒョイと踏破してゆく。

 おっぱいが大き過ぎて苦労してそうなアンネも、意外にも元気よく付いてくる。機械も道路事情も発達していない、この世界の住人の足腰は皆強いのかもしれない。


 それから半日ほど掛けて峠道を抜け、森を下り始めてしばらく。

 日が傾きかけてきた時分、遠くに白く巨大な輪郭が浮かび上がる。


「ヘカテ様っ! 見えてきました、領都ラウムです!」


 アンネが指さす。

 いや、指されなくても見えていた。巨大な城壁──平原に突き立つ灰白の巨塁。

 まるで大地に刺さった石の艦のように、都市全体をぐるりと囲んでいる。


「へぇ……立派な城郭都市ですね!」


 今までの道中から、この世界の文明は中世ぐらいだと推察していた。そんな中での巨大建造物だ。

 ヘカテリーナは胸を高鳴らせながら列へと向かう。検問に伸びる、長蛇の列に。

 二人はその最後尾に並んだ。


 待っている間、ヘカテリーナは周囲を観察した。

 本当に女性しかいない──これだけの人混みで、一人も“男”が目に入らないのは壮観ですらあった。

 そして視線が自然と胸元へ流れる。

 大小さまざまなおっぱいの群れ。

 善哉ぜんざい善哉──と思うのも束の間、ヘカテリーナは眉を顰めた。

 目につくのは胸の清らかな者ばかり。その理由は胸の大きい者ほど、身体を小さく丸め、髪で隠し、視線を避けるよう小さく縮こまっているからだった。


(……こんな公然と、巨乳差別がまかり通っているなんて!)


 ヘカテリーナは使命感に燃えた。

 すべてのおっぱいが胸を張って生きられる世界を作ってやる、と。

 そのとき──


 じぃっとこちらを見つめる、小さな少女と目が合った。

 その可愛らしいお嬢さんにヘカテリーナは柔らかく微笑んで、何気なく手を振った。すると少女はぱあっと花のように笑って振り返す。


 だが。


「やめなさいっ」


 少女の母親と思しき女性がその手を掴み、視線を遮るように体を滑り込ませて、ヘカテリーナを睨みつけた。

 ヘカテリーナが“準魔乳”だと気づいての反応だろう。


 ヘカテリーナの手が、視線が、宙を彷徨い、静かに溜め息を吐く。

 さすがの彼女も、ここは静かに押し黙ることにした。


 手持無沙汰になった途端、待ち時間は長く感じるものだ。連れと楽しく会話をしようとしてふと──さっきからアンネが妙に大人しいことに気付く。


「アンネ、どうしたんです? 先ほどから元気がないように見えますが」

「だ、だって……! ……ほかの巨乳の皆さんと同じですよ。目立つと、問題になりますから……。ヘカテ様に迷惑は掛けたくありません……」


 アンネはぎゅっと胸を両腕で押さえ、縮こまるように俯いた。

 そんなπを虐める姿勢を見て、ヘカテリーナは天を仰いだ。


「なんと勿体ない……!」

「へ……?」


 ヘカテリーナは熱弁する。


「アンネ、あなたが後ろめたく思う必要はないのです。こんなに素晴らしいπを持っているのですよ!? 誇ることはあれど、卑下することは一つもありません!」

「ヘ、ヘカテ様ぁ……!?」


 アンネが顔を真っ赤にし、周囲の人間がギョッとする中──すぐ背後から、下卑た笑い声が降ってきた。


「──聞いたかよ、今の。巨乳が“素晴らしい”だってさ」

「ぷっ……異常性癖ってやつ?」


 ヘカテリーナがちらりと視線を向けると、そこには冒険者風の四人組。

 全員胸が薄く、やけに露出が多い。いわゆるビキニアーマーというヤツだ。

 冒険帰りなのか、汚れてはいたが器量は悪くなく、色違いの揃いのビキニアーマー、その統一感はむしろ芸術的ですらあったが、言動で全てが台無しだった。


(……関わると面倒ですね)


 この手の手合いは、異世界でもきっと面倒に違いない。

 ヘカテリーナはそう決めて、前を向いた瞬間──


「──おい、無視してんじゃねえぞ?」


 悪意が、真っすぐにヘカテリーナたちへ向けられた。

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2025年12月9日 21:00
2025年12月10日 21:00
2025年12月11日 21:00

異世界の中心でπを叫ぶ 辛士博 @sakura_syokusyu

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