第4話 πと初めての夜

 夕暮れの宿場町。

 通りを抜けた先に、小さな宿屋が見えてきた。

 木製の看板には「旅籠エルナ」と掠れた文字。

 屋根からは湯気が立ち上り、窓からは温かな灯りが漏れている。


「わぁ……! いいじゃないですか、アンネさん。ここにしましょう!」

「えっ、そ、そんな急に……」


 アンネは不安げに裾を握る。

 だがヘカテリーナは迷いもなく、すたすたと扉を押し開けた。


「すみませーん! 一晩、泊めていただけますか?」


 上機嫌のまま受付へ進んだヘカテリーナに、店主の女性が目を丸くする。

 そして──その視線は、アンネの胸元に釘づけになった。


「……うちは、“魔乳”はお断りだよ」

「はい?」

「見りゃわかるだろ。でかいのは縁起が悪い。不幸を呼ぶんだ」


 ヘカテリーナはきょとんと目を瞬かせた。

 隣でアンネが小さく震える。


「……理由を教えていただけます? “魔乳が不幸を呼ぶ”という根拠を」

「……根拠だぁ? 変なこと言うわね。そんなもん、昔からそう言われてるからに決まってんだろ」

「なるほど、伝統というやつですね」


 まったく論理的ではない返答。

 それでもヘカテリーナは穏やかな笑みを崩さなかった。

 こういう相手に正論は通じない──経験で知っている。

 ならば、議論に時間を費やすよりも建設的な道を取るのみだ。


「では、泊まれる場所は?」

「はっ! ……馬小屋なら、空いてるけど?」


 挑発のつもりだったのだろう。

 “魔乳には獣舎で十分”という悪意が透けて見える。

 だが、ヘカテリーナは目を輝かせた。


「馬小屋!? ウィザード■ィでは定番の宿泊地ですね! ぜひ!」

「は、はぁ!? 馬小屋だよ!?」

「ええ、異世界旅情には欠かせません。──さ、行きましょうアンネさん。使用許可を頂いたことですしっ」

「あ、あの、ヘカテ様っ……!? ちょ、ちょっと待ってぇ!」


 女店主の口が半開きのまま固まる。

 その視線がヘカテリーナのデカケツに、いやらしく吸い寄せられているのを──ヘカテリーナはしっかりと感じ取っていた。

 けれど、あえて何も言わない。ただ、涼しい笑みを浮かべてアンネの背を押す。

 戸惑いのまま宿を後にするアンネ。

 その背を見送りながら、女店主はただポカンと立ち尽くすしかなかった。


◇◇◇


 夜。

 街の喧騒が遠のき、馬の鼻息と草の匂いだけが漂う。

 藁を厚く敷いた馬小屋の隅で、ヘカテリーナは満足げに腕を組んでいた。


「うん、悪くないですね。屋根もありますし、寝床も柔らかい。しかも無料!」

「ふ、普通は誰も泊まりませんけど……」


 アンネは落ち着かない様子で藁をつまみながら、ちらりと隣を見た。


(あ、あわわ……! へ、ヘカテ様と二人っきり……!)


 何度でも言うがヘカテリーナは絶世、という言葉が霞むほどの美女だ。

 パイが大きいのはマイナスだが、それ以上の魅力的なデカケツを持つドスケベ美女だ。

 故郷では独りきりで、淫キャ(※誤字ではない)を拗らせたアンネにとっては夢でも見ないシチュエーションだった。


「あ、あのヘカテ様、怒ってないんですか? あんな言われ方して……」

「怒る? 私が? ハハハ。あんなのはただの風評ですよ。世界のどこにでもあります。私の故郷でも、“胸が大きい女はバカだ”とか、“金髪は尻軽”とか、もうくだらない迷信がありましたよ」

「ヘカテ様の故郷、ですか……?」


 アンネは神々の住まう世界を想像したが、学のない彼女では真っ白な雲の上の世界、としか想像できなかった。


「ああ、いえ。やっぱりちょっと怒ってますね」

「え──」

「アンネさんのおっぱいを馬鹿にされたんです。その点に関してはハッキリと怒っていますよ私は」


 朗らかな顔から一転、真剣なトーンのへカテリーナに、アンネの顔が一瞬で真っ赤になる。

 ヘカテリーナはまるで気づかず、藁をふかふかと叩いた。


「それにしても、いいですねぇ藁。こうして寝転ぶと落ち着きますね。……ああ、ウィザード■ィのキャラクターもこんな気持ちだったのかなぁ」

「ウィ……先ほどもおっしゃられていましたが、それは何ですか?」

「なんと言いますか、うーん……異世界の古典ですかね。馬小屋に泊まって魔力を回復させて、回復した魔力で体力を回復したらまた泊まるんです」

「え、えぇ……?」


 なんだその非常識で非効率的な行動は──アンネはへカテリーナの故郷が心配になった。

 そんなアンネの反応もどこ吹く風。

 ヘカテリーナは馬小屋の窓枠から見える満天の星を見上げ、満足げに息を吐いた。


「アンネさん、この世界のことを教えてください。さっきから気になることがたくさんあって」

「え、えっと……私、あんまり詳しくないですよ?」

「構いません。あなたの知っている範囲で結構です」


 そうして始まった夜の語り。

 アンネの声は小さいが、どこか澄んでいた。


「この国──いえ、大陸は“聖乳信仰”が信じられていまして」

「聖乳? なんどか聞きましたが……」


 さっそく聞いたことのない単語にヘカテリーナは首をかしげる。

 そこからかとアンネは驚き目を丸くした。


「聖乳──ええと、清らかな胸のことを言うんですけど。……対して私のような大きな胸は“魔乳”と呼ばれて忌み嫌われているんです」

「……どうしてそんなことに?」


 色々と言いたい──おっぱいに聖も魔もない! すべてが等しく尊いのだ!──ことができたヘカテリーナだが、まずは要点だけを訪ねる。


「それは、はるか昔に世界を我が物にしようとした悪い神様がいたんですけど、その神様のお胸が大きかったみたいで……」

「……神話からの派生信仰ですか。ありがちな話です」


 ヘカテリーナはうんうんと頷きながら、藁の上で膝を抱える。


「それだけじゃなくてですね。……そのあと人類を滅ぼそうとした魔王が現れたんですけど、魔王の胸も大きくて──」

「ほう」

「人類に厄災をもたらした魔女の胸も大きくて──」

「……ほうほう」

「それ以外でも、世界を揺るがすような出来事の中心には胸の大きな人がいて……」

「なるほど。偶然も続けば必然と、そう考えたのですね。うーむ」


 ヘカテリーナは腕を組み考え込む。形のいい乳がむにゅりとい厭らしく──いや、嫌らしく変形した。

 アンネは視線を落とす。

 その胸がわずかに震え、藁の上で月光を反射した。


「……ヘカテ様は、怖くないんですか?」

「怖い? なぜです?」

「だって……大きいのに」

「むしろ、素晴らしいことじゃないですか。重力に逆らう努力の賜物ですよ」

「な、なんか難しいこと言ってますけど、褒めてます?」

「もちろん!」


 ヘカテリーナのあまりにいい笑顔に、アンネの肩の力が抜ける。

 そしてふっと、二人の笑い声が夜気に溶けた。

 その静寂の中で──ヘカテリーナがふと思い出したように口を開く。


「そういえば……アンネさん。街を歩いていて気づいたんですが、女性しか見掛けませんでしたが、男性はどこにいるのでしょう? 兵として招集されてるとか?」

「だ、んせい?」


 アンネは首を傾げる。まるで初めて聞いた言葉だ──そんな反応。


「えっと……髭があって、声が低くて、筋肉がついてる……あの、男の人」

「もしかして……魔物の一種ですか?」

「違いますよっ!?」


 ツッ──と、ヘカテリーナの背に冷たい汗が流れる。


「……アンネさん。という言葉は分かります?」

「オス、ですか? あの、オスメスのオスですか?」

「ですです」

「動物や魔物にいるヤツですよね?」

「ォーィェー……」


 ヘカテリーナは天を仰いだ。

 馬小屋の汚い天井が目に入った。


「……ではもう一度聞きます。ヒトオスは存在していますか?」

「えっ!? 人間のオスですか!?」


 驚きに目を丸くするアンネの反応でヘカテリーナは理解した。


 この世界に、男性はいないのだ──と。

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