第3話 πと異世界
それから二人は森を抜け、丘を越えた。
夕陽が傾くころ、土の道の先に小さな宿場町の屋根が見える。
「うわぁ……! 文明のかほり!」
ヘカテリーナが年甲斐もなくはしゃぐ。
彼女からすれば異文明どころか異世界文明なのだから、はしゃいでしまうのも無理からぬことだった。
そんな子供っぽい姿もアンネは内心「さすヘカ(※さすがヘカテリーナ様の略)」と信仰心を高めていた。
「宿、空いているといいですね」
「はい……」
微笑むヘカテリーナにアンネは告げられなかった。
空いていたとしても借してはもらえないだろう、なんて。
「うわぁ……赤い瓦屋根に煉瓦造り! うーん、ブダペストみたいですねぇ。あっ、あっちにはお馬さんが! お馬さんですよアンネさん! 可愛いですねぇ」
「は、はい……」
ヘカテリーナの声が弾むたびに、アンネの返事は小さくなっていった。
町の入り口。往来の人々の目が、無遠慮に彼女の胸をかすめていく。
好奇でも羨望でもない。
──忌避の視線。
アンネは背を丸めて、少しでも魔乳が目立たないようにした。
宿場町は、思ったよりも静かだった。いや、静かなのはヘカテリーナたちの周囲だけだった。
ヘカテリーナたち近づくと行き交う人々は目を伏せ、足早にその場を去ろうとする。誰もが、アンネと目を合わせない。
ヘカテリーナも気付いた。露店の女たちは胸元をきつく布で縛り、身体の線が分からないようにしていた。
薄手の服を着ているのは、子どもか老婆だけ。
(なんということでしょうか……! 本当に巨乳が差別されているなんて!?)
ヘカテリーナは驚愕が隠せなかった。
いや、前世の日本でも細身の女性が好まれる時代があったのは、知識としては知っている。そもそも着物は、そういう女性が着ると映えるように作られており、胸の大きな女性は胸を潰して身体の線を整えて見栄えを良くしているとも知っている。
だが、知っているのと、実際に目で見て実感するのは大違いだ。
それ故のショックだった。
何より──
「ねぇ、あのお姉ちゃん……」
「しっ! 見るんじゃないの」
路地の陰で親子が囁く声が聞こえた。
子供が無邪気にアンネを指さし、母親は子の視界を隠すと、ばかりかアンネを睨みつけてその場を後にする。
否が応でも異世界の“常識”とやらを見せつけられて、ヘカテリーナは悲しくなった。
──そんなときだった。
市場の広場にまでやってくると果物籠を抱えた少女が、アンネの胸元を見て叫んだ。
「魔乳だっ!」
その声が、群衆の中に火種を落とした。
ざわめきが広がり、怯えと嫌悪の入り混じった視線が集中する。
「あ……や、やだ……! ご、ごめんなさいっ……!」
「魔乳めー! これでもくらえー!」
アンネが見えない何かに怯えるように後ずさる。
少女は手の中のリンゴを、アンネに向かって投げつけられた。
──ぽすっ。
その悪意なき悪意を受け止めたのは、ヘカテリーナだった。
片手でリンゴを掴み、もう片方の手でアンネを背に庇う。
「おや。美味しそうなリンゴですね。お一つ頂けますか?」
ヘカテリーナの声は穏やかだが、どこか凛としていた。
魔乳の女しか目に入っていなかった少女は、突然のドスケベ闖入者に呆然とする。
「あ、うん……一個15メロになるよ」
「そうですか。……っと、すいませんアンネ。お支払いをお願いできますか?」
「あ、はい……」
しまりませんねぇ、と恥ずかしそうに頬を掻くヘカテリーナに見惚れていたアンネは、慌てて小袋を開き、震える指で銅メロを数えた
呆けていたのは周囲の人間も同様だった。
魔乳を庇うだけでなく、かといって激するでもなく。ただただ、優しく語り掛けるドスケベ美女に目を奪われてしまっていた。
しかしヘカテリーナは内心怒っていた。プンスカだ。
(娘ちゃん……君は悪くない。悪くないが、君たちの世界の常識が悪いのですよ! これでもくらって反省しなさい! 私が丹精込めて作った最高の美による笑顔を!)
「ありがとう。美味しくいただくよ(にっこり)」
「ふぎゃっ♥」
「ふにゅっ♥」
「はにゃぁ~♥」
──へカテリーナはとにかく顔面がいい。
それもそうだろう。神の手で造られたわけではないが、人の手で妄執を以て造られたのだ。更にケツデカで倍率ドン。胸が大きいのはマイナスだが、それを補って余りあるほどの
そんなへカテリーナの全身全霊、全力スマイル。
後光すら見えるそれに、少女の性癖は粉々に砕けた。流れ弾で周囲の女性の何名かも、へなへなとへたり込んでしまった。
ヘカテリーナは広場を見渡し、胸を張って言い放つ。
「よく聞きなさい。おっぱいに罪はありません!」
一変、甘い空気が凍った。
ヘカテリーナは怯むことなく、さらに言葉を続けた。
「小さいのも大きいのも、垂れたのも尖ったのも、すべて尊い自然の造形です! おっぱいを否定することは、生命の神秘を否定することです!」
市場のざわめきが、潮のように引いていく。
誰も何も言い返せなかった。
アンネは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ヘカテリーニャしゃまぁ~♥」
もう目がハートである。
自然と跪いて、祈りを捧げてしまった。
ヘカテリーナは振り向き、にこりと笑った。
「さ、アンネさん。行きましょう。人の目なんて気にすることはありません」
「……は、はひぃ♥」
異様な空気に包まれた広場を、へカテリーナとアンネの二人は堂々と歩いて行った。
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