第2話 πと魔乳の少女

 先の闘争の気配が嘘のように、森は静まり返っていた。

 倒れたテンプルナイツたちの薄い胸元が、かすかに上下し、その命に別状はなかった。


 アンネは震える指先で胸を押さえた。

 あれほど恐ろしかった鼓動が、今は違う意味で早鐘を打っている。


 目の前に立つのは──自分を救ってくれた女性。


 腰まで届くプラチナブロンドの髪が、木漏れ日に反射して黄金にも白銀にも見えていた。

 血の跡ひとつない肌。神殿の彫像のような整った横顔。

 胸は魔乳と呼ぶほどではないが十分に大きく、されど腰は折れそうなほどに細い。そして──


(うっ……♥ だ、ダメよアンネ! 助けてくれた人に欲情するなんてっ!)


 デッッッッッッなお尻ケツ

 乳が性的対象に見られない世界では、尻のデカさがエロスに直結していた。

 その点で言えばヘカテリーナは弩級のスケベ女だった。


(まるで、おとぎ話の“聖女様”……)


「? 大丈夫ですか、お嬢さん」


 柔らかな声。

 アンネははっとして、慌てて顔を上げる。


「……っ! あ、あの……あなたは……」

「私ですか? 私は、全てのおっぱいを救う者──ヘカテリーナ・リーゼロッテです!」


 唐突な名乗りだった。

 しかし、その堂々たる口調と姿勢に、アンネは息を呑んだ。


「ヘ、ヘカテリーナ……リーゼロッテ様……?」


 貴族を思わせる高貴な姓に、アンネは反射的にひざまずき、額を地面に擦り付けた。


「お、お許しくださいリーゼロッテ様! ま、まさかお貴族さまだなんて……!」

「いやいやいや、お待ちください!? なんでそんな神に祈るみたいな格好を!」

「お助けいただいたばかりか、無礼の数々! ど、どうかお許しを、お許しを!」

「いやいやいや、ですから違います違います! 私は貴族なんて大層なものでは──!」


 ヘカテリーナは慌てて手を振る。

 しかし、神も羨む造形美。何気ない仕草ひとつさえも神々しさを増して見えてしまうからタチが悪い。

 震えたまま顔を上げようとしないアンネに、ヘカテリーナは「参ったな」と呟き、大きく息を吐いた。


「えーと、お嬢さん? 実はですね、私……この世界の者ではないんです」

「……え?」


 アンネの動きが止まる。

 驚きのあまり顔を上げた彼女に、ヘカテリーナは少し恥ずかしそうに笑い掛けた。


「気づいたらこの世界にいて、右も左も分からなくて。前の世界では……まあ、ちょっとおっぱいを愛で過ぎて疎まれたと言いますか」

「……?」

「だから、この世界の常識も、人の暮らしも、ぜんぜん知らないんです」


 言葉を選ぶという概念が無いらしい。


 けれど──アンネには違って聞こえていた。

 “別の世界から遣わされた存在”。

 “人ではない、何か神聖なもの”。


 胸の奥が熱くなった。

 涙が滲み、震える唇から、自然と声が漏れる。


「……使徒様」

「ほえ?」

「この世界を救うために、神が遣わされた……使徒様なのですね……!」

「いやいや! 違う! ただのおっぱいオタクです!」

「いいえ、分かります。あなた様まとう輝きは……この世界のものではありません!」


 せっかく顔を上げたアンネは滂沱すると、ふたたび地面に額をつけた。

 ヘカテリーナは頭を抱える。


「ちょ、待って、やめて!? 信仰しないで! やめて!」

「使徒様! 使徒様! どうか私をお導きを……!」

「ちがうんですよおおおおおっ!」


 森の静寂に、ヘカテリーナの悲鳴が響き渡った。


 ──のちに“神の使徒”、“愛の伝道者”、“魔乳王”と呼ばれ後世まで語り継がれるヘカテリーナ・リーゼロッテ。

 彼女の伝説はこうして始まった。


◇◇◇


「ええと……その、落ち着きましたか?」

「は、はい……! ご迷惑をお掛けして申し訳ありません使徒様」

「ですから使徒ではないのですけど……。どうぞヘカテと気軽に呼んでください」

「そ、そんな畏れ多い! ……どうかヘカテリーナ様でご勘弁ください」

「はぁ……もうそれでいいです」


 困り果てたヘカテリーナの視線の先で、アンネはぺこぺこと頭を下げ続けていた。

 その動きで布越しの胸がたゆんたゆんと揺れ、ヘカテリーナの瞳は自然と吸い込まれた。


(ううむ、改めてすごいおっぱいです。彼女を救えてよかった。……しかし彼女はなぜ追われていたのでしょう?)


 今更ながら騒動の原因に思考が向いたヘカテリーナ。

 考えるよりも聞くのが早い。


「それで、お嬢さん? あなたはどうしてこの騎士──騎士でいいのかな?──に追われていたのですか?」

「えっ」


 ヘカテリーナとしては当然の疑問だったのだが、アンネの反応は信じられないものを見る目だった。

 巨大なおっぱい──不幸を呼ぶ魔乳は差別されて然るべき。そんなの、子供でも知っている。


「いえ、先ほども言ったように私はこの世界の人間ではないので、常識や知識に疎いのですよ」

「あっ、そ、そうでしたね。申し訳ありません使徒さま──ヘカテリーナ様」


 ずいぶんと気の弱い娘さんだ。事あるごとに頭を下げ、そのたびにデッパイがたゆんと揺れる。

 その度にヘカテリーナは幸せな気持ちになるのだが、真剣な思考を巡らすにはなんとも業の深い“へき”であった。

 深呼吸を一つ。気持ちを立て直したヘカテリーナは明るく言った。


「とにかく、危険は去りましたし一度あなたの村へ戻りましょう。お父さん、お母さんもご心配しているでしょう」

「お父──? ……いえ、村には戻れません」

「え?」


 ぽかんとするヘカテリーナの前で、アンネの瞳から大粒の涙が零れる。


「私は、……“魔乳”です。村に居場所なんて……ありません」


 その声音は、ひどく静かで、隠しきれない寂しさを称えていた。

 事情の知らぬヘカテリーナはしばし沈黙し、そしてゆっくりとうなずいた。


「……そう、ですか」


 何かを噛みしめるように目を細める。


「じゃあ、別の村を探しましょう」

「え?」


 アンネが顔を上げると、ヘカテリーナはまっすぐに笑っていた。


「どんな世界でも、人はどこかで生きられるはずです。あなたが胸を張って暮らせる場所──必ず見つけましょう!」

「……っ! ヘカテ、様……!」

「ああっ!? 泣かないで、泣かないでください!」

「も、申しわけ、申し訳ありません……! 申し訳ありません……!」


 何度も何度もパイを下げるアンネを、ヘカテリーナはおどおどと慰めるしかなかった。


◇◇◇


「落ち着きました?」


 本日二度目のやり取りである。


「は、はいぃ……! 何度も何度も申し訳ありませ──」

「ストーップ、です! そうパイを下げるものではありませんよっ。パイは歳月とともに自然と垂れるのを待つのみです」

「は、はいっ!」


 ヘカテリーナの言葉の内容は分からないが、(さすが使徒様!)とアンネの胸に、また温かいものが込み上げる。


「それで、この辺りでいちばん大きな街はどこですか?」

「え、えっと……ラウム領都です。けれど三日はかかりますよ」

「なら決まりですね! 領都へ行きましょう!」

「え、そ、そんな簡単に……!」

「いいえ簡単です! 人生は勢いです! 行動しないものに変化は訪れません!」

「変化……」


 その自信に満ちた笑顔に、アンネは感銘を受け、頬を赤く染めた。


「で、ですが……あ、あの……領都までは森も山もあって、夜は魔物も……」

「大丈夫です! 私と君がいれば問題ありません」

「は、はひぃ……♥」


 アンネの乙女心に、ヘカテリーナの笑顔が刺さる。

 神界で丸二日かけて磨き上げたヘカテリーナの顔面偏差値は、そりゃもう高い。たった一人で数値を引き上げるぐらいには。

 対してアンネの対人能力は、弱々だ。なにせ胸が大きくなってからというもの、親にすら距離を置かれていたのだ。人とのコミュニケーションに飢えていた。

 そんなところに全肯定ドスケベ美少女が現れたら、どっぷり依存も止む無し、である。


「さあ行きましょう──っと、その前に」

「?」


 いざゆかんと一歩を踏み出したヘカテリーナが、すぐに足を止めてアンネに振り返る。


「お嬢さん? お名前を教えて頂いても?」

「っ~……! あ、アンネです! アンネといいます」

「アンネさんですか! 良いパイに相応しい良い名前です! それではアンネさん、領都ラウムを目指して出発です!」

「はいっ!」


 そして大いなる一歩を踏み出したヘカテリーナだが、またも足を止めて困ったようにアンネに振り返った。


「……ところでアンネさん? ……ラウムはどちらでしょうか?」


 自信満々に踏み出した癖にしらんのかい! と常人ならズッコケるところだろうが、アンネは違った。


(ああ、ヘカテ様! 強くて格好良いばかりか愛嬌まで備えていらっしゃるなんて! アンネはどこまでもついていきます!!)


 恋する乙女は強かった。


【作者より】

 新作、はじめました(`・ω・´)

 ひとまず一章完結するまでは毎日投稿します!

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