異世界の中心でπを叫ぶ

辛士博

プロローグ

「──あの、まだですか?」


 女性の困惑声。

 女は女神だった。転生を司る女神だった。


「もう少しお待ちいただけますか」

「もう少しって……! もう一日以上経っていますよ!?」


 転生を司る女神であるからに、彼女の目の前には転生予定の魂があった。

 名は失くして久しい、ただの魂。だが自我が妙に強い。


「女神様。自分の器を好きに作れるのなら、妥協などできませんよ。何より大事なことがあるんです──胸部の造形です」

「……胸部、ですか」

「はい。おっぱいの妥協は人生の妥協です」


 何言ってんだコイツ──

 女神は白けた目を隠しもせず魂に向けた。


 それからさらに一日かけて、器は完成した。


「……すっごく厨二的ですね?」


 女神がぽつりと漏らす。


「女神様、こういうのは徹底的にやらないといけません。中途半端では後悔が残りますから」


 こだわり抜いた器は、女神が少し嫉妬するほどの美貌だった。

 光のあたり具合によって金にも銀にも見える、腰まで届くプラチナブロンド。瞳は逆の配置で赤と青のオッドアイ。完璧に整った顔立ちに、均整の取れた身体。


 そして胸部は──なるほど、女神だから理解できる芸術だった。

 盛り上がりは均整を極め、左右の調和は一点の曇りもない。

 その曲線は大地の丘陵を思わせ、柔らかな陰影はまるで古代彫刻の神像を彷彿とさせた。

 見る者の目を奪い、触れる者の心を酔わせ、ただそこに在るだけで世界に意味を与える。


「……胸を造形しているはずなのに、なぜか神話を読んでいる気分になりますね」

「当然です。おっぱいは人類が積み上げた至高の造形美。芸術の極致ですよ」

「はぁ……それでは転生させますが、よろしいですね?」

「はい。お願いします」

「最後に確認します。転生特典はこの“キャラクリ”だけでいいのですね? 経験値百倍、全知全能、不老不死──そういったものではなく?」

「もちろんです。理想の肉体をいただけるだけで十分です。それ以上を望むのは欲張りというものでしょう」

「……はぁ。では、よい人生を」

「ええ。女神様も、どうかお元気で」


 そうして魂は光に包まれ──。


◇◇◇


「……おぉ、本当に女になっている……!」


 深い森の中。生まれ落ちた新たな身体を見下ろし、彼──いや、彼女は感動に震えていた。

 大きく両手で胸を掴み、確かめる。


「すごい……完璧だ……! 理想通りだ……!」


 名はヘカテリーナ・リーゼロッテ。

 こだわりと妄執の果てに生まれた、新たなる自分。

 森の奥で途方に暮れつつも、すぐに顔を上げた。


「さて……まずは人と接触しないといけませんね。はい、第一村人発見といきたいところですが──む!?」


 そうして歩み出してすぐ、ヘカテリーナの耳に女性の悲鳴が届いた。

 ヘカテリーナは迷わず駆け出す。理想の肉体は彼女の思うように動き、足場の悪い森をすいすいと進む。

 ひとり感動するヘカテリーナの視界に第一村人が飛び込んできた。

 いや、第一どころではない。第二、第三、第四……いっぱいだ。


 いっぱいの女性が巨乳おっぱいの女性を追いかけまわしていた。


◇◇◇


 かつて、世界を我が物にせんとする魔神がいた。

 その胸は、豊かにして圧倒的。


 かつて、人族を滅ぼさんとする魔王がいた。

 その胸は、傲慢にして暴虐。


 かつて、世界に復讐せんとする魔女がいた。

 その胸は、妖しくして淫靡。


 人は恐れた。

 魔神も魔王も魔女も──その胸はすべて、大きかった。


 以来、巨乳は魔を呼ぶ乳とされ、魔乳と呼ばれるようになった。

 忌むべき烙印。生まれながらにして背負わされる、理不尽な罪。


◇◇◇


 アンネは、そんな世界に生まれ落ちた。


 田舎の村。痩せた畑と羊小屋ばかりの寒村で、彼女は育った。

 しかし彼女の胸は、村の誰とも違った。成長するにつれ、隠しようもなく膨らみ、その存在を大きく主張しはじめる。

 慎ましく清らかな聖乳ではない。災いを呼ぶとされる──魔乳。


「うちの子が魔乳だなんて……」


 母の視線は氷のように冷え、村人の態度は硬直し、親しかった友達も離れていった。

 アンネはうつむき、縮こまり、心の中で何度も繰り返した。


(魔乳になんて……生まれたくなかった……)


 ある日の昼下がり。

 村の広場がざわめきに包まれた。

 甲冑をまとった一団が現れたのだ。

 田舎には似つかわしくない輝く鎧、厳めしい十字の紋章。

 彼らは──聖乳ちっぱい教団のテンプルナイツだった。


「この村に、魔乳がいると聞いた」


 テンプルナイツのリーダーが冷たい声を発する。

 村人たちは顔を見合わせ、そして、一斉にアンネを見た。

 アンネの胸は一見──平たい。布で無理やり押さえつけているのだ。


「ち、違……! お、お母さん……!?」


 動揺を隠せぬアンネは無意識に母親へ救いを求めた。しかし──アンネの母は視線すら合わせなかった。どころか。


「アンタなんか生むんじゃなかったよ……!」


 忌々しげな呟きを、アンネはしっかりと聞いた。聞いてしまった。

 瞬間、彼女の心を絶望が覆う。


「あ、う……ああ……!」

「ほう? 正直に申し出るどころか聖乳と偽るとはな。これだから魔乳は救えん」


 誰も彼女を庇わなかった。誰もがせいせいしたと言わんばかりの表情だった。

 テンプルナイツの甲冑がザクザクと土を蹴り、徐々に近づいてくる。

 頭が真っ白になったアンネは──気付けば走っていた。

 生まれ育った村を必死に抜けて、森へ駆けこむ。


「逃げたぞ! 追え、追えーっ!」


(なんで、なんで……どうして!? おっぱいが大きいことが、そんなに悪いことなの……!?)


 涙でぐちゃぐちゃの顔。

 思考はめちゃくちゃで、足元も見えない。

 背後からは、ガチャガチャと幾つもの甲冑が迫る音が聞こえる。


 そして──現実は残酷だ。

 懸命に走ったアンネだが、無常にも追いつかれてしまう。

 鋼の剣がきらめき、逃げ場を失った。


「覚悟しろ、魔乳め!」

「や、やめて……! だ、誰か助けて……! 助けてくださいっ!」

浄乳じょうにゅう!」


 刃が振り下ろされようとした、その瞬間。

 木々を揺らすように、明るい声が響いた。


「おっぱい同士が争うなんて──悲しいことはやめてください!」

「!?」

「だ、誰だ貴様は!」


 森の中に飛び込んできたのは、金と銀の髪をなびかせた美少女。

 ヘカテリーナ・リーゼロッテ。

 剣先を突き付けられながらも、彼女は大きく息を吸い、叫んだ。


「おっぱいが──もったいない!!」


 理想の肉体を誇り、ヘカテリーナはアンネを庇うように颯爽と立っていた。

 そんな彼女の背中はアンネの目にはあまりにも眩しくて。

 涙でかすんだアンネには、あたかも黄金と白銀の翼がはためいているように見えた──

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