017 マイア登場、ぱんぱかぱーん!

 

 ──『蜂の子みたいに落ち着きのない、ぱんぱかぱーん娘』


 グレインの言葉を反芻しながら、俺は村の西側にある小高い丘を目指して歩いていた。


 足元の草を踏むたびに、ふんわりと土の香りが立ちのぼる。


 心地良い風が頬を撫で、どこからか甘い花の香りが漂ってくる。なるほど、この辺りが養蜂場なのだろう。


(「ぱんぱかぱーん」ねぇ……どんな子なんだろうな)


 少し身構えながら、丘の頂に立つ。


 視界いっぱいに広がるのは、陽光を浴びてきらめく色とりどりの花畑と、そこに点々と置かれた蜂の白い巣箱だった。


 そして──


「ちょちょちょっ! 見て見て!! これこれ!!」


 突如、澄み切った空気を切り裂くような、甲高く、そして異常にテンションの高い声が、頭上から降り注ぐように響き渡った。


 まるで、花畑のすべての蜜蜂が一斉に飛び立ったかのような、圧倒的なエネルギーだった。

 

 その声は、三角の猫耳に突き刺さるような勢いで、俺の思考を一時停止させた。


「今朝の蜂蜜めっちゃ香ばしいの! ねぇ嗅いで嗅いで! パンに塗るとね、もう幸せ! ぱんぱかぱーん!」


 声の主は、俺の目の前に、まさに現れた。まるで瞬間移動でもしたかのようで、俺は思わず息を呑んだ。


 明るめの褐色肌に、ぱっちりとした大きな目。


 ハニーブロンドの髪は二つのお団子にまとめられ、小さな蜂の飾りが揺れていた。


 その小さな体からは、どこからそんなエネルギーが湧いてくるのか、とんでもない勢いがほとばしっていた。


「わ、わ、わあ!?」


 あまりの勢いに、俺は一歩後ずさる。マイア、とグレインは言っていたか。

 

 確かに『蜂の子みたいに落ち着きのない』という形容が、これほどまでにしっくりくる人間も珍しい。まるで、目の前に巨大なエネルギーの塊が出現したかのようだ。


 マイアは俺の反応など気にする様子もなく、手にした小さな瓶を俺の鼻先にぐいっと突き出した。


 その中には琥珀色の液体がとろりと輝いている。


「ねえねえねえ! 嗅いでってば! パンの香りがさ、これでぐっっっと! 化けるのよ! もう最高なんだから! ねえねえねえ!」


「え、あ、はい……」


 恐る恐る鼻を近づけると、ふわっと甘く、それでいて奥深い香りが広がった。


 それは、ただ甘いだけでなく、どこか草原の緑や、土の匂い、そして陽光の温かさまでが凝縮されたような、複雑で豊かな香りだった。


 花畑の清々しさと、太陽の温かさ、そして微かに焦がしたような香ばしさが混じり合っている。


 その瞬間、俺の視界がわずかに歪み、蜂蜜の瓶が鮮やかな光を放って見えた。いつもの《ロックオン(食)》が発動する。


 俺の意識は、瓶の中の蜂蜜にだけ集中する。


 蜂蜜の色、粘度、そして複雑に絡み合った香りの粒子一つ一つが、まるで顕微鏡で覗いたかのように鮮明に浮かび上がった。


 その香りが、パンに与える影響までが、ぼんやりとだが理解できる気がした。


(これは、スキルレベルが上がった効果かな? ……すごい!)


 俺は、目の前の蜂蜜の持つ無限の可能性に、思わず息を呑んだ。


 俺の目が見開かれた。グレインの粉。そして今、マイアの蜂蜜。


 一つ一つの素材が、パンという終着点に向かって、それぞれが持つ無限の可能性を広げている。


「この香り……まるで、歌ってるみたいだ」


 俺の口から、素直な感想が漏れた。


「え、うっそ! ちょ、あんたちょっとセンスあるじゃない! そうそう! ハチの子たちも歌ってんだからね!」


 マイアは俺の言葉に目を輝かせ、その小さな手を伸ばして、躊躇なく俺の頭をわしわしと撫で始めた。


「んもう! この毛並みも最高! ふわふわ! 蜂蜜みたいにとろけるわ! あんた、モフモフの達人ね! ぱんぱかぱーん!」


(まただ……またモフられている……!)


 俺は内心で悲鳴を上げたが、マイアの弾けるような勢いの撫で方には、もはや身を任せるしかなかった。


 マイアの勢いに押され、何とか絞り出したような通知音が鳴った。




経験値獲得!

・マイアとの出会い 30EXP




(本当に元気な女の子だな! 前世で俺は暗いオフィスで黙々と仕事してたから……眩しい! 眩しすぎる! でも全然嫌な感じはしないね!)







 マイアは満足すると、くるりと身を翻し、軽やかなステップで蜂の巣箱の間を縫うように移動し始めた。その動きは、まさに蜜蜂のように小柄で機敏だ。


 周囲を埋め尽くす花々の上を、無数の蜜蜂がブンブンと羽音を立てて飛び交っている。


 その花々の間を縫うステップは柔軟で軽やかで、まるで花畑全体がそのリズムに呼応しているようだった。


「ねえねえねえ! あんたも手伝ってくれる!? 今ね、ちょうど新しい巣箱から蜜を採ってるとこなんだ! ハチの子たちもすっごく頑張ってくれてて!」


 そう言って、マイアは嬉しそうに巣箱の一つを指さした。周囲をブンブンと飛び回る蜜蜂たちは、マイアの周りだけは、まるでダンスを踊るように優雅だ。


 不思議と俺にも敵意を向けてこなかった。


 俺は素直に、マイアの作業を手伝った。


 マイアの手つきは驚くほど素早く、迷いがなかった。次々と蜂蜜が採取され、彼女の情熱がそのまま蜜蜂たちに伝わっているかのようだ。

 

 彼女は蜂蜜を採るだけでなく、蜜蝋や、花粉、プロポリスといった副産物についても、早口で情熱的に語る。

 

「これね、お肌つるつるになるのよ! パンに塗るだけじゃないんだから!」


 マイアは小さな瓶に蜜蝋を詰めながら、キラキラと目を輝かせた。

 

 彼女の持つ素材の一つ一つが、パンだけでなく、この世界の様々なものに「色」と「香り」と「潤い」を与えているのだと、俺は感じ入った。


 マイアとの作業を続けるうち、俺は自身の嗅覚が、以前にも増して鋭くなっていることに気づいた。


 蜂蜜の微妙な品種ごとの違い、花の香りの変化、さらには、それぞれの蜜蜂が持つ個性のようなものまで、微細な「匂い」として感じ取れるような気がする。

 

 これは《感覚強化(視・聴)》のレベルアップで、感覚がより鋭敏になっているからだろうか。


 そして、蜂蜜だけでなく、周囲の空気中の湿度や、花の咲き具合、土に含まれる栄養素といった、目に見えない情報までが、香りのように俺の脳裏に流れ込んでくる。


 まるで、世界が「匂い」と「香り」で満たされているようだ。


 俺は、ただ匂いを嗅ぐだけでなく、その匂いから、物語が紡ぎ出されるような感覚に、深い興奮を覚えていた。


「そういえば、あんた、サラと知り合いなんだって?」


 マイアがふと思い出したように尋ねた。


「うん。最近牧場で会ったよ」


「あの子、無口だからね~! でも、すごーく優しいんだから! ほら、見て見て! あれ、サラが育ててる蜜蜂ちゃんなの!」


 マイアが指差した先には、他の巣箱とは少しだけ違う、深く澄んだ瑠璃色の『ルリバチ』たちが飛び回っていた。


 彼らは一般的な蜜蜂よりも体が大きく、羽ばたく音が「ブゥゥゥン」と低く響く。


「サラはね、魔物と話せるんだよ。この子たちも、サラが特別にお世話してくれてる蜂ちゃんなの!」




魔物

・ルリバチ(香・C)

性格は極めて温厚な瑠璃色の蜂。攻撃性はほとんどなく、花の周りをブンブンと飛び回り、のんびり蜜を集めている姿が多く見られる。




 俺は驚いて目を丸くした。魔物と共生できるということは知っていたが、まさかサラが魔物と話せるとは。


 常識を覆されるような事実に、俺の思考は一瞬停止した。


「ルリバチの蜜はね、ちょっと特別な香りがするんだ! 普通の蜂蜜と混ぜて、隠し味に使うと、パンの味がぐっと深まるのよ!」


 マイアはいたずらっぽくウインクした。


 彼女の語る「香り」の世界は、俺にとって想像以上に奥深く、探求心を刺激するものだった。







 夕暮れ時、マイアは俺に、早朝に採ったという香料と蜂蜜を持たせてくれた。


 二つの素材が、夕日の光を浴びて、まるで小さな宝石のように輝いている。


「また来てね! ユウマっち! あんたのモフモフ、最強なんだからね! ぱんぱかぱーん!」


 マイアに満面の笑顔で見送られ、俺は養蜂場を後にした。


 手にした瓶からは、甘く、そしてどこか神秘的な香りが漂ってくる。


 その香りは、これから作られるパンの可能性を無限に広げてくれるような、確かな予感に満ちていた。


(グレインの粉、サラのミルク、そしてマイアの蜂蜜……。パンの深みは、この村のみんなの想いが織りなすものなんだな)


 俺は瓶を見つめ、ふと胸に温かい余韻を感じた。


 その琥珀色の光は、これから作られるパンが、ただの食べ物ではなく、村の絆を象徴するものになる予感を、俺にそっと伝えているようだった。




素材

・朝露の雫(香・C)

ルリバチが早朝に採蜜する、希少な高濃度の香料。冷気と香気を帯びており、口に含むと爽やかな甘みと花の余韻が広がる。品質補正+1。

・ルリ蜜(香・C)

ルリバチの巣から採れる、希少性の高い蜂蜜。一般的な蜂蜜と異なり、甘さよりも香りの広がりに重きがあるため、「香り蜜」とも呼ばれる。








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