015 閑話:もう一度、ふわっと
◆
どこまでも白く、微細な光の粒子が舞っている。足を踏み入れると沈みそうなほど柔らかく、甘い香りが鼻をくすぐる。
息を吸い込むたびに、胸の奥までふんわりと温もりが広がった──まるで発酵を待つパン生地の中に入り込んだような場所。
そこは天界の一角──『パンと創造の図書館』
透明な棚のように見えるそこには、焼成日や原材料、温度管理、発酵記録……およそパンに関するあらゆる情報が、それぞれ光り輝く『パン巻物』となって収められている。
そして、その一つ一つには、パンに込められた「魂の記録」までもが繊細に刻まれていた。
「──とうとう、焦げちゃったなあ」
香味担当の天使フラウナが、棚から黒く煤けた『パン巻物・第七巻』をそっと抜き取る。
表面はひび割れ、指先にざらりとした焦げの感触が伝わる。
彼女が痛ましげに撫でると、焦げた匂いがふわりと漂い、図書館の甘い空気を少しだけ苦く染めた。
「うむ! 内部までしっかり焼けすぎていた! あれはもう、疲れ切った精神の、まさしく
構造管理担当の天使レヴァンが、腕を組みながら深く頷いた。彼の顔には、苦渋の念が浮かんでいる。
「……寝かせも、加水も足りなかった」
発酵調整担当の天使アステアは、パン生地が呼吸するような、微かに震える声でささやいた。
静かな嘆きが流れるその空間に、ふわりと、それでいて確かな存在感を持って、光を纏った白いローブの人物が現れる。
彼は、膨らんだパン生地を優しくこねていた手を止め、虹色の瞳を静かに揺らした。
「うん。だからこそ、もう一度、寝かせてあげようと思ってね」
この世界を統べる神──アールニエルが、すべてを包み込むような、やさしい笑みを浮かべた。
◆
アールニエルの手のひらに、白い光の中に浮かぶ、小さな魂。
それは、かつて
「前は、
アールニエルの言葉に、天使たちが頷く。
「日本という素材に、一度混ぜ込んで、知識を吸わせた。発酵の土台としては良かったんだよ」
「でも、温度が高すぎたな!」と構造管理担当のレヴァンが、悔しそうに付け加える。
「湿度も不安定だったわ」と香味担当のフラウナも、悲しげな表情で続ける。
「……室温25度設定のはずが、常時40度超えてた……」と発酵調整担当のアステアは、まるで発酵不良のパン生地がしぼむような力ない声でつぶやいた。
口々に反省を述べる天使たち。
アールニエルはそれを遮らず、ただ温かく見守る。
彼女たちの真剣な顔つきは、失敗から学び、次へと繋げようとする強い意志を感じさせた。
「彼は……ちゃんとパンを愛し続けたよ。最後まで、心の奥底から。だから──」
アールニエルは、慈しむように手のひらの光をそっと包み込む。
その光は、あたたかな掌の中で、再び柔らかな熱を取り戻していくかのようだった。
「今回は、寝転がれる体にしておいた。ふわふわで、日向ぼっこもできる仕様」
◆
──転生時、ユウマとアールニエルが会話中。
天使たちが、ユウマとアールニエルの会話を、少し離れた後方からひそかに見守っている。
「ほら、ツッコミも、入れられるようになってますよ」
「うむ、いい感じだな!」
「……感情、出すにはツッコミが一番……」
ユウマがアールニエルの言葉に合わせ、大きなリアクションを取りながら、声を上げている。
その姿を確認するように、天使たちは一斉に札を上げた。
「10点!」とフラウナが札を掲げる。
「10点!」とレヴァンも満足げ。
「9.5点……(惜しい)」とアステアだけ辛口。
「……ほんと、君たちってやつは」
そんな天使たちの様子を見て、アールニエルは苦笑しながらも、それでも満足げにうなずいた。
◆
「本当はね、あの子にはもっと大きな役割を担ってほしいとも思ってた。でも──」
アールニエルの手のひらから解き放たれた光が、ゆっくりと宙を舞う。
「それは、彼自身がまた、パンを愛する心を取り戻してからでいい」
かすかに残る前世の何かが、彼の中で微かに揺れている。
──しかし、それが具体的に何かは、今はまだ誰にも分からない。
アールニエルは、その光を見つめながら、ふわりと慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「
小麦色の札をひらひらさせながら、天使たちが手を振る。
その反対側の手には、まるで宝物でも見せるかのように、日本で買ってきたお気に入りのパンが握られていた。
彼には届かないだろうが、それでも声を掛けずにはいられなかったのだ。
「香りは気持ちとセンスよ」とフラウナ。
「構造は設計が大事だからな!」とレヴァン。
「……水分飛ばしすぎ注意……」とアステア。
三人は胸の前で札を押さえ、まるで焼き上がりを見守るように、目を細めた。
白い空間に、再び
ふわっと、こんがりと焼けた薫香が広がって──
光が、ひとつ、地上へと落ちていった。
それは、もはや焦げ付いたパンではなく、新たな生を授けられた、温かく、柔らかなパン生地そのものだった。
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