015 閑話:もう一度、ふわっと


 どこまでも白く、微細な光の粒子が舞っている。足を踏み入れると沈みそうなほど柔らかく、甘い香りが鼻をくすぐる。


 息を吸い込むたびに、胸の奥までふんわりと温もりが広がった──まるで発酵を待つパン生地の中に入り込んだような場所。


 そこは天界の一角──『パンと創造の図書館』


 透明な棚のように見えるそこには、焼成日や原材料、温度管理、発酵記録……およそパンに関するあらゆる情報が、それぞれ光り輝く『パン巻物』となって収められている。

 

 そして、その一つ一つには、パンに込められた「魂の記録」までもが繊細に刻まれていた。


「──とうとう、焦げちゃったなあ」


 香味担当の天使フラウナが、棚から黒く煤けた『パン巻物・第七巻』をそっと抜き取る。


 表面はひび割れ、指先にざらりとした焦げの感触が伝わる。


 彼女が痛ましげに撫でると、焦げた匂いがふわりと漂い、図書館の甘い空気を少しだけ苦く染めた。


「うむ! 内部までしっかり焼けすぎていた! あれはもう、疲れ切った精神の、まさしくだな!」

 

 構造管理担当の天使レヴァンが、腕を組みながら深く頷いた。彼の顔には、苦渋の念が浮かんでいる。

 

「……寝かせも、加水も足りなかった」

 

 発酵調整担当の天使アステアは、パン生地が呼吸するような、微かに震える声でささやいた。

 

 静かな嘆きが流れるその空間に、ふわりと、それでいて確かな存在感を持って、光を纏った白いローブの人物が現れる。


 彼は、膨らんだパン生地を優しくこねていた手を止め、虹色の瞳を静かに揺らした。


「うん。だからこそ、もう一度、寝かせてあげようと思ってね」


 この世界を統べる神──アールニエルが、すべてを包み込むような、やさしい笑みを浮かべた。







 アールニエルの手のひらに、白い光の中に浮かぶ、小さな魂。


 それは、かつてに関わった存在の断片であり、今はただ、疲れ果てた青年の意識となって、安らかに眠っている。

 

「前は、側だったからさ。今度は、側になってもらおう」

 

 アールニエルの言葉に、天使たちが頷く。

 

「日本という素材に、一度混ぜ込んで、知識を吸わせた。発酵の土台としては良かったんだよ」


「でも、温度が高すぎたな!」と構造管理担当のレヴァンが、悔しそうに付け加える。


「湿度も不安定だったわ」と香味担当のフラウナも、悲しげな表情で続ける。


「……室温25度設定のはずが、常時40度超えてた……」と発酵調整担当のアステアは、まるで発酵不良のパン生地がしぼむような力ない声でつぶやいた。

 

 口々に反省を述べる天使たち。


 アールニエルはそれを遮らず、ただ温かく見守る。


 彼女たちの真剣な顔つきは、失敗から学び、次へと繋げようとする強い意志を感じさせた。

 

「彼は……ちゃんとパンを愛し続けたよ。最後まで、心の奥底から。だから──」

 

 アールニエルは、慈しむように手のひらの光をそっと包み込む。


 その光は、あたたかな掌の中で、再び柔らかな熱を取り戻していくかのようだった。

 

「今回は、寝転がれる体にしておいた。ふわふわで、日向ぼっこもできる仕様」







 ──転生時、ユウマとアールニエルが会話中。



 天使たちが、ユウマとアールニエルの会話を、少し離れた後方からひそかに見守っている。


「ほら、ツッコミも、入れられるようになってますよ」


「うむ、いい感じだな!」


「……感情、出すにはツッコミが一番……」


 ユウマがアールニエルの言葉に合わせ、大きなリアクションを取りながら、声を上げている。


 その姿を確認するように、天使たちは一斉に札を上げた。


 「10点!」とフラウナが札を掲げる。


 「10点!」とレヴァンも満足げ。


 「9.5点……(惜しい)」とアステアだけ辛口。

 

「……ほんと、君たちってやつは」

 

 そんな天使たちの様子を見て、アールニエルは苦笑しながらも、それでも満足げにうなずいた。







「本当はね、あの子にはもっと大きな役割を担ってほしいとも思ってた。でも──」

 

 アールニエルの手のひらから解き放たれた光が、ゆっくりと宙を舞う。


「それは、彼自身がまた、パンを愛する心を取り戻してからでいい」


 かすかに残る前世の何かが、彼の中で微かに揺れている。



 ──しかし、それが具体的に何かは、今はまだ誰にも分からない。

 


 アールニエルは、その光を見つめながら、ふわりと慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

 

、お願いね。ユウマくん」

 

 小麦色の札をひらひらさせながら、天使たちが手を振る。


 その反対側の手には、まるで宝物でも見せるかのように、日本で買ってきたお気に入りのパンが握られていた。


 彼には届かないだろうが、それでも声を掛けずにはいられなかったのだ。


「香りは気持ちとセンスよ」とフラウナ。  


「構造は設計が大事だからな!」とレヴァン。  


「……水分飛ばしすぎ注意……」とアステア。 

 

 三人は胸の前で札を押さえ、まるで焼き上がりを見守るように、目を細めた。

 

 白い空間に、再びの光が灯る。

 

 ふわっと、こんがりと焼けた薫香が広がって──

 

 

 光が、ひとつ、地上へと落ちていった。


 それは、もはや焦げ付いたパンではなく、新たな生を授けられた、温かく、柔らかなパン生地そのものだった。







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