007 焼きたて食パン、正味それは極楽への入り口
パン屋の木の扉の前に立つ。
わずかに開いた隙間から、焼きたての香りが微かに漏れ出し、俺の鼻腔をくすぐる。
その香りは、心臓がドクドクと高鳴るほどに、全身を騒ぎ立たせる。まるで、遠い故郷の記憶を呼び覚ます呪文のようだ。
パン屋の扉が開いた瞬間、それまで抑えられていた熱気と香りが一気に、全身を包み込むようにあふれ出した。
──世界が、パンになった。
まるで、焼きたての奇跡が空気に溶け込んでいた。店全体が、パンの香りで満たされた聖域のようだ。
(……あかん、もう香りだけで幸せすぎる……)
「さぁ着いたぞ。パン屋じゃ」
めちゃくちゃ早歩きで付いてきたガランが、ふわっとした口調で言った。
気づけば、俺、ミミ、ロッコ、そしてガランの一行は揃ってパン屋の前に立っていた。
引き戸の奥からは、ジュウ……という焼き釜の音。
時折、チリチリと薪がはぜる小さな音も聞こえる。
すでに心拍数が危険な域に達している。マイ・ハートレートッ!!!
「いらっしゃいっ!!」
カウンター奥から、元気な声が響いた。
現れたのは、小柄で金髪の少女──140cmあるかないか。
お団子に三つ編み、真っ白なエプロン姿で、ほっぺにはうっすら小麦粉。
その笑顔は、まるで焼きたてのパンみたいに温かい。
「わっ! ほんとに来たんだ、猫の子!」
俺を見て目を輝かせる。
「ミミが言ってた通り! わたしはティナだよ! よろしくね!」
「やきたてあるー?」
とミミが先に声をかけると、少女はパッと笑って奥に駆けていった。
「あるある! ちょうど今、食パンが焼き上がったとこ!」
湯気とともにトレイに乗せられて運ばれてくる、それは四角くて、表面はつややかな黄金色に輝いている。
角は丸く、見るからに柔らかそうだ。
パンの頂からは、まだ温かい白い湯気がふんわりと立ち上っている。
「ちょっと冷まし中だけど、少し食べてみる?」
差し出されたパンを目の前に、俺の脳内でアラートが鳴り響く。
もうこのパンから目が離せないっ!! まるで磁石に引き寄せられるかのように、視線が固定されてしまう……《ロックオン(食)》が発動したのか?
(……ちっ! スキルなんかどうでもいい! いざゆくぞ……! 対戦よろしくお願いしますっ!)
──そのまま、一口。
(……っ!!)
舌に触れた瞬間の衝撃。脳の奥で何かが弾ける音がした。視界がパンの黄金色に染まり、全身に電撃が走る。
ふわっ、もちっ。甘っ、香ばしっ。
なのに重くない。舌にふわっと、感触だけを残して消える。
これは、雲が形になったもの。柔らかさの暴力。小麦の奇跡。
──脳の奥底から、なぜか馴染みのある、しかし自分のものとは思えない声が、勝手に響き始めた。
「あかん、あかん、あきまへんでこれ~!! こんなもん出されたら、もうあかんやんけ~!!」
俺は食パンを両手で包み込んだ。
「この食パンな、もうふわっふわのもっちもちで、何やこれ~!? 雲食うてるんか思うたわ~! 耳まで美味いって何やねん!! なんでこんなに柔らかいねん~!?」
ティナの方を向き、両手でブンブンと握手を求める。
「小麦粉はんありがとう~、イースト菌はんもありがとう~、ティナちゃんもホンマおおきに~! みんながこの食パン作ってくれたんや~!!」
もう一口。幸せで膝から崩れ落ちる。
「バターつけたらもう天国や~、ジャムつけたら極楽や~、そのまま食うても涅槃や~!」
ふと思いつき、その場にいない誰かに両手を合わせて謝る。
「地方の天気予報はいつも大都市と一緒くたや~! 堪忍な~!」
また食パンに集中する。
「前世で食パン何回食うたかな~? その数百回よりもインパクトでかいて何なん~? トースターがないご家庭は魚焼きグリルに水入れて焼くとええよ~!? フレンチトーストにしたらもう死んでまうで~!!」
俺は食パンを抱きしめた。これは俺のだ!
「あ~、幸せ~、この世に生まれてきてよかった~! にゃんにゃにゃ~ん! 飴ちゃんやろか~?」
──この怒涛の賛美に周囲が圧倒されている中、またもや俺の脳内で一斤の通知音が暴れまわり、力が漲ってくるのを感じた。
経験値獲得!
・パン賛美E 300EXP
・ティナとの出会い 30EXP
レベルアップ!
・LV4→6(180/200)
パン
・いつものしっとり食パン(E)
黄金色に輝くふわふわの生地は、しっとりとした食感と優しい甘みを秘めている。耳まで柔らかく、小麦の旨味が口いっぱいに広がる究極の朝食パン。
……いや、また大量の経験値がもらえたんだが? レベルも6になってるし。
パン賛美に補正が掛かってるのは間違いないな。ティナとの出会いの10倍ですよ!
パン賛美の横にあるアルファベットはパンの「ランク」を表してるのかな。前回は確か……「D」だったし。
──なんて魅力的な世界なんだ! パンを食べて称賛すれば(無意識だけど)成長できるなんて! 神様ありがとう!
俺がそんなことを考えてる中、店内が、しんと静まり返っている。
ミミとロッコがぽかんと口を開け、パン屋のティナは手にパンを持ったままフリーズしていた。
「……なんか、すっごい喜んでるね……?」
ようやく絞り出したその一言に、ガランが目を輝かせながらにっこり微笑む。
「ふむ。感応値が常人の範囲を超えておるな。記録しておこう」
──そして。
コツコツ……と、店の扉の外から聞こえる複数の足音。
向かいの通りを歩いてくる、背の低い二人の男性の姿が見えた。
(あれって……? まあいいか……そんなことより、食パン美味すぎぃぃぃぃっ!)
──新たな村人との出会いよりも、俺は食パンの余韻にずっと浸っていたのだった。
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