003 ユウマ、パンタニアに降り立つ
──やわらかな土の匂いがする。
鼻先をくすぐる湿った草の香り。遠くで鳥が澄んだ声を響かせ、木々の葉がそよぐ。閉じたまぶたの上に、淡い日差しがじんわりと染みこんでくる。
その瞬間、地の底のどこかで「ゴウン……」と低い遠鳴りが響き、世界そのものがかすかに震えた。
「……ん、ここは……?」
ゆっくり目を開けると、見上げた空はどこまでも青くやけに鮮明だった。澄み切った空気を肺いっぱいに吸い込んでみれば、全身の細胞に行き渡るような清々しさだ。
「……ああ、そうか。そういや、神様と話してたんだったな……」
ぼんやり思い出して上体を起こす──その瞬間、体がふっと浮くように軽くて、力加減を間違えると空へ飛んでいきそうなほどだ。
それに何より手の先端が白でふわふわ、そよ風に揺れる黒い体毛に覆われている。視界が低く、足元のむにゅむにゅという違和感にも気づいた──肉球だ。
そして──腰のあたりに妙な感覚がある。
恐る恐る後ろに手を回すと、モフモフの柔らかな毛並みに触れた。
「……ちょっと待て……」
振り返ると、黒と白のしっぽがゆらりと揺れていた。しっぽは本能で勝手に動き、体のバランスを微調整する。筋肉の連動、重心の位置、耳が拾う音の広がり──どれも人間の頃とはまるで違う。
「……マジかよ……」
周囲を見渡すと、都合よく数歩先に小さな湖がある。近づいて水面に映る自分の顔を確認すると、あら不思議。
体毛は黒と白のハチワレ猫じゃねーですか。ぴょこぴょこと、三角耳もわずかに動く。
(あっぶねぇ……耳とその付近が青っぽいタイプのハチワレじゃなくて良かった……人間より二足歩行の猫って感じだな)
「……マジで猫獣人になったんだな……こんなにも体が軽く感じるなんて……前世でどれだけ疲れていたんだろう……ぐすん」
慌てるというより、不思議と落ち着いている感じがした。これまで背負っていた重荷が全て消え去ったような開放感があった。
神様が言っていた『自律神経ケア個体』の効果かもしれない。さんくす。
一応ステータス画面でも確認するか、と考えた瞬間、目の前にふわりと半透明の画面が現れる。
名前:ユウマ
年齢:12歳
種族:猫獣人
特性:自律神経ケア個体
LV:1(0/100)
HP(体力):80
MP(魔力):35
STM (スタミナ):30
疲労度:0/10
STR(筋力):6
AGI(敏捷):15
SEN(感覚):14
DEX(器用):10
VIT(生命):8
MEM(精神):7
称号
・転生者
・働きすぎた者
スキル
・にゃんぱらりLV1
・やんのかステップLV1
・ロックオン(食)LV1
・ステルス歩行(低)LV1
・感覚強化(視・聴 )LV1
・臨戦態勢(常時)LV3
???スキル:※未開放
「スキルは……神様と一緒に見た内容と同じだな。まあそうだよな……」
(とりあえず人がいそうな方向へ歩いていきながら、道中でスキルの検証もしてみたいな……まあでも、魔物がいる世界だってことだから……気を付けないと)
気を引き締め、森の中をゆっくりと歩き出す。足裏の肉球が、土の柔らかな感触を吸い取るように心地いい。
地面に吸い付くような、しかし軽やかな歩み。足音は絨毯の上を歩くように響かなかった。気配も風に溶けるようにかき消される。
(これは《ステルス歩行(低)》の効果かな。……勝手に発動してくれるのは、ありがてぇ)
◆
しばらく歩いていると、やがて少し開けた場所に出た。
そこで見つけたのは、小さな羽をパタパタと懸命に動かし、ふよふよと宙に浮かぶ、焦げ茶色の四角い物体。
「……食パンが……浮いている……だとっ!?」
いや、違う。モチっとしたフォルムに鋭い目つき、ギザギザの歯まで生えてる。まさにどこか見覚えのある、食パンの耳の色だ。
魔物
・ブレッドバット(酵・E)
(魔物の情報も表示されるのか! Eはランクだな、たぶん。でも『酵』って……)
「発酵の酵? 酵母ってどういうこと!?」
思わず声に出してツッコんでしまった。
(……いや待て、パンに関係する属性ってことか? この世界、パンと魔物が関係してんのか……?)
「……うーん……なんとかやり過ごせないものか…怖いし」
と悠長に考えていると、ブレッドバットが甲高い羽音を立てながら、こちらに向かって一直線に突進してくる。
(うおいっ! まじかよ! なんでいきなり攻撃してくるんだ!?)
反射的に後ろに跳ぶと体が空中でくるりと回転する。まるで本能がそうしろと命じているかのように、しなやかに。
(……っ!! これはスキルというより猫の身のこなしに近いな……じゃあここで、使ってみるか!)
「《にゃんぱらり》!」
空中で背中をしならせ、四肢が自然と着地態勢を取る。猫としての根源的な本能が意思を超えて体を支配する。
(おお! スキルがちゃんと発動したぞ!)
ふわりと軽やかに着地──
その瞬間、わずかに息が上がった。
(……ん? たった一回のジャンプで? この体、意外とスタミナないのか……?)
ブレッドバットはそのまま空を切り、勢い余って木に激突した。
突撃の反動で魔物はシュウっと音を立てて崩れ落ち、パンくずのように消滅する。
「……これはラッキーだったな。ナイス誘導ということにしておこう、うんうん」
地面には、一枚の草のようなアイテムが残されていた。
素材
・発酵草(酵・E)
パンなどの発酵促進に使われるごく普通のハーブ。
「いやいや、魔物からパンの素材がドロップするって何なんだよ……世界観どうなってんだよ……」
パンと魔物の関係にツッコミを入れていたその瞬間──
経験値獲得!
・Eランク魔物 (ブレッドバット) 10EXP
体がふわっと軽くなり、全身を何かが駆け巡るような感覚に包まれる。
「おおっ……これが、経験値獲得……」
ステータスには、『LV1(10/100)』と表示されていた。魔物を倒すと経験値がもらえる。やっぱりゲームみたいだな。次のレベルまではあと90の経験値が必要なのか。
──その直後、まるで電源が落ちたかのように、全身から力が抜けていく。
「……っ、あれ……?」
急激な倦怠感と、全身に重たい分銅がのしかかるような脱力感が、一気に押し寄せてきた。脚に力が入らない。一体なんでだ?
ステータスを確認すると、『疲労度:10/10』となっている。
まじかよ、森を少し歩いて魔物1体と戦闘しただけなのに……。
(……もしかして、称号の効果とか……?)
かすむ視界の中、ステータスの称号欄を見る。
称号
・働きすぎた者
過労死者の証。疲労度が通常の2倍溜まりやすい。
「……は? まじか……」
苦笑いすらもう出ない。
「働き過ぎ、か……。命のやり取りなんて、したことなかったからな……たった1体倒しただけで、これかよ……」
前途多難すぎる。
まぶたが重くなっていく。視界がにじんで歪んでぼやけていく。
「ちょっと……休まなきゃ……っつって……」
地面に体を投げ出す。体の奥から冷たい倦怠感が這い上がってくる。
薄れゆく意識の中でふと目の前にさっきのドロップ素材が見えた……!
(これはパン作りに使えるんだろっ!? なら、死んでも離さんっ!!)
と最後の力を振り絞り、なんとか発酵草を小さな肉球に収めることに成功した。
──その時、森の少し先の方から誰かの声が聞こえた気がした。
『……おーい、大丈夫かのう? こんなところで倒れて……』
(誰かが来た……声が……よかった……)
でも、もう考える余裕もなかった。
誰かにふわっと、しかし確かな力で抱きかかえられた感覚だけを残して、俺の意識は温かい闇の中へと落ちていった。
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