パンタニア見聞録~転生猫獣人はパンの食レポで異世界を救うらしい~

倉田六未

プロローグ

はじまりの影

 巨大な銀狐が、目の前にいた。


 体長は三メートル。月光をすくったように揺らめく銀灰の毛並み。しかし、その体から滲み出す魔属性の淀んだ影は霧と混ざり合い、時折、原色の魔力の残光のような紫や緑を走らせていた。その輪郭は、一定の形を保つことを拒むように不確かだった。

 

 瞳だけが湖底の光のように深く沈み、俺をひとつの点として見つめている。


 息をしているのか、生きているのか──その気配さえ掴めない。


 伝説の影獣。その一種らしい。


 圧倒的な存在感に、俺の爪だけが鈍い鉛色に震えていた。







 銀狐が動いた。


 音も迷いもない。ただ「仕留めに来た」という意志だけを動きそのものに凝縮させたような肉食獣の最短距離の踏み込み。


 心臓が跳ね喉まで競り上がる。


「《やんのかステップ》!」


 左右へ細かく揺れ、わずかに視線を散らす。


 銀狐の瞳がゆらりと泳ぐ──今だ。


 横へ跳んだ瞬間、六本の尾が空気を裂いた。風圧だけで毛が逆立つ。鼻先を掠めただけなのに、そこには確かに死の匂いがあった。


「……あっぶねぇッ!」


 着地したつもりが、地面が震えたように感じる。いや違う──

 

 銀狐が、すでに次の一歩を踏み出している。


 影が覆いかぶさり、霧の尾が鞭のように空間を薙ぐ。


「《にゃんぱらり》!」


 樹を蹴って空へ逃れ、一回転して体勢を整え──

 だが苔で滑った。膝で衝撃を殺すが、着地は崩れる。


 その一瞬のズレで、銀狐はもう目の前にいた。四肢がしなり、音を置き去りにしながら迫ってくる。


 ──速い。強い。格が違う。


 呼吸が追いつかない。心臓が喉を突き破りそうだ。


 勝てない──。


 樫の木の上ではミミが震えている。涙の跡を頬に残したまま、必死に俺だけを見ている。


(……守らなきゃ!)


「させるかッ!」


《感覚強化(視・聴)》が発動する。


 空気が色を帯び、枝の動きにまで音の余韻がまとわりつく。銀狐の呼吸、筋肉の収縮、影の揺らぎ──そのすべてがゆっくりと見える世界に変わった。


 そのとき、銀狐の六本の尾がぶわりと広がった。


 霧の帯は三本に見え、次の瞬間には八本に増え、また六本へ戻る。尾は実体と非実体の境界を揺らすように回転し、風もないのに焦げたパンの端がぱちっと弾けるような音だけが遅れて耳へ届いた。


 ユウマの心臓が、彼方の記憶の片隅を掴んだように激しく震えた。


(……なんだ、あの動き……?)


 怒っているのでも、威嚇でもない──

 むしろ感情が高ぶった生き物の動きに近い。それが余計に怖い。


 右前足に熱が集まる。

 肉球の奥で何かがチリチリと震え、指先が焼けるように痺れた。


 爪が鈍く光る。


 鉛色だった爪が、鋭い刃へと形を変える──これは、なんだ?


 知らない。でも知っている。

 使ったことなどないのに、体が、魂が覚えている。



 ──この力を解き放て。



「くらえッ! 《肉球スラッシュ》!!」


 右前足を振り抜いた。


 ザシュッ。


 霧を裂くような手応えが爪を伝う。


 銀灰の毛皮を斬った感触はない。それでも影の飛沫が宙へ舞い、粉光のような粒がぱちんと弾けた。


 血じゃない。影そのものが、傷ついている……?


 飛沫はすぐ形を失い霧散し、銀狐の体が大きくのけぞる。


 視線が交差する。


 そこに宿るのは、怒りじゃない。

 俺を試すような──いや、それ以上に、何かを確かめる眼光。


 六本の尾が一度だけ、くるりと回転した。


 そして銀狐は、月影のように音もなく、森の奥へと消えていった。







「……ふぅ……まじで……やばかった……」


 全身から力が抜ける。汗が滝のように噴き出し、鼓動が耳奥で暴れ続ける。

 黒白の毛並みは泥と汗でべっとり張りつき、翡翠のマントも土埃まみれだ。


 右前足はまだ痺れている。爪は元の鉛色に戻っていた。


 脳内に通知音。




経験値獲得!

・???と戦闘 1000EXP


レベルアップ!

・15→17


スキル習得!

・肉球スラッシュLV1


スキル成長!

・にゃんぱらり LV1→LV2


称号獲得!

・駆け出しの爪




「……は? 『???』って正体不明かよ。倒してないのに、経験値1000?」


 強くなった実感と全身を巡る疲労が同時に押し寄せる。


「モフさま、すごかった!」


 木から降りてきたミミが、涙の跡を残しながら笑う。


 ミミは無事だった。


 ──それだけで、十分だ。







 ──どうして、こうなった。


 ただのんびり暮らしたかっただけなのに。


 あの銀の影は、なぜあんな目で俺を見つめた?

 俺を試すように──いや、何かを確かめるように。


 そして、なぜ元日本人の俺がこの世界にいる?

 猫獣人として生きる、この場所に──。


 その答えは──。


 神様との、あのクロワッサン談義から始まる。








(プロローグ 終)


次回、「転生前夜のパン談義」


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