脱水臨界点
クソプライベート
過剰性能
停電速報アプリが鳴った。原因は「個人宅からの逆潮流の異常」。地図の赤点は、正確にうちの屋根を指していた。
「……またやったか」
冷蔵庫にマグネットで留めた電気代の明細が、赤字で膨れている。横には自分で書いたメモ――〈回せば乾く、乾けば軽い〉。口癖みたいな慰めだ。
脱水槽の透明窓の向こうで、銀色のリングが青白く揺れている。洗濯物は入っていない。改造後の“試運転”だ。圧力鍋から外したホイッスルが配管に噛まれ、かすかな高音で息をしている。
事の始まりは単純だった。干すより早く、静かに、服を乾かしたかった。ついでに少しでも電気を戻せたら、と。軸受けを替え、不要家電から取り出したコイルを巻き直し、脱水槽の外側にリングを一つ、二つ。密閉を良くするため、台所の圧力鍋のパッキンを借りたら、回転域がすっと伸びた。
「臨界、手前」
自分でつぶやいて苦笑する。物々しい言葉は、だいたい素人の安全装置になる。
リングの縁に、弱い青が集まる。洗剤のボトルに貼ったラベル――〈試験用・重い水〉――の存在を思い出す。近所の観賞魚店で買ったミネラル水をいじった結果だ。理屈は胸の中で混線したまま、結果だけが目の前にある。速度が上がるほど、メーターは逆に回り、家中の時計が一瞬だけ未来へ跳ねた気がした。
玄関が叩かれた。電力会社の腕章と、スーツの人たち。
「田所さん? いま、ここからメガワット級の逆潮流が――」
「メガは大げさだよ。せいぜい町内のコインランドリー三台ぶん」
冗談は空中で凍る。脱水槽の音が一段階、低く太くなった。ホイッスルが警告音に変わる。
「止めましょう。今すぐ」
「止め方は、わかってる」
圧力鍋の安全弁は、最後に残した自分の逃げ道だ。バルブを少しずつ緩める。青は薄まり、音は人間の耳に降りてくる。床下のインバータが、咳払いみたいに電気を吐き出すのをやめた。
静かになった作業場で、誰かが質問する。「これは、何ですか」
「洗濯機だよ。うちの、ね」
「洗濯機が、中性子を加速して、発電している?」
「名前はどうでもいい。ただ――回すほど乾く、乾けば軽い。重いのは、洗濯物だけじゃなかった」
その言葉に、青い洗濯バサミが視界の端でちらつく。妻が使っていたやつだ。化学実験で白衣を濡らして帰るたび、冬は乾かなくて、ヒーターの前で眠ってしまった夜があった。あの重さを、少しでも軽くしたかった。電気代の数字も、ため息も。
スーツの一人が、机の端のスケッチに目を留める。油性ペンで描いたリングの配置、ホイッスルの位置、バンドルされた配線。伏線のように机上に並ぶ。
「危険は?」
「ある。だから、ホイッスルをつけた。家庭で運用できるラインは、ここ」
僕は圧力計の針を指で叩き、逃げの余白を示す。
外で子どもの声がする。「田所さんち、電気が戻ってきた!」
スーツの人たちは顔を見合わせる。
「世界が欲しがる技術です。独占的に管理すべきだという意見も出るでしょう」
「独占は重い」
青い洗濯バサミをつまむ。プラスチックの軽さは、時間に勝てない。だから仕組みで軽くする。
「設計は公開する。安全弁と、臨界手前のルール込みで」
彼らは沈黙し、やがて頷いた。利害を超える瞬間の、短い呼吸。
夜が深くなる。試作機は冷め、部屋の空気が普通に戻っていく。ホイッスルを外し、棚に戻すと、金属が小さく鳴いた。
冷蔵庫の赤い明細の上に、新しいメモを貼る。〈回せば乾く。乾けば、世界は少し軽い〉
明日、図面を清書して、公開する。名前は――「家事用中性子加速式脱水装置」。長い。けれど、いい。
青い洗濯バサミで、妻の白衣を窓辺に吊るす。外は静かだ。街の遠くで、誰かが洗濯機を回す音がする。
回る音は、軽くなる音だ。僕はその音を聞きながら、背中の重さが少しほどけるのを感じた。
脱水臨界点 クソプライベート @1232INMN
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